大根とこんにゃく
文字数 2,414文字
ひどく疲れてしまった。
バイト帰りに、銭湯前の自販機にチャリを寄せて止める。このへんでは、この自販機しかないのだ、「プリンシェイク」が置いてあるのは。
三つ並んだ自販機の、向かって一番左にそれはある。
小銭を入れてプリンシェイクを買い、ぐっちゃぐっちゃと10回振る。10回じゃなきゃいけない。そうしたらちょうどよくクリーミーに仕上がるのだ。
とろけるほど甘いそれを飲みながら、愛用の自販機をじっくりと眺める。品揃えは相変わらず、だ。
コーンポタージュとおしること、ビッグサイズのオレンジジュースがある。よしよし、変更なしだ。
プリンシェイクにやや癒されて、空き缶をダストに入れる。
再びチャリにまたがった時、にぎやかな一団が銭湯から出てきた。
会社帰りのOLかと思ったら、うちの大学の学生グループだった。テニスサークルかなんかの集団だろう、これから食事にでもいくのだろうか。
顔を見られるのが嫌だったから、速攻でチャリを漕ぎ出す。
寒い。
ものすごく星がきれいだ。
だが、寒い。
こげばこぐほど下宿に近づき、町の賑やかさから遠ざかる。
どんどん星が見えてくる。
頬っぺたと手がじんじん痛い。ガサガサと前かごの中の、コンビニの袋が踊る。
小高い丘を背にしたところに下宿だまりがあり、我々の仮の住処もそのなかにある。
二階建ての築20ウン年だが、満室。
学生アパートはいつも取り合いだ。特に、こんな安い2DK、しかも風呂とトイレが別々についている贅沢な間取りなんて、そうそうない。
事故物件。
というやつである。
前の住人がここで自殺したらしいが、そんなことを気にしている場合じゃなかったので、迷わず入居した。
それに除霊体質のルームメイトもいるから幽霊など平気である。
本当のところ、何度も変な現象があったが、ふすまを隔てたところに彼女が寝ているので、そっちに逃げ込めば大丈夫だった。おかしな黒い影や、がたがた物が動いたり、高い声が聞こえてきたりするのも、彼女のそばにさえいればなんてことはなかった。
だが、こういう遅い時間に帰宅した場合、時々、彼女がまだ帰っていないことがある。
暗く、よどんだ部屋に一人で入っていくのはぞっとする。
で、今日もチャリを自転車小屋に止めながら部屋を見上げてみたら、見事に窓が暗かった。
疲れた体がさらに重くなる。
コンクリの階段をあがり、部屋の中へ。
真っ暗で、ひんやりとして、どこかジメジメしている。
そして、奥のほうでガタンと何か音がした。
慣れている。ただため息がひとつ出た。電気をつけて廊下を明るくする。台所へ入ると、暗闇の中でヒソヒソ何か声が聞こえる。無視して電気をつける。フッと声がやむ。毎回飽きない奴らだ。
コンビニの袋をテーブルに置き、どっかりと座る。足が痛い。ほんとうに疲れた。
明日は一限目から講義だし、別れた男の顔も見なくてはならない。そしてバイト。
見事に同じことの繰り返しだ。まだ学生、未来は広がっている、これからだ、なんてよく聞く言葉は、嘘くさくて怒りすら沸く。毎日毎日平凡で変わらない。ただ疲れるだけだ。たまにレポートがある。ぼちぼち就職のことも考える。それがちょっとした刺激になるくらいで、劇的なことなど何一つない。
何かまた音がしたが、無視していた。
「だるいなあ」
と、独り言をつぶやいたら、「何が」と反応が返ってきたので驚いた。
ちゃんと生きた人間、つまり彼女が帰ってきていたのである。
「寒いねー」
隅にあるファンヒーターをつけながら、真っ赤なほっぺで彼女は言った。ものすごい元気さで居間のテレビをつけてくれる。たちまち幽霊下宿に活気が宿った。
「いつ帰ったの、その鍋見た、あっためて食べててくれてよかったのに」
全く返事を期待していない早口な言い方で彼女は言う。喋りながら目の前を横切り、パチンとコンロを点火する。なるほど、大きなステンレスの鍋がかかっていた。
「ぬるい焼酎がいいなー」
とか言いながら、やかんも火にかけている。
てきぱきと、テーブルにコップと取り皿が並べられる。
「陰気だねー」
茶色の髪を三つ編みにして、丸い眼鏡をかけて、おまけに顔まで丸い。リンゴみたいなほっぺをして、ハイジみたい。だから、あだなはハイジ。
「疲れたよ」
わたしが言うと、ふうっと息をかけてきた。ミントの匂いがする。
心なしか肩が軽くなった。
ぐつぐつと煮えてきたので、彼女は立ち上がって鍋をコンロからおろした。鍋敷の上にどっかりおいて蓋を取ると豪勢な湯気が立った。
「おでんだよー」
元気よくハイジは叫んだ。
ピー、とやかんが鳴り、今度はわたしが立ち上がった。
「鏡月が残ってるんだよ。お湯割りにしたいな」
熱いお湯が入ったポットをどかんとテーブルに置きながら、わたしはコンビニの袋のことを思い出す。取り出されたキリンビールを見て、ハイジは歓声をあげた。
「焼酎の次はそれでいくわ」
「ちゃんぽんにしたら、二日酔いにならんかね」
「いいわよ。あー」
カーテンを閉めなおそうと窓に寄った時、外を見てハイジは言った。
「いい星空だなー。ねー窓あけて飲もうよ」
鍋の中身をとりわけながらわたしは言う。
「寒いじゃないの」
「飲むからあったまるわ」
なんだかとてもうれしそうにハイジは笑っていた。
大根と、ちくわと、たまごはハイジに。
そしてわたしは、大根とこんにゃく。
おでんをつまみに、鏡月をお湯割りで飲むハイジ。
わたしはさしずめ陰気なアルムオンジ。
幽霊アパートだが、二人暮らしなら、アルプスのおでん屋になり、わたしたちはあったかなオレンジ色の光に包まれる。
変わらぬ日常に傷つき疲れても、ここに戻れば休むことができる。
いつまで続くかな、という不安がよぎるが、無理やりフタをするように、こんにゃくを飲み込んだ。
明日も、生きよう。がんばるほどのこともないから。
バイト帰りに、銭湯前の自販機にチャリを寄せて止める。このへんでは、この自販機しかないのだ、「プリンシェイク」が置いてあるのは。
三つ並んだ自販機の、向かって一番左にそれはある。
小銭を入れてプリンシェイクを買い、ぐっちゃぐっちゃと10回振る。10回じゃなきゃいけない。そうしたらちょうどよくクリーミーに仕上がるのだ。
とろけるほど甘いそれを飲みながら、愛用の自販機をじっくりと眺める。品揃えは相変わらず、だ。
コーンポタージュとおしること、ビッグサイズのオレンジジュースがある。よしよし、変更なしだ。
プリンシェイクにやや癒されて、空き缶をダストに入れる。
再びチャリにまたがった時、にぎやかな一団が銭湯から出てきた。
会社帰りのOLかと思ったら、うちの大学の学生グループだった。テニスサークルかなんかの集団だろう、これから食事にでもいくのだろうか。
顔を見られるのが嫌だったから、速攻でチャリを漕ぎ出す。
寒い。
ものすごく星がきれいだ。
だが、寒い。
こげばこぐほど下宿に近づき、町の賑やかさから遠ざかる。
どんどん星が見えてくる。
頬っぺたと手がじんじん痛い。ガサガサと前かごの中の、コンビニの袋が踊る。
小高い丘を背にしたところに下宿だまりがあり、我々の仮の住処もそのなかにある。
二階建ての築20ウン年だが、満室。
学生アパートはいつも取り合いだ。特に、こんな安い2DK、しかも風呂とトイレが別々についている贅沢な間取りなんて、そうそうない。
事故物件。
というやつである。
前の住人がここで自殺したらしいが、そんなことを気にしている場合じゃなかったので、迷わず入居した。
それに除霊体質のルームメイトもいるから幽霊など平気である。
本当のところ、何度も変な現象があったが、ふすまを隔てたところに彼女が寝ているので、そっちに逃げ込めば大丈夫だった。おかしな黒い影や、がたがた物が動いたり、高い声が聞こえてきたりするのも、彼女のそばにさえいればなんてことはなかった。
だが、こういう遅い時間に帰宅した場合、時々、彼女がまだ帰っていないことがある。
暗く、よどんだ部屋に一人で入っていくのはぞっとする。
で、今日もチャリを自転車小屋に止めながら部屋を見上げてみたら、見事に窓が暗かった。
疲れた体がさらに重くなる。
コンクリの階段をあがり、部屋の中へ。
真っ暗で、ひんやりとして、どこかジメジメしている。
そして、奥のほうでガタンと何か音がした。
慣れている。ただため息がひとつ出た。電気をつけて廊下を明るくする。台所へ入ると、暗闇の中でヒソヒソ何か声が聞こえる。無視して電気をつける。フッと声がやむ。毎回飽きない奴らだ。
コンビニの袋をテーブルに置き、どっかりと座る。足が痛い。ほんとうに疲れた。
明日は一限目から講義だし、別れた男の顔も見なくてはならない。そしてバイト。
見事に同じことの繰り返しだ。まだ学生、未来は広がっている、これからだ、なんてよく聞く言葉は、嘘くさくて怒りすら沸く。毎日毎日平凡で変わらない。ただ疲れるだけだ。たまにレポートがある。ぼちぼち就職のことも考える。それがちょっとした刺激になるくらいで、劇的なことなど何一つない。
何かまた音がしたが、無視していた。
「だるいなあ」
と、独り言をつぶやいたら、「何が」と反応が返ってきたので驚いた。
ちゃんと生きた人間、つまり彼女が帰ってきていたのである。
「寒いねー」
隅にあるファンヒーターをつけながら、真っ赤なほっぺで彼女は言った。ものすごい元気さで居間のテレビをつけてくれる。たちまち幽霊下宿に活気が宿った。
「いつ帰ったの、その鍋見た、あっためて食べててくれてよかったのに」
全く返事を期待していない早口な言い方で彼女は言う。喋りながら目の前を横切り、パチンとコンロを点火する。なるほど、大きなステンレスの鍋がかかっていた。
「ぬるい焼酎がいいなー」
とか言いながら、やかんも火にかけている。
てきぱきと、テーブルにコップと取り皿が並べられる。
「陰気だねー」
茶色の髪を三つ編みにして、丸い眼鏡をかけて、おまけに顔まで丸い。リンゴみたいなほっぺをして、ハイジみたい。だから、あだなはハイジ。
「疲れたよ」
わたしが言うと、ふうっと息をかけてきた。ミントの匂いがする。
心なしか肩が軽くなった。
ぐつぐつと煮えてきたので、彼女は立ち上がって鍋をコンロからおろした。鍋敷の上にどっかりおいて蓋を取ると豪勢な湯気が立った。
「おでんだよー」
元気よくハイジは叫んだ。
ピー、とやかんが鳴り、今度はわたしが立ち上がった。
「鏡月が残ってるんだよ。お湯割りにしたいな」
熱いお湯が入ったポットをどかんとテーブルに置きながら、わたしはコンビニの袋のことを思い出す。取り出されたキリンビールを見て、ハイジは歓声をあげた。
「焼酎の次はそれでいくわ」
「ちゃんぽんにしたら、二日酔いにならんかね」
「いいわよ。あー」
カーテンを閉めなおそうと窓に寄った時、外を見てハイジは言った。
「いい星空だなー。ねー窓あけて飲もうよ」
鍋の中身をとりわけながらわたしは言う。
「寒いじゃないの」
「飲むからあったまるわ」
なんだかとてもうれしそうにハイジは笑っていた。
大根と、ちくわと、たまごはハイジに。
そしてわたしは、大根とこんにゃく。
おでんをつまみに、鏡月をお湯割りで飲むハイジ。
わたしはさしずめ陰気なアルムオンジ。
幽霊アパートだが、二人暮らしなら、アルプスのおでん屋になり、わたしたちはあったかなオレンジ色の光に包まれる。
変わらぬ日常に傷つき疲れても、ここに戻れば休むことができる。
いつまで続くかな、という不安がよぎるが、無理やりフタをするように、こんにゃくを飲み込んだ。
明日も、生きよう。がんばるほどのこともないから。