文字数 1,943文字

“貴女の體への色欲と共に
貴女自身への嫌悪(ケンオ)我が自然のなかで
存在するからほかの仕方がないかな“
ナヴヤ・ンヴァル、昭和六十一年

そしてある晚、我の前に完璧を見た。我が簡單で純朴なる完璧は、道の向かう側で立つてゐた。あれは貴女でなくあの死んでゐる女性もでなかつたが、橫目で我を見つゝ立つてゐた。あのころ想つたことは、その素敵なる體を、いまや容易に得れると。もう、いかなる境を渡つたと。また幸せだつた。魂の汚れを 擲ちて誠の美を有することが出來ると悟つたから。
でもいまの我が目的は貴女だ。それを覺えると、怖くなつた。天に手を擧げて、「神樣よ!我を見てゐますか?我を見掛けてゐますか?我は成つた者を見て!爾は我にした事の所爲で我はしてゐる事を見て!いまや、喜んでゐますか?でなければ歸らせて下さい!喜んでゐたら、我はいま爾の意思を行ひますからお手傳ひ下さい!」と。
そして、ひざまずいて泣いた。シツトリした土瀝靑を爪で引つかいてをり、其の下に自分を埋めりたくなり、爪すべてが折れ血が出た。
突然、あの快い頃よりは、
「全てはお前の所爲だ!今お前の人生で起こるのは自分自身の所爲だ。お前は充分なるものがあり、お前たちは幸せだつたが、自分自身でお前があつたもの全てを反發して、今や死と一緖に幸せになり、死者の空氣を息をする」と。
誠に!人生の美しさは我を裏切つた。結局それは自分の魂や熱も無き純なる面影に連れてきた。これは、我に制壓せられる唯一の面影であるやうな氣がしてゐた。
書いて非ざるだれにもない手紙も、言はれて非ざるだれにもない言葉も。それら全てを守つてゐる。靴墨に咽びつゝでも守り續ける。皆は、それを捨てろうと言ふときでも守り續ける。全ては以前のやうになることを志すのは無駄でも、いつまでも志し續ける。あの頃、天使の道を步いたりあの瞬閒まで見たことない物を見たり感じたりしてゐた。その物全部を覺え、あの頃から覺えてをり、後でも覺え續ける。死んでも其等を守り續け、その思ひ出の影は冥界で貴女をたゝる。突然貴女も、笑つてゐたことを覺え、悲しくなる。我は貴女に「目を見て」と言ふときに、貴女の目を見たいのは、その目が好きだからでなく、貴女を囘る血と切り離された希望の海はその目に映るかだうか見たいからである。
我が新たなる女神たる死を贊美する。死は、美を得る機會を我に下さつた。手を伸ばして持つてよ!そんな簡單。
夜閒にも、晝閒にも、其等の街頭で貴女を見つけなかつた。貴女のスケジュールなんかをうかゞへなかつたほど素朴だつた、我。それに、貴女は學業以外ほかのところに行くことが無かつたらしい。
しかし時が來て、機會が失せた。我が位置で立たなかつた者は、無意味なロマンティツクなる夢幻と本當の殺意との違ひを、だうしても分かれぬ。戀しい女性の家の鄰りで步きながらナイフを手で握り、今にも其れをポケツトから出してなにも勘づかぬ身體への扉を刄で開くに備えたこと、ある?もうグニャグニャした屍を入りやつと其れを追ひ付いた安心を味はふのを想像したこと、ある?誠に、殺害は素晴らしい!そして、未來に葬式にて僞りの悲嘆の疑ひを起こさぬ爲に、彼女の兩親との交はりを避けたことがあつたら、誠にその美しさを悟つたぞ。
そろそろ卒業が起き、今や貴女はどこか大阪に居り、我は神戶で殘つたが、我が影はいつも貴女を付いてゆく…それを知らせたい。貴女は行くときに、後ろには影だ。貴女は立つときに、後ろには影だ。それを感じてね。皆に背を向けられ貴女は獨りで死んでゐる音に圍まれ、もう誰もゐないと想つたり誰もゐなかつたと氣がしたりするときにも、後ろ貴女の影以外のもう壹つの影が立つてをり、貴女は孤獨ではないと知つてるやう。貴女は寢るうちに、あの夜の如き影は片隅より貴女を視てをり、いつまでもあそこに居る。もし呻かなかつたら、ユツクリと貴女の命を奪ふ。それ、我には制御不可能。たゞその影の本質である。それはたゞさうすることに慣れたから。
この簡單な死體安置所に就職したとき、考へる時閒が充分だつた。靴墨に沈んでゐたときに分かつた事に付いて考へた。我等に付いても他人に付いても考へた。死者に付いても澤山考へた。すると、聖なる眞理が我に現れた。それが、男性はいかなる女性を占有し得ることが自然の决まりであると。且つ又、男性は死んでゐる戀人も生きてゐる戀人も有し得り、だれもが其々の性質次第で自分の選擇をする自由がある。
我はその選擇をしたのは、第三目の遺體は到着されたとき。それは、我が完璧だつた。簡素だが、完璧。其れと一緖に居たうち、我が影は貴女と一緖に居り、今迄に後ろに居る。

真黒刀佳
昭和七十二年(1997)
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