第1話 カモミール・ジャーマンでムズムズ撃退
文字数 3,434文字
平野恵はエレベーターの中で、ため息を漏らす。ついでに、顔につけた使い捨てマスクの下で鼻もすする。花粉症で辛いのは毎年のことだけれど、今年はとくにスギ花粉の飛散量が多いらしい。家を出る前に見たテレビのお天気お兄さんが、今日は天気がいいので花粉の飛散量が多いことが予想されます、気を付けましょうと言っていた。そのこともまた恵の気持ちを沈ませていたが、ため息の一番の原因はそれではない。
大手不動産開発会社の霧島工務店に入社して5年。都内有名大学の看板学部を卒業した恵は当然のように本社への配属となり、いままで都心のタワーマンション開発にかかわってきた。
しかし。直属の上司から受けたセクハラを社内の女性相談室に伝えたところ、その上司が厳重注意になり他部署に飛ばされたのまでは良かったが、『いろいろ妙な噂があっては君も仕事をやりにくいだろうから、しばらくここを離れてみるのもいいだろう』という温情とも厄介払いともとれる理由により、恵も霧島工務店から出向させられることになったのだ。
まったく、冗談じゃない。これじゃ、痛み分けどころかこちらばかり痛いだけじゃないか。と、セクハラをした元上司の顔を思い出すだけで、ハラワタが煮えくり返りそうになる。元上司は部署異動しただけで霧島工務店の中にいるのだ。それに対して、子会社に出向になった自分はなんと惨めなことだろう。
上昇を表していたエレベータの表示は、5のところで止まる。
恵は肩にかかった髪をさらりとかきあげ、右肩に黒のトートバッグの持ち手をかけなおし、グレーのパンツスーツから延びる黒いヒールをかき鳴らして、開いた扉から5階フロアへと降り立った。
ここは霧島グループの一つ。不動産管理を行う霧島エステートの南関東支店。
その営業部営業第三係が今日から彼女が働くことになる職場だ。
営業部のフロアに足を踏み入れると、まだ始業時間には一時間以上あるというのに既にちらほらと人影が見える。そばを通りかかった同じくらいの年頃の女性に教えてもらって、恵は営業第三係のデスクのある場所へと向かった。
フロアの一番端にある、デスクが五つずつ向かい合わせにくっついた島。そこが営業第三係らしい。まだ誰も来ていないのかと思ったが、よく見ると端のデスクに一つ人影がある。近づくと、一人の中年男性が座ってノートパソコンを叩いていた。
くたびれたスーツに、ところどころ白髪も見える髪。四十過ぎと思しきその男性のそばへつかつかと歩み寄ると、恵はマスクを取って明朗快活な声で挨拶をする。花粉症のせいで少し鼻声なのは仕方がない。
背筋を伸ばして頭を下げる恵。対して、その中年男性はワンテンポ遅れてキーボードを叩いていた手を止めると、少し小じわの浮かんだ目でのっそりと恵を見やった。
覇気のない、窓際社員。それが恵の彼に対する第一印象だった。
よろしくという言葉とは裏腹に風間は仏頂面のままニコリともせず恵に言うと、再び椅子を戻してノートパソコンへと視線を落とす。
こんな精彩のない中年男性は、霧島工務店の本社にはいなかったタイプだなぁと恵はため息をつきたい気分になるが、それを表に出すような彼女でもない。本社にも壮年や中年の男性社員は沢山いたが、もっと自信に満ちあふれ生き生きとしたオーラのようなものが感じられる人たちばかりだった。しかし、目の前のこの風間という男からは、そういうものは一切感じられない。『枯れススキ』という言葉がふと脳裏に浮かんだ。
そんな恵の気持ちなど知るよしもなく、風間は視線をディスプレイに向けたまま話し出す
そう風間が言いかけたとき、島に置かれた電話の呼び出し音が鳴った。
彼は会話をやめると、すぐに立ち上がって受話器を取る。
何が起こったのかわからず、きょろきょろとあたりを見回す恵。しかし、フロアを見渡しても特に変わった様子はない。ただ、目に見えない芳醇な香りの海にどっぷりと沈み込んだような、そんな錯覚を覚える。
しかし、それも一瞬だけ。わずかな残り香を残して、すぐに甘い香りの塊は消え失せてしまった。
恵は唖然として、ただ瞬きをするしかなかった。