第2話 段裏

文字数 2,494文字

「一緒にトイレに行こう」

 Tさんが小学校高学年の頃、友人にそう誘われた。

 男女関わりなく思春期という時期がそうさせるのか、友人たちはよく連れ立ってトイレに行きたがった。ほとんど駄弁ることが目的のその誘いは、妙に鬱陶しいようであるが、誘うことでお互いを友人だと認め合うような気持ちがして、なんだか嬉しくもあった。



 それは給食の時間だった。まだ多くの生徒が食事中で、廊下には人影がなくがらんとしていた。教室では大勢の人が談笑しているのに、廊下は静かだ。その対照的な景色に少しだけ非日常的な気分がしたのをTさんは覚えている。

 すぐに用を済ませたTさんは、しばらくトイレの洗面室で友人が戻ってくるのを待っていたが、友人は中々個室から出てこなかった。

「まだ?」と聞けば「もう少し待って」と返事が返ってくるだけ。

 給食を半分も食べてなかったTさんは、中々出てこない友人に痺れを切らして教室に戻る決心を固めた。

 ――その時だった。廊下に目を向けると、そこに見知らぬ女が立っていた。

 小学校とは子どもたちの世界だとTさんは思う。先生という教育者を除いて、子どもだけで作られた独特の空間。だからだろうか、先生ではない大人を学校で見ることはすごく異様な景色だと思った。

 その女は階段の脇、廊下の翳った場所に立っていた。

 誰だろう、とTさんは相手を見つめるのだが、なぜか、その女の姿は朧げにしか見ることができなかった。髪が長くて、影の輪郭線から女のように見える。しかし、彼女が一体どのような服を着ているのか、どんな顔をしているのか、目を凝らしてもわからなかった。ただ、髪は癖っ毛で、なぜだか水を被った後のように濡れていることだけはわかった。

 Tさんはその女から強い視線を感じて怖かった。

 ……不審者だ。

 咄嗟にそう判断したTさんは、とにかくあの女の視線から逃れたくて、友人をトイレに残したまま黙って女とは反対方向の廊下を歩きだした。

 すると、女もTさんの後ろをついてきた。

 Tさんが足を速めると、女もそれに合わせてついてくる。

 Tさんは怖くなって走り出した。すると女も足を速めて近づいてきた。

 Tさんは悲鳴を上げた。しかし誰も助けには来てくれなかった。

 足を縺れさせながら、Tさんは階段を駆け下りた。踊り場を曲がった時、チラリと女が階段の手すりに手をかけるのが見えた。

 振り払うように階段を下りきって、ふと、近くの教室の扉の前に置かれた牛乳瓶を入れる籠が目についた。Tさんの学校の給食は牛乳瓶を1クラス分籠に入れて持ち運ぶ。籠の中には必ず予備分の瓶が数本入っていた。

 Tさんは無我夢中でその籠に駆け寄って牛乳瓶を1本取り出し、そのまま牛乳瓶を遠くに思いっきり投げた。

 ガチャン、と瓶が割れて液体が漏れ出す音が廊下に響く。

 そのまま瓶を投げた廊下とは逆方向、階段裏へTさんは向かった。一階の階段の裏には箒などが無造作に置かれた物置のような薄暗い空間がぽっかりと空いている。その段裏へTさんは滑り込むように潜り込んだ。

 ——これで、あの女は牛乳瓶の割れた廊下の方へ向かうだろう。

 Tさんはそう先読みをしながら、声を押し殺して、埃っぽい匂いが立ち込めたその段裏に潜んだ。

 しかし、しばらく経っても何の物音もしなかった。静寂が満ち、誰の気配もない。

 あの女はもう行ったのか、割れた牛乳瓶を追って、誰もいない廊下の先へきっと向かったのだろうか。

 物音のしない廊下に痺れを切らし、Tさんは小さく息を吐きながら、段裏から顔を出した。

 もう、きっとあの女はいない。

 ――そう思い込んでいたから、視界の端に手が現れた時、咄嗟に反応することができなかった。

 それは、体を壁にもたれかけながら、ゆっくりと手探りで近づいてきた。その手はまるで枯れ枝を思い出させるような茶色く、細かった。

 Tさんは呆然とおの女が近づいてくるのを見つめることしかできなかった。体が動かなかった。やがて、その女は段裏の前で膝をつくTさんに覆い被さるように立った。

 「やっと、きた」

 それは女の声というよりも、嗄れた老人の声のようだった。

 Tさんは悲鳴を上げて目を閉じた。



「どうしたの!?」

 友人の驚く声が聞こえる。Tさんが目を開くと、目の前には一緒にトイレに連れ出した友人が立っていた。

 Tさんがいたのは、果たしてそこは段裏などではなく、最初に女を見たトイレの目の前にある廊下だった。

 Tさんは焦って周囲を見渡したが、そこにはあの女はいなかった。昼食を終えた生徒たちが数人、談笑しながら廊下を歩いているだけだ。

 Tさんはすぐに状況が飲み込めなかった。しかし、心配そうに顔を覗き込む友人の顔を見ているうちに落ち着いた。

 友人は用を終えてトイレから出ようとした時、Tさんの悲鳴を聞いて慌てて駆けつけてきたということだった。廊下には呆然とした様子で立ち尽くすTさんの他には誰もいなかったらしい。

 夢でも見たんじゃない、と友人は笑った。トイレを待っているわずかな間にきっと寝ぼけてしまったんだ。

 Tさんは確かに、きっとその通りだと思った。

 ――だって、あまりに静かすぎた。

 Tさんは冷静になって思い返すと、先ほどまでの出来事に違和感を覚えはじめた。今は給食の時間だ。先生も生徒もみんな教室で食事をとっているのだ。だとしたら、どうして彼らはTさんの悲鳴に気づかなかったのだろうか? 実際、給食を早めに終えた生徒が今も廊下を歩いていた。——女に追われていた時はまるで人の気配がなかったというのに。

 うん、きっとこれは夢だ。……Tさんはそう自分を言い聞かせた。



 しかし、大人になってそう話すTさんは「でも、夢じゃなかったんです」と言った。明確に説明できないけど、たぶんあれは本当にあった出来事なんです、と困ったように笑う。

 曰く、友人と二人で教室に戻る途中、廊下に割れた牛乳瓶が落ちているのを見た、ということだった。

 狭い廊下の真ん中に、白い水たまりとキラキラと光る割れたガラスが散らばっていたらしい。

 そっと階段の裏を見に行ったが、そこには誰もいなかった、という話だ。
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