一話完結

文字数 3,258文字

 今日も燦々とした晴れの日だった。
 目に映る炎は真っ赤に燃えており、吹かれた風に靡かれながら踊っている。マッチを手に持ち、作業のように線香に灯した。たった一本、差し入れる。
 手のひらを合わせて目を閉じると、声が聴こえてきた。
 明るく、ハツラツとしていて、それでいて透き通る声。
「着衣泳ってあるじゃない。ほら、服を着たままプールに入って泳いでみるって。小学校の頃やらなかったっけ。あぁ、そっか。そういえば休んでたね。それで、みんなプールから出てさ、びしょびしょになって肌に密着した服を嫌そうな顔で肌から離して。わたしもその時は一番のりみたいに服を脱いで水着だけになったけど、いま考えてみると、あれって将来のための予行練習だったんじゃないかな」
 また意味の分からないことを言っている。
「溺れたらさ、服を着たままだと重くて泳ぎが得意な子ですら辛そうにしてる。だから身に着けているものを脱いで、楽に泳げるようになった方がいいって。それと同じでさ。心が重く溺れそうになったら、がむしゃらにもがいて苦しむより、着物みたいに何枚も折り重なった自分の心を一枚、一枚、丁寧に脱いで、素直になったら、手足を動かしても溺れてしまう状態から抜け出せるようになる。もしかしたら、着衣の水泳の授業というのは、そんな深いことを身に染みさせるために行ったのかもしれない。それを受けることができなかったなんて、溺れたときの対処法が分からないで、ずっともがくことになるかもよ」
 んっふっふ。口を開けずに笑う彼女の癖が耳に入る。
「でも、意外に溺れるのも良いことかもしれない。いや、ね。死んじゃったら元も子もないけどさ。プールにもぐって、仰向けになって目を開けたら、いつも気にも留めてない太陽がぼんやり輝いていて、波が揺れるたびに太陽もぶらぶら揺れて、それがとてもきれいだったから。もし溺れて、助かりそうもないぃってなったら、思い切って水の中に沈んで、下から太陽を覗いてみたらいいじゃん」
「それはプールとか海のときの話でしょ。雨だったら濡れるだけで、太陽なんて見えないだろ」
「あーあ、分かっちゃいないね。たしかに雨だったら溺れないけど、降りつづけたら分からないよ。コップに水を注いでも、最初は水位もわずかで気づかないかもだけど、注ぎつづけたら海よりも深くなる。小銭を貯金しはじめて、最初はすっからかんだけど、本人も自覚しないくらい時が経ったら、小銭の山が出来上がっている。それといっしょ。晴れた日が続いて、次の日になって雨が降ったら、みんな不快になるけど、だからって気にも止めない。まさか溺れるなんて思わない。でも、何日も降り続けていたら、だんだんそれが当たり前になって、いつの間にか不快な気持ちにならなくなる。それが危険だよ。地面はいつまでも雨を吸収してくれるわけじゃない。限界がやってきて、ゆっくりと水が底に溜まってくる。雨は止まない。当たり前だと思ってるから、降り続ける雨に疑問も抱かない。ゆっくりと足元に水が溜まって、それが膝に、そして腰に、やがて自分の身長よりも深く水が溜まって、足が地面につかなくなり溺れてしまう」
 あまりにも真剣そうな口ぶりだった。
「よく分かんないけどさ、だったら、晴れた日が続けばいいだろ。人が溺れるほどの雨って想像つかないし、ファンタジーの世界だけだろ」
「晴れてばっかだと草木は枯れちゃう。たまに雨が降らなきゃ、みんな生きていけないよ。わたしは好きかな。意外に濡れたら気持ちいじゃん。それに雨が降るから、晴れた日の清々しさに心打たれるってものよ」
「今は曇りの夕方だけどな」
「今日はわたしにとって晴れの日よ」
 雲を突き破って届くの夕日の光に包まれて映る彼女の笑顔はたしかに晴れやかだった。
「とにかく、溺れるほど苦しいんだったら服を脱がなきゃ、よけいに苦しくなるだけだから。素直になるのよ」
「溺れないから、泳ぐの得意だし」
「そう言って、水泳の授業で足をつって先生に引き上げられてた人いるから。ほんと、休んでたのもったいなかったよ。いつもは当たり前に服を着ていて、裸だと笑われるけど、水の中だと、服を着ていたら苦しくて、裸になったら楽になるなんて。ずっと服を着たままなのもいいけど、脱ぐ練習はしたほうがいいよ。いざってときにプライドが邪魔して脱ぎたくても脱げなくなるから」
 目を開けると、太陽の眩しさがまず目に入り、白くなった視界がだんだんと自分の立っている現在を指し示した。木々が風に煽られてダンスホールにいる人々のように話し合っている。くゆる線香の煙は右往左往しながらも天へと昇る。添えられた菊の花はすっかり枯れており、ハエが止まっただけで地面にぽとりと落ちてしまいそうだ。

 あの日はにわか雨だった。
 彼女ならあくびをして机に伏すだろう鐘の音が耳の奥まで響いて聞こえ、湿った土から漂ってくるような腐った臭いが鼻をつき、全身から受ける人の熱に酔いそうになりながら見下ろした彼女の初めて見た眠り顔は、ずいぶんと安らかで、頬に手を当てたら柔らかく吸い付き、いつまでも触れられなかった唇はまだ息をしているかのようにそこにあった。白い服を好んで着ていた。ウェディングドレスは彼女のためにあるようなものだ。この服は似合わない。
 お焼香をなんて言われて渡された長方形の箱に入っている嗅ぎたくない香りのする七味みたいな粉を指先でつまんで、真っ白な粉の上に離したら、ぱらぱらと雪のように宙を舞って落ちていった。
 彼女は運ばれてどこかに向かって進んでいった。
 最後のお別れなんて、寂しい言葉がどこからともなく流れてきた。右手に持っている一輪のバラはぽっきりと茎が折れてだらんと垂れ下がっている。
 彼女の名前が、お別れの言葉が、細々と、断続的に溢れていた。あぁ、口を堅く結んで髪をあでやかに撫でている人の震えている肩はしわくちゃでボロボロ。枕元に置いたチューリップのハンカチはお気に入りで毎日のように持ち歩いていたやつ。棺の前で倒れたら、彼女から見えなくなるだろ。甲高い声で叫ばないでくれ。しゃがれた声でささやかないでくれ。明るくて、ハツラツで、透き通ってなきゃ。こんなにうるさいのに覗き込んでも、まだ穏やかに眠っている。あの日はにわか雨だった。人々から降り注ぐ雨が燦々と彼女を濡らし、頬を流れる雨水に反射して映しだされた僕らは、たしかに濡れていた。
 煙突から漂う白い煙は青空と溶けあって、眩しい太陽の元へ去っていった。少しの焦げ臭さだけが鼻を覆い、雨水の甘さだけが舌に残った。

 線香はまだ燃えている。ポケットに入れていた一輪のバラを取り出して、花瓶のなかに入れた。茶色にくすんだ花々に混ざる真っ赤なバラ。わたしはそのバラの花びらを優しく撫でた。そして花びらを一片だけ摘み取って自分の口元に近づけた。少し青臭く、ほんのり甘い青春の香り。
 マッチを取り出して、その花びらに火をつけた。隅からじわじわと燃え広がって、半分ほど火に覆われたあたりで手放した。その時、そよ風が吹いて、ゆるやかな温かみをもってわたしの頬を撫でた。紅蓮に燃える真っ赤なバラの花びらはその風に身を任せ、ひらひら舞いながら、彼女の墓石に落ちていった。バラの焦げた黒い煙が、線香の白い煙と混ざり合った。
「やっぱり、着衣泳は大切かもな。さも経験したような口ぶりだったけどさ、本当は見学してたんだろ。かたくなに海とかプールに行かなかったじゃん。これからはずっと晴れるといいな。もう十分、僕らは濡れたよ。乾くまでは、晴れてほしいな。服を脱いでまで流されないくらい、からからになればいいな。そしたら、溺れずに済んだのに」
 もう光沢も失われて、角はすっかり削れて丸みを帯びており、刻まれた彼女の名前には苔が生えている。線香入れに差された一本の線香はすっかり残り火を灯して、いまにも消え入りそうだった。
「また今度。明日も晴れるといいな」
 今日も燦々とした晴れの日だった。濡れた服はまだ乾かない。
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