そっくりな男

文字数 3,453文字

 和彦が目を覚ましたのは、公園のベンチの上だった。殴られた頭がじんじんする。痛む額を手で押さえながら、和彦は先ほどの出来事を思い出した。
 会社からの帰り道。最寄り駅で電車を降りて家の近くまで帰ったところで、ふいに呼び止められた。振り向くと、自分にそっくりな顏の男にいきなり殴られて気絶したのだ。
 俺にそっくりなあいつはいったい誰だったんだ? なぜ殴りつけてきたんだ?
 全く心当たりがない。とりあえず家に帰ろう。上着の内ポケットに手を入れると、財布がなくなっていた。
 あいつ、強盗だったのか!
 他にも取られたものがないかと、他のポケットを探った。携帯電話もなかった。自宅の鍵もなくなっていたが、電車の定期券はあった。その他にポケットにあったのは、健康診断の結果報告書。胃のバリウム検査で要精査にチェックがついていた。だがそんなことは、今はどうでもいい。そもそも健康診断に異常があっても、再検査なんて受けたことがない。ああいうのは大抵おおげさに書いてあるものなのだ。
 家はすぐそこだ。交番に被害届を出す前に、とりあえず自宅に帰ることにした。家に着いたが鍵がないので、門柱の呼び鈴を押した。ペタペタと奥から足音が聞こえてくる。玄関の扉が開いて、妻が顔を覗かせた。ただいまと和彦が言おうとすると、妻は目を真ん丸に見開いてバタンと扉を閉じてしまった。中からガチャガチャとドアチェーンをかける音がする。
「おい、俺だよ。何をしてるんだ。開けろよ」
 扉の前まで行きドンドンと右手で叩く。扉がゆっくりと開くと、細い隙間から妻が顔を覗かせて、険しい表情で和彦を見つめた。
「あなた、誰?」
「冗談はよしてくれ。早く開けろよ」
 扉を引っ張ったがドアチェーンが突っ張り、それ以上は開かなかった。
「あなた! あなた! ちょっと来て!」
 妻が家の奥を振り向いて叫んだ。廊下の奥から男が歩いてきて、妻の頭の上から顔を出した。男の顏は和彦にそっくりだった。
(こいつ! 俺を殴った強盗じゃないか!)
 怒鳴りつけようとした和彦より先に、そっくりな男が声をあげた。
「おい、お前は誰だ! 顔が俺と似てるからって、家に入ろうとは何ごとだ!」
 そっくりな男に言われて和彦は面食らった。それは俺の台詞だろう!
「あなた、気味悪いわ。あなたにそっくりな人がいるなんて」
 眉間に皺を寄せて、妻がそっくりな男を上目遣いに見つめた。
「何を言ってるんだ! 俺が本物で、そいつは偽物だ! ふざけるな!」
 和彦は声を荒げて、そっくりな男と妻を睨みつけた。妻が思いついたように顔をハッとさせた。
「じゃあ、私の質問に答えて。あなたが本物の主人ならわかるはずよ」
「了解だ。それで俺が本物で、家にいるそいつが偽物だとわかるはずだ」
 和彦はうんうんと頷き、右手で自分の胸をドンと叩いた。
「私の誕生日は?」
「ええっと、十一月七日」
「正解。初めてデートしたところは?」
「遊園地だったかな。いや、映画館だ」
「じゃあ、結婚記念日は?」
「!」
 いつだっけ? 六月なのは覚えているが、日付まではわからないぞ。
「……。それじゃあ、今度の誕生日に私が欲しいものは?」
「……わからない」
 頭から血の気がすっと引いた。まずいぞ。そんなのわかるわけないじゃないか。
「あなたはわかるわよね」
 後ろを振り向いて、妻がそっくりな男に目をやった。
「結婚記念日は六月十八日。誕生日に欲しいのは、ココブランドンのハンドバッグだろ」
 男がウインクをしながら答えると、妻の表情がパッと輝いた。そっくりな男と顔を見合わせて頷くと、妻は和彦をキッと睨みつけた。
「帰ってください。二度と来ないで。また来たら警察を呼びますから」
 和彦の目の前で、扉がバタンと閉ざされた。扉の向こうで足音が遠ざかっていく。和彦は茫然と立ち尽くした。
「一体どうなってるんだ……」
 訳がわからない。家には入れないし、今日はもう話し合いもできないようだ。和彦は自宅を後にして、目を覚ました公園へと戻った。
 西の空に夕陽が沈みかけて、公園に着いた頃には辺りは薄暗くなっていた。腹が減ったが財布がないので、飯も食べられない。空腹をまぎらわそうと、水飲み場でがぶがぶと水を飲んだ。
(警察に行っても、さっきの様子だと俺が不審者扱いされてしまいそうだ)
 今晩は公園で野宿するしかない。明日の朝とりあえず会社に行き、それからどうするか考えよう。
 公園の奥へと歩いて行くと、新聞紙を体に巻きつけた男がベンチの上で寝ていた。体の下には段ボールを数枚敷いている。髪と髭はぼさぼさに伸び放題だ。
「よう、新入りかい?」
 むくっと顔を上げて、髭面の男が和彦を見た。お前みたいなホームレスと一緒にするなと、和彦は心の中で呟いた。
「おやまあ、いい背広を着てるじゃないか。エリートサラリーマンが落ちぶれたってところかい。仕事仕事で家族をほったらかしにして、リストラされたら帰るところがなくなったくちか?」
「うるさい。俺は家族をほったらかしてないし、リストラもされてない!」
 そうは言ってみたものの、結婚記念日を忘れていたり、妻の欲しいものがわからなかったのを思い出して、和彦は気分が重くなった。
「ホームレスは体が資本。あんたも無理したらいかんよ」
 髭面の男は大きな欠伸をしてベンチに寝ころび、程なくぐうぐうと寝息をたて始めた。
(なんなんだ、こいつは。俺はホームレスでもないし、体も健康なんだ。落ちこぼれが偉そうに)
 隣のベンチに横になり、頭から背広の上着を被って和彦は目を閉じた。まずは明日、出勤することだ。

 和彦が目を覚ますと周囲は明るくなっていた。隣のベンチでは、昨夜の髭面のホームレスがまだ寝ている。起き上がると、硬いベンチに寝ていたせいで背中が痛かった。大きく伸びをして立ち上がると、和彦は駅へと向かった。とりあえず会社に行けば何とかなる気がした。
 会社に着くと、上司が驚いた顔で声をかけてきた。
「あれ? 今日は病院に行くって有休を取っただろ。今朝電話してきたじゃないか」
「いえ、電話してませんけど」
「いや、してきただろ。ほら」
 上司が携帯電話の画面を見せた。着信履歴には、確かに和彦からの通話記録がある。あいつが電話をかけたのだ。
「さあ、病院に行ってきなさい。健康診断でひっかかったと昨日言ってたじゃないか」
 上司が強く言い張るので、和彦は健康診断を受けた病院に行くことにした。あの電話は自分ではない説明すると、話がややこしくなりそうだ。
 病院の受付で名前を告げると、内視鏡室に案内された。胃カメラの予約がしてあったのだ。昨日の夜から何も食べていないかと看護師に尋ねられて、水しか飲んでいないと答えた。家に入れず財布もなかったからだとは、もちろん言わなかった。
 胃カメラが終わると、気になるところがあったので組織を採って精密検査に出しておきましたと医師に言われた。
 結果説明のための再受診の予約を取り、内視鏡室から出ようとしたところで、看護師から一通の封書を渡された。
「昨日胃カメラの予約をされた時に預かった封筒です。検査が終わったら返してくれと、おっしゃってましたよね」
 覚えのない封書だ。ロビーのソファに腰掛けて、和彦は封を開けた。驚いたことに便箋の文字は、和彦本人の筆跡だった。
「この手紙を読んでいるなら、きっと胃カメラを受けたはずだ。
 信じられないかも知れないが、俺は一年後のお前だ。俺はタイムトラベルをして、一年前の今の時代にやってきた。タイムトラベルなんてあるわけがないと思うかも知れないが、実は珍しいことではない。タイムトラベルの最中に身分を明かすことができないので、みな知らないだけだ。世の中には自分にそっくりな人間が三人いるというだろう? それがタイムトラベラーだ。
 タイムトラベルの話は今はどうでもいい。問題なのは俺、つまり一年後のお前だ。俺は今、末期癌に侵されている。健康診断で異常があったのを放っておいたせいで、胃癌が進行したのだ。だから一年前の俺に胃カメラを受けさせようと、タイムトラベルしてやってきたわけだ。嫌な思いをさせたと思うが、こうでもしないとお前は病院に行かなかっただろう。
 それからもう一つ。一年後のお前は離婚して独り身だ。仕事ばかりで家庭を顧みない俺に愛想を尽かして、妻は子供を連れて家を出て行ってしまった。結婚記念日は忘れるな。妻の誕生日にはプレゼントを贈って、愛してると言え。お前ならできるはずだ。
 よろしく頼むぞ。一年前の俺」
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