第1話
文字数 11,794文字
俺という人間は一体何なんだろう? とふと思う。
考えてみれば三十歳になるまでこんな疑問を抱かなかったことの方が不思議なのだ。これまで自分が生きていることは当たり前なのだと思ってきた。毎朝起きて、顔を洗って、飯 を食って、歯を磨いて、スーツを着て、会社に行く。電車に揺られて、上司に怒られて、客に怒鳴られて、それでも頭を下げて申し訳ありませんとか言って、へとへとになって帰ってきて、スーパーで値引きされた弁当を買ってきて、それを食って、寝る。そんな毎日が存在することが当たり前なのだと思ってきた。でもこの朝、三十歳になって――そう、この日が俺の誕生日だったのだ――俺は悟ったのだ。
もっともそのような感情を抱いていたところで、今日は平日だった。それはつまり、いつもと同じように会社に行かなくてはならない、ということを意味する。それを思うとさすがに溜息が漏れてきたが、今日の俺は普段ほど落ち込んだ気分にいるわけではなかった。そんなもの屁でもないさ、と俺は思う。世の中にはもっとずっときつい状況に置かれている人がたくさんいる。世界に目をまわせば、コロナウィルスで死にかけている人がたくさんいるのだ。こうして働けて、とりあえず食っていけているだけでも、感謝すべきなのだろう。
でもいつものように駅まで歩きながら思っていたのは、容 れ物に過ぎなかった、ということだ。もちろんその容れ物の中に何か生きている部分は存在している。透明な、精神の流れのようなものだ。みんな感情を持って、様々な記憶を抱え込んで、今を生きている。幸福そうに見えないのは、これからの一日を退屈な仕事に費やさなければならないからだろう。それはまあ俺と一緒だ。でもこの人たちはここから抜け出そうとしているのだろうか? あるいは昨日までの俺と同じように、こういった生活が永遠に続いていくと勘違いしているのではないだろうか?
そんなことを思っていると、会社に行くのが馬鹿らしくなってきた。なにしろ今日という一日は、手つかずのままそこに残されているのだ。俺はそれをもっと有効に消費しなければならない。
俺は人気 のいないビルの隙間に行って、上司に電話をかけた。もしもし、あの、申し訳ないんですが、どうも朝から熱があるようで・・・。ええ、三十八度くらい。会社に行きたいのはやまやまなんですが、もしものことがあるとみなさんに迷惑をかけるので・・・。ええ、こういう時勢ですしね。申し訳ありませんが・・・。
これでとりあえず一日は確保されたわけだ、と俺は思う。嘘をついて新しい一日を始めるというのも気分が良いわけではなかったが、まあ事情が事情なのだから仕方がないだろう。六月ではあったが、梅雨の晴れ間、といった感じで、空には青空が覗いていた。俺は清々 しい気持ちになって、さて、これからどうしようか、と思った。いつもならこのまま会社に直行する。でも今日は自由だ。少なくとも一日だけは自由だ。俺は今日三十歳になったのだ。これまでずっとあくせく働いてきた。一日くらい好きに使ったってばちは当たらないだろう。
俺はそのまま方向も決めずに、ただ当てもなく歩き始めた。会社に行かなくていいのだと思うと、それだけで歩調が軽くなったようだった。俺と同じようにスーツを着てそれぞれの職場へと向かうサラリーマンたちを尻目に、俺はどんどん歩いていった。自転車に乗った高校生の集団が通り過ぎた。彼らはぺちゃくちゃと、何やら楽しそうにしゃべり合っていた。そういえば俺にもあんな頃があったんだな、とふと思う。もう十年以上前のことだ。まるで別の惑星に住んでいたときの記憶みたいだ。空気も重力も、全然違っている。もちろんこれは比喩だ。俺はずっと地球上に住んでいる。少なくとも、自分ではそう思い込んでいる。
一時間ほど歩いたあとで、喉 が渇いたので目についたコーヒーショップに入る。チェーンの店で、清潔で、その分味気ない。俺はアイスコーヒーを頼んだ。特に美味 いわけでもないが、まったく何もないよりはずっとましだ。制服を着た若い女の子が笑顔で俺にそれを渡してくれた。俺はありがとうと言って、適当に空いたところに席を取った。
客はまばらだった。一応まだコロナウィルスの緊急事態宣言下だから、人々は外出を控えているのかもしれない。それでも駅のあたりは人出が多かったよな、と俺は思う。たしかにほとんどの人にとっては、毎日の生活の方がずっと大事だ。ウィルスも怖いが、金がなくなる方がもっと怖い。
俺はガラス窓越しに、そこを通り過ぎる人々の姿を眺めていた。店内には古いジャズがかかっていた。何かのスタンダードソングなのだが、どうしても曲名が思い出せない。それはもぞもぞと俺の頭の中を刺激していた。何だったかな・・・と俺は思う。あとほんの少しのところまで出かかっているんだけどな・・・。
そんなことを思っていると、俺のすぐ隣の席に一人の若い女がやって来た。真っ赤なドレスのようなものを着た、上品な感じのする女だった。髪が黒くて長い。サングラスをかけている。赤いハイヒール。白い上等そうなカーディガンを羽織っている。俺と同じように、アイスコーヒーを頼んでいた。彼女はストローを使ってほんの少しだけそれを吸い込んだ。でもあとは、まるでもう全然要らない、とでもいうみたいに、ただ頬杖を突いて目の前の空間を睨んでいた。というかたぶんそうだったのだと思う。なにしろサングラスが濃かったせいで、その細かい目付きまではよく見えなかったから。
俺は妙に緊張しながら、目の端 で彼女の様子を眺めていた。そもそもどうして彼女はここに席を取ったのだろう? ほかにも空いている席はあるのだ。そしてそこでようやく気付いたのだが、彼女はまったくマスクというものをしていなかった。その雰囲気からして、どうも堅気 の人間ではなさそうだった。あるいは芸能人かもしれない。一つ一つの動きが、どうも演技的に見えてしまうのだ。注目されることに慣れ切った人間の動きだった。でも俺は普段あまりテレビを観ないから――スポーツ中継は別だが――彼女が本当に芸能人なのかどうか判断が付かない。いずれにせよ、俺の心が乱されていたのは、明らかに彼女が俺のことを意識しているからだった。それは動きの端々 から感じ取れることだった。俺は自分が感じている緊張をごまかすために、鞄 から文庫本を取り出そうとした。でもすぐにそんなことをしても無駄だと悟った。ページを開いたところで、きっと意識を集中することなんてできまい。それに場の空気が何かを俺に要求していた。それは俺が今日三十歳になったことと深く関係していた。
俺は溜息をついた。そもそもついさっき上司に病気だと嘘をついたばっかりだったのに、お前は正直に生きなければならない、ときている。でも自分がその声に逆らえないことを俺は知っていた。なぜならその声は、俺自身の最も深い場所から発せられていたからだ。俺は新しい一日を生きているのだ。何一つ当たり前のことなんかないのだ。ここにこのようにして時が流れているというのは、一種の奇跡なのだ。
俺はなぜか彼女に話しかけなければならない、と感じた。普段はそんなに積極的な方じゃない。見ず知らずの女性に話しかけるなんてことは、たぶんこれまで一度もしたことがない。でも今日に限っては、俺は自分に嘘をつくことはできなかった。さあ、勇気を出せ、と俺は思う。そうしないとまわりの奴らとおんなじ、ただの容器として終わってしまうぜ。
「あの・・・」と俺は声をかけた。でも彼女はまったく気付いた素振 りを見せない。俺は挫折しかけたが、それでももう少し大きな声を出して彼女に呼びかけた。「あの!」
彼女はようやくこちらに気付いたようにちらりと振り向いた。濃いサングラスの奥で、何かが動いたような気配があった。それが何なのかは分からない。彼女が何を思っているのか、俺にはまったく想像がつかない。
「お一人ですか?」ととりあえず俺は言ってみる。彼女は少しだけ首を横にかしげ、そのあとで自分の耳を指差した。それはおそらく、自分は耳が聞こえないのだ、ということを意味しているように、俺には思えた。
「耳が聞こえないんですか?」と俺は言った。そしてすぐに思い直して、マスクを外して同じことを繰り返した。彼女は俺の口の動きから何を言ったのか読み取ったようだった。「そうだ」という表情で――実際に声は出さなかったけれども――彼女は縦に頷いた。そしてじっと俺の顔を見ていた。
「それは大変ですね」と俺は言った。そして言ってしまってからなんて馬鹿なことを言っているのだろう、と思った。知らぬ間に顔が赤くなっていた。
彼女は軽く首を振り、そしてほんの少し微笑 んだ。
そろそろいいかな、と思って顔を戻してみると、彼女はまだじっとこちらを見つめていた。心臓が知らぬ間にドキドキと高鳴っていた。一体何が起きているのだろうな、と俺は思う。生まれて初めて会社をずる休みして、当てもなく街を歩いて、そしてこの店に入った。そしたら隣の席に綺麗な耳の聞こえない女性がやって来た。彼女は――なぜか――俺に興味を持っているように見える。そう、そういえば俺は今日三十歳になったのだ。
俺はなぜかそのことを彼女に伝えたいと思った。それで、「今日、自分は、三十歳になった」とできるだけ大きく口を動かして彼女に向かって言った。声そのものはほとんど出さなかった。きっと唇の動きで分かってもらえるだろうと思ったからだ。でも何かが違ったのか、なかなかこちらの意図は伝わらなかった。彼女は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
そこで俺は鞄からボールペンとメモ帳を取り出して、そこに、「今日三十才になったんです」と書いた。彼女はその文字を見て、そしてまた俺の顔を見た。そして口で「おめでとうございます」と言った。その音声のない声を、俺はしっかりと心に刻みつけていた。少なくともこの世界に一人は、俺の誕生日を祝ってくれる人がいたわけだ。俺はほんの少しだけ嬉しくなった。
「今日は会社を休んだんです」と俺はまたメモ帳に書いた。どうしてそんなことを伝えようと思ったのか、俺にはよく分からない。でも彼女になら俺の感じているこの気分を理解してもらえるかもしれない、と本能的に思ったのだと思う。考えてみれば不思議なものだ。ついさっきまでは知らない者同士だったのに。
彼女はこちらを見て、それは、という顔をした。そしてまたにっこりと笑った。俺もまた思わずにっこりと笑った。彼女は口で「なぜ?」と言った。
「なぜって・・・」と俺は言いかけて、またメモ帳に戻った。「今日はとても気分が良かったら、会社になんて行きたくなかったんです。それで熱を出したとうそをついて、散歩をしていた」
彼女はその文字を見て――かなり急いで書いたから、判別しにくい字だったとは思うのだが――また少し笑った。その様子を見て、また俺も笑った。カラン、という音を立てて、アイスコーヒーが回転した。グラスに付いた水滴が、すっと下の方に落ちるのが見えた。音楽はすでに別のものに変わっていた。空気が回転し出したように、俺には感じられた。
彼女はそこで俺を見て、「ウィルス」と言った。少なくともそのように、俺には見えた。
「ウィルス?」と俺は言った。「ああ、コロナウィルスのことね? でも大丈夫。周囲に感染した人もいないし・・・」
彼女は首を振った。そうじゃないのだ、とその顔は言っていた。そしてまた「ウィルス」と言った。俺にはわけが分からなかった。
「コロナウィルスじゃないウィルス?」
そうだ、という顔を彼女はした。そして空気中に人差し指を立てて、一度小さな円を描 いた。完璧な円だった。そしてその中を何かが漂っているのだ、という仕草をした。そのゆらゆらが、一つ一つのウィルスを示しているのかもしれない。
俺はよく分からなかったけれど、とりあえず一度頷いた。「ああ、ウィルスね。空気中を動き回っている・・・」
彼女はそこで突然立ち上がり、俺のすぐ隣にやって来た。そして俺の手を取って、ボールペンでメモ帳に何かを書かせようとした。その手は予想外に冷たかった。俺は驚きながらも、彼女の意図を感じ取ろうと努めた。彼女は何を書かせようとしているのだろう?
彼女はたぶん、俺にまず円を描 かせようとしていた。俺はそれを感じ取り、とりあえず新しいメモ帳のページに、大きく円を描 いた。それは完璧な円とはいかなかったけれど、とりあえず円は円だった。彼女はそれを見ていたあと、今度はその中に何かを描 かせようとした。俺は意識を集中して彼女の意図を掴み取ろうと努めた。何かが俺の中で動き始めていた。俺には今、たしかにそれを感じ取ることができた。
彼女は俺の手を細かく揺らした。俺は始め何を描 きたいのかよく理解できなかった。そこでちらりと彼女の方を見てみたが、その顔は予想外に真剣だった。俺に何かを理解してほしいのだ、と俺は思う。俺はもう一度メモ帳に向き合い、彼女の手の震えを、そのまま紙面に移していった。「これでいいのかな?」と俺は言った。
その震えは波形を取ったり、あるいは小さな丸になったりした。ときには人の目玉のような模様になった。いずれにせよ俺はただ自動機械のように、彼女の意思をそこに移し替えていた。模様はどんどん増えていった。最初に描 いた大きな円をはみ出すことなく、彼女はたくさんの模様を描 き加えていった。あたりには奇妙な雰囲気が漂っていた。まるで我々二人だけが特別な円の中にいるような・・・。ちょうど今描 いているこの図形のように。
やがて円の中に余白がなくなってしまうまで模様を描き終えてしまうと、彼女はふっと息をついた。そして手を離し、一度円の輪郭を指でなぞった。ほっそりとした、上品な指だった。俺はただそれを見ていた。心臓の鼓動は今では平常運転に戻っていた。俺は良くも悪くも、昨日までと同じ俺だった。
と、そのとき何かが起こった。
始めは目の錯覚なのだと思った。変な模様を描 かされたせいで、きっと目が疲れているんだろう、と。でも一度目をつぶって、もう一度開けたときもまた、その現象が起きた。平常運転に戻っていた心臓は、またドキドキと高鳴り出した。何が起きているのだろう、と俺は思う。でも決して見間違いなんかではない。俺はたしかにそれを見たのだ。たった今描 いた奇妙な模様たちが、明らかにもぞもぞと動いていたのだ。
それはまるで小さな虫のような動きだった。俺は実は小さい頃から虫が大っ嫌いなんだが、このときに限っては別に気味が悪いとも思わなかった。ああ、動いているな、と思っただけだ。そこには明らかに生命の徴候が感じ取れた。たとえばコンピューターで制御されたような、人工的な動きではないのだ。その一つ一つの模様が――それらが何を意味しているのか、いまだに俺には分からなかったのだが――確実に生命を有している。俺にはそれが分かった。目玉は左に行き、波形は下に行く。細長いキュウリみたいなやつは回転していた。その全体の動きには何か意味がありそうだった。俺にはまったく理解できない意味が・・・。
俺が夢中でそれを眺めているのを見て、彼女はにっこりと微笑んだ。そして声には出さずにまた「ウィルス」と言った。
「ウィルス」と俺もまた声に出さずに言った。彼女は一度深く頷いた。そしてまた言った。「
俺は自分の頭の中で何かが動いているのを感じ取っていた。ちょうど今見ているこの模様みたいに。まさにこんな風に俺の脳の中を何かが動き回っているのだ。心臓の鼓動がさらに速くなっていた。徐々に体温が上がってきたのに気付いた。彼女は今では自分の席に戻り、そこから頬杖を突いて俺のことを見ていた。サングラスの奥の目を、俺はどうしても見てみたかった。彼女が本当はどんな顔をしているのか、この目に焼き付けたかった。でもどうしてもこのメモ帳から注意を逸らすことができなかった。これは今この瞬間も動き続けている。もしちょっとでも目を逸らしたら、何かまったく別のものに変わってしまうかもしれない。別にそれが悪いってわけじゃないが、俺はその瞬間を見逃したくなかった。そう自分の本能が言っているのが聞こえた。
俺は一度小さく頷いた。模様はまだもぞもぞと動き続けていた。右に、左に。時に回転し、時に小さく縮む。かと思うと分裂する。触覚のようなものが生え、ちぎれる。また生え、ちぎれる。俺はただそれを見ている。
俺はまた小さく頷いた。
神に? と俺は思う。
知らなかった、と俺は思う。
蠢 くウィルスたち。彼女の後ろ姿・・・。と、ものすごい音がして窓ガラスが割れた。まるですぐ近くで爆弾が爆発したかのような音だった。テーブルと椅子が吹き飛び、アイスコーヒーのグラスが地面に落ちて粉々 に砕け散った。俺はたしかにこの目でそれを見ていた。紛れもない血の匂いを嗅ぎ取ることができた。もっともそれが誰のものなのかは分からなかった。俺でもない。彼女でもない。あるいは店員の女の子だろうか?
そのとき店の天井に穴が空いていることに気付いた。それは空虚な穴だった。本来照明がぶら下がっているはずのところに、大きな穴がぽっかりと空いていたのだ。彼女はその真下に来ると足を止め、一度上を指差した。俺はそこをじっと見つめた。
周囲は驚くほど静かだった。まるでついさっき窓ガラスが割れた時点で――あれは本当に爆弾だったのだろうか?――時間が止まってしまったかのようだった。音楽も今では消えていた。ほかの客のおしゃべりも聞こえない・・・。と、そのとき気付いたのだが、ほかの人々はみないなくなっていた。跡形もなく、さっきまで存在していたという気配すらなく、消え去っている。この店には今俺と彼女しかいない。
それが何を意味しているのか、そのときの俺にはよく理解できなかった。分かるのはただ、さっき彼女の奇妙な声を聞いたあたりから、自分が変な世界に入り込んでしまった、ということだけだった。これは現実なのだろうか? それとも夢なのだろうか? もっともそのどちらにせよ、自分がここをきちんと生きるしかないことを俺は本能的に感じ取っていた。夢だろうと現実だろうとさほど変わりはない。なにしろ俺に選びようはないのだから。
彼女は上に向けていた指を、今度は俺の額 に向けた。そしてゆっくりと近付けていって、最終的には指先を実際に目と目の間に付けた。針で刺すような痛みがその部分に走るのが分かった。俺はビクリと一度身を震わせた。でも顔を避 けたりはしなかった。それが正しい行 いではないことを悟っていたからだ。
その恐ろしいほどの静寂の中で――まるで天井の穴がすべての音を吸い取ってしまったかのようだった――俺たち二人は向き合って立っていた。彼女は相変わらず指をその部分に当て続けていた。俺は小さく呼吸を続けていた。心臓が動きを止めたのが分かった。ドクン、ドクンと、ついさっきまで鳴っていたのに、今では鼓動が止まっている。どうしたんだろう、と俺は思う。でもそんなことを思ったところで、何かが改善されるわけじゃない。血液の流れが滞 っているのが分かった。
もっとも彼女が指を触れている部分だけは、非常に奇妙な熱を持っていた。俺にはそれを感じ取ることができた。まるで俺の中のすべてのエネルギーが、今その一点に集中していっているような気分だった。いや、「気分」というか、実際にそうだったんだろう。彼女は明らかにそれを意図して、指をそこに当て続けていたのだ。穴が俺をじっと見つめていた。俺にはそれが分かった。俺は一度目を閉じ、そして開けた。彼女は相変わらずそこにいたが、見え方がさっきとはちょっと違っているようにも思えた。何が違っているのだろう?
そのとき彼女が死んでいることに気付いた。そう、彼女は瞬 きをした瞬間に、彼女はその移動を成し遂げたのだ。俺はそのことを後悔した。俺は瞬 きなんかするべきじゃなかったんだ、と思った。なぜならその移動にこそ、最も重要な意味が込められているからだ。
でもすでに終わってしまったことを悔やんでも仕方がない。時は逆戻りはしない。それは普遍的な真実だ。彼女は指をまっすぐ俺の額に当てたまま、完全に硬直していた。そこにあるのは単なる死体だった。意識を持った、生きた人間ではない。だとすると俺はどうなんだろう、と俺は思う。俺の心臓は止まってしまっている。血液の循環も止まってしまっている。呼吸だってしなくていいような気がする。
そのときまた声が聞こえる。それはどうやら天井の空虚な穴から響いてくるようだった。俺にはそれが分かった。
それは熱を持った何かだった。俺にはそれを感じ取ることができた。しかし、にもかかわらず、目に見ることはできない。蝕 んでいった。そのスピードは時を追うごとに速くなっていった。まあ当然のことだ、と俺は思う。二が四になり、四が八になる。八が十六になり・・・。要するに進めば進むほど増殖の効率は上がっていくというわけだ。衣服が食い尽くされ、皮膚もまた食い尽くされ、内臓や骨もまた食い尽くされた。彼女の目玉が落ちる様が見えた。もっとも俺の眼球もまた落っこちてしまっていたのだが。毛髪も、生殖器も、なにもかも、全部食い荒らされた。少しずつ少しずつ我々は無に近づいていった。痛みはなかった。それでも奇妙な比重を持った液体に満たされているような――それが無だったのだろうか?――変な気分は終始味わい続けていた。やがてその何かは我々を食い尽くした。まるで最初から何もなかったかのように、俺と彼女は消えた。あとに残ったのは、天井の穴だけだった。
君はどこにいるんだ? と俺は訊いた。そして
開 いたメモ帳には、穴と、その中を埋め尽くすウィルスが描 かれている。俺はしばらくじっとそれを見ていた。彼女の姿はどこにもなかった。題名の知らない曲が、物 憂 げに流れ続けていた。誰か別の客が入って来る足音が聞こえた。そのとき電話が鳴ったが、俺はそれを無視した。「ウィルス」と試しに口に出して言ってみたが、それは全然自分の声には聞こえなかった。
考えてみれば三十歳になるまでこんな疑問を抱かなかったことの方が不思議なのだ。これまで自分が生きていることは当たり前なのだと思ってきた。毎朝起きて、顔を洗って、
今ここにある何一つとして当たり前ではないのだ
、と。どうして今さらそんなことを感じ取ったのかは分からなかった。あるいはただ単にその時期がやって来た、というだけのことなのかもしれなかった。それとも必要な経験をくぐり抜けた結果、こういった境地に達したのかもしれなかった。いずれにせよ、その朝世界は一つの奇跡としてそこにあった。あくまで外見だけを見れば、昨日までと変わりはない。俺は今までと同じ俺だし、この部屋もまた、昨日までと同じ部屋だ。単身者用の狭いマンション。特に好きで住んでいるわけでもない。たまたま駅に近くて、たまたま安かったからここを選んだに過ぎない。それでも今日この場所は、俺にとって奇跡が起こり得る舞台として存在していた。俺はずいぶん久しぶりに――あるいは子どもの頃以来かもしれない――わくわくした感情を味わっていた。何か新しいことが起こるのだという予感が、空気の中には漂っていた。新しい一日
、と俺は思う。今日は昨日までとは違う。そして明日は今日とも違う。それは考えてみれば、とても素晴らしいことじゃないか、と俺は思う。もっともそのような感情を抱いていたところで、今日は平日だった。それはつまり、いつもと同じように会社に行かなくてはならない、ということを意味する。それを思うとさすがに溜息が漏れてきたが、今日の俺は普段ほど落ち込んだ気分にいるわけではなかった。そんなもの屁でもないさ、と俺は思う。世の中にはもっとずっときつい状況に置かれている人がたくさんいる。世界に目をまわせば、コロナウィルスで死にかけている人がたくさんいるのだ。こうして働けて、とりあえず食っていけているだけでも、感謝すべきなのだろう。
でもいつものように駅まで歩きながら思っていたのは、
どうして俺は生き続けなければならないのだろう
、ということだった。そこでふとまわりを見回してみたが、そこにいる人々の顔は――みなマスクを着けてはいたけれど――ほとんど幸福そうには見えなかった。そして大事なことは、彼らのほぼすべてが単なる出口が閉じられているのだ
、と俺は思う。彼らはこの世界が当たり前のものではないことに気付かないでいる。今ここにこうして時が流れているのは一種の奇跡なのだ。俺は今日の朝それを悟った。でも彼らは、たぶん悟っていない。だからこそただの容れ物として歩いているのだ。自分が何かを判断できる一つの精神であることにも気付かずに。誰かに決められた流れを辿っていくだけ。死ぬまでグルグルを続ける。そうして肉体的に年老いて、やがては実際に
死ぬ。あるいは墓場の中でもグルグルを続けるのかもしれない。何一つ気付かずに。そんなことを思っていると、会社に行くのが馬鹿らしくなってきた。なにしろ今日という一日は、手つかずのままそこに残されているのだ。俺はそれをもっと有効に消費しなければならない。
俺は
これでとりあえず一日は確保されたわけだ、と俺は思う。嘘をついて新しい一日を始めるというのも気分が良いわけではなかったが、まあ事情が事情なのだから仕方がないだろう。六月ではあったが、梅雨の晴れ間、といった感じで、空には青空が覗いていた。俺は
俺はそのまま方向も決めずに、ただ当てもなく歩き始めた。会社に行かなくていいのだと思うと、それだけで歩調が軽くなったようだった。俺と同じようにスーツを着てそれぞれの職場へと向かうサラリーマンたちを尻目に、俺はどんどん歩いていった。自転車に乗った高校生の集団が通り過ぎた。彼らはぺちゃくちゃと、何やら楽しそうにしゃべり合っていた。そういえば俺にもあんな頃があったんだな、とふと思う。もう十年以上前のことだ。まるで別の惑星に住んでいたときの記憶みたいだ。空気も重力も、全然違っている。もちろんこれは比喩だ。俺はずっと地球上に住んでいる。少なくとも、自分ではそう思い込んでいる。
一時間ほど歩いたあとで、
客はまばらだった。一応まだコロナウィルスの緊急事態宣言下だから、人々は外出を控えているのかもしれない。それでも駅のあたりは人出が多かったよな、と俺は思う。たしかにほとんどの人にとっては、毎日の生活の方がずっと大事だ。ウィルスも怖いが、金がなくなる方がもっと怖い。
俺はガラス窓越しに、そこを通り過ぎる人々の姿を眺めていた。店内には古いジャズがかかっていた。何かのスタンダードソングなのだが、どうしても曲名が思い出せない。それはもぞもぞと俺の頭の中を刺激していた。何だったかな・・・と俺は思う。あとほんの少しのところまで出かかっているんだけどな・・・。
そんなことを思っていると、俺のすぐ隣の席に一人の若い女がやって来た。真っ赤なドレスのようなものを着た、上品な感じのする女だった。髪が黒くて長い。サングラスをかけている。赤いハイヒール。白い上等そうなカーディガンを羽織っている。俺と同じように、アイスコーヒーを頼んでいた。彼女はストローを使ってほんの少しだけそれを吸い込んだ。でもあとは、まるでもう全然要らない、とでもいうみたいに、ただ頬杖を突いて目の前の空間を睨んでいた。というかたぶんそうだったのだと思う。なにしろサングラスが濃かったせいで、その細かい目付きまではよく見えなかったから。
俺は妙に緊張しながら、目の
嘘をつくな
、と何かが言っていた。俺はたしかにその声を聞いたのだ。お前は正直に生きなければならない
、と。俺は溜息をついた。そもそもついさっき上司に病気だと嘘をついたばっかりだったのに、お前は正直に生きなければならない、ときている。でも自分がその声に逆らえないことを俺は知っていた。なぜならその声は、俺自身の最も深い場所から発せられていたからだ。俺は新しい一日を生きているのだ。何一つ当たり前のことなんかないのだ。ここにこのようにして時が流れているというのは、一種の奇跡なのだ。
俺はなぜか彼女に話しかけなければならない、と感じた。普段はそんなに積極的な方じゃない。見ず知らずの女性に話しかけるなんてことは、たぶんこれまで一度もしたことがない。でも今日に限っては、俺は自分に嘘をつくことはできなかった。さあ、勇気を出せ、と俺は思う。そうしないとまわりの奴らとおんなじ、ただの容器として終わってしまうぜ。
「あの・・・」と俺は声をかけた。でも彼女はまったく気付いた
彼女はようやくこちらに気付いたようにちらりと振り向いた。濃いサングラスの奥で、何かが動いたような気配があった。それが何なのかは分からない。彼女が何を思っているのか、俺にはまったく想像がつかない。
「お一人ですか?」ととりあえず俺は言ってみる。彼女は少しだけ首を横にかしげ、そのあとで自分の耳を指差した。それはおそらく、自分は耳が聞こえないのだ、ということを意味しているように、俺には思えた。
「耳が聞こえないんですか?」と俺は言った。そしてすぐに思い直して、マスクを外して同じことを繰り返した。彼女は俺の口の動きから何を言ったのか読み取ったようだった。「そうだ」という表情で――実際に声は出さなかったけれども――彼女は縦に頷いた。そしてじっと俺の顔を見ていた。
「それは大変ですね」と俺は言った。そして言ってしまってからなんて馬鹿なことを言っているのだろう、と思った。知らぬ間に顔が赤くなっていた。
彼女は軽く首を振り、そしてほんの少し
大変だけど
、仕方がない
、と言っているように俺には思えた。その微笑みは俺の中の何か深い部分を刺激していた。俺はまた何かを言おうとしたのだが、何を言ったらいいのか分からなかった。それで一度彼女から目を外して、窓の外を見た。さっきよりも人通りはさらに少なくなっていたが、それでもマスクを着けた通行人の姿が見えた。元気に歩いていくお年寄りの女性たち。サラリーマン。疲れた顔をしているOL。道路工事の作業員たち・・・。そろそろいいかな、と思って顔を戻してみると、彼女はまだじっとこちらを見つめていた。心臓が知らぬ間にドキドキと高鳴っていた。一体何が起きているのだろうな、と俺は思う。生まれて初めて会社をずる休みして、当てもなく街を歩いて、そしてこの店に入った。そしたら隣の席に綺麗な耳の聞こえない女性がやって来た。彼女は――なぜか――俺に興味を持っているように見える。そう、そういえば俺は今日三十歳になったのだ。
俺はなぜかそのことを彼女に伝えたいと思った。それで、「今日、自分は、三十歳になった」とできるだけ大きく口を動かして彼女に向かって言った。声そのものはほとんど出さなかった。きっと唇の動きで分かってもらえるだろうと思ったからだ。でも何かが違ったのか、なかなかこちらの意図は伝わらなかった。彼女は不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
そこで俺は鞄からボールペンとメモ帳を取り出して、そこに、「今日三十才になったんです」と書いた。彼女はその文字を見て、そしてまた俺の顔を見た。そして口で「おめでとうございます」と言った。その音声のない声を、俺はしっかりと心に刻みつけていた。少なくともこの世界に一人は、俺の誕生日を祝ってくれる人がいたわけだ。俺はほんの少しだけ嬉しくなった。
「今日は会社を休んだんです」と俺はまたメモ帳に書いた。どうしてそんなことを伝えようと思ったのか、俺にはよく分からない。でも彼女になら俺の感じているこの気分を理解してもらえるかもしれない、と本能的に思ったのだと思う。考えてみれば不思議なものだ。ついさっきまでは知らない者同士だったのに。
彼女はこちらを見て、それは、という顔をした。そしてまたにっこりと笑った。俺もまた思わずにっこりと笑った。彼女は口で「なぜ?」と言った。
「なぜって・・・」と俺は言いかけて、またメモ帳に戻った。「今日はとても気分が良かったら、会社になんて行きたくなかったんです。それで熱を出したとうそをついて、散歩をしていた」
彼女はその文字を見て――かなり急いで書いたから、判別しにくい字だったとは思うのだが――また少し笑った。その様子を見て、また俺も笑った。カラン、という音を立てて、アイスコーヒーが回転した。グラスに付いた水滴が、すっと下の方に落ちるのが見えた。音楽はすでに別のものに変わっていた。空気が回転し出したように、俺には感じられた。
彼女はそこで俺を見て、「ウィルス」と言った。少なくともそのように、俺には見えた。
「ウィルス?」と俺は言った。「ああ、コロナウィルスのことね? でも大丈夫。周囲に感染した人もいないし・・・」
彼女は首を振った。そうじゃないのだ、とその顔は言っていた。そしてまた「ウィルス」と言った。俺にはわけが分からなかった。
「コロナウィルスじゃないウィルス?」
そうだ、という顔を彼女はした。そして空気中に人差し指を立てて、一度小さな円を
俺はよく分からなかったけれど、とりあえず一度頷いた。「ああ、ウィルスね。空気中を動き回っている・・・」
彼女はそこで突然立ち上がり、俺のすぐ隣にやって来た。そして俺の手を取って、ボールペンでメモ帳に何かを書かせようとした。その手は予想外に冷たかった。俺は驚きながらも、彼女の意図を感じ取ろうと努めた。彼女は何を書かせようとしているのだろう?
彼女はたぶん、俺にまず円を
彼女は俺の手を細かく揺らした。俺は始め何を
うん
、大丈夫
、という声が――実際には音声は発せられなかったけれど――手の感触を通して聞こえたような気がした。その震えは波形を取ったり、あるいは小さな丸になったりした。ときには人の目玉のような模様になった。いずれにせよ俺はただ自動機械のように、彼女の意思をそこに移し替えていた。模様はどんどん増えていった。最初に
やがて円の中に余白がなくなってしまうまで模様を描き終えてしまうと、彼女はふっと息をついた。そして手を離し、一度円の輪郭を指でなぞった。ほっそりとした、上品な指だった。俺はただそれを見ていた。心臓の鼓動は今では平常運転に戻っていた。俺は良くも悪くも、昨日までと同じ俺だった。
と、そのとき何かが起こった。
始めは目の錯覚なのだと思った。変な模様を
それはまるで小さな虫のような動きだった。俺は実は小さい頃から虫が大っ嫌いなんだが、このときに限っては別に気味が悪いとも思わなかった。ああ、動いているな、と思っただけだ。そこには明らかに生命の徴候が感じ取れた。たとえばコンピューターで制御されたような、人工的な動きではないのだ。その一つ一つの模様が――それらが何を意味しているのか、いまだに俺には分からなかったのだが――確実に生命を有している。俺にはそれが分かった。目玉は左に行き、波形は下に行く。細長いキュウリみたいなやつは回転していた。その全体の動きには何か意味がありそうだった。俺にはまったく理解できない意味が・・・。
俺が夢中でそれを眺めているのを見て、彼女はにっこりと微笑んだ。そして声には出さずにまた「ウィルス」と言った。
「ウィルス」と俺もまた声に出さずに言った。彼女は一度深く頷いた。そしてまた言った。「
ウィルス
」と。俺は自分の頭の中で何かが動いているのを感じ取っていた。ちょうど今見ているこの模様みたいに。まさにこんな風に俺の脳の中を何かが動き回っているのだ。心臓の鼓動がさらに速くなっていた。徐々に体温が上がってきたのに気付いた。彼女は今では自分の席に戻り、そこから頬杖を突いて俺のことを見ていた。サングラスの奥の目を、俺はどうしても見てみたかった。彼女が本当はどんな顔をしているのか、この目に焼き付けたかった。でもどうしてもこのメモ帳から注意を逸らすことができなかった。これは今この瞬間も動き続けている。もしちょっとでも目を逸らしたら、何かまったく別のものに変わってしまうかもしれない。別にそれが悪いってわけじゃないが、俺はその瞬間を見逃したくなかった。そう自分の本能が言っているのが聞こえた。
ねえ、これは穴なのよ
、とそのとき誰かが言った。それは明らかに彼女の声だったが、目の端で見える彼女の口が動いたようには感じられなかった。それにその声は、きちんと空気を震わせて、俺の鼓膜に届いたのだ。単なる吐息なんかではない。あなたの中には穴があるの
、と彼女は言っていた。俺はそれをきちんと聞き取ることができた。おそらくは心のどこかで。それはすごく空虚な穴で、誰にも塞ぐことはできないの。
俺は一度小さく頷いた。模様はまだもぞもぞと動き続けていた。右に、左に。時に回転し、時に小さく縮む。かと思うと分裂する。触覚のようなものが生え、ちぎれる。また生え、ちぎれる。俺はただそれを見ている。
でもそれがあなたなの
、と彼女は言っていた。あなたは決して価値のある人間じゃないのよ。ウィルスと一緒なの。盲目的に殖〈ふ〉えて、子孫を残す。それ以外に存在する意味なんてない。
俺はまた小さく頷いた。
存在する意味なんてない
。でも待てよ、とすぐに俺は思う。だとしたら、あなたもまた穴だ
ということになるんじゃないのか?そう、私も穴なの
、と彼女は言っていた。空虚な穴。でもね、私は彼らに逆らうことにしたの。盲目的に殖えるだけなんてつまらないからね。そうは思わない?
思う
、と俺は思った。そしてその先に続けて何かを言おうとした。何か、意味のあることを。実際に空気を震わせて。でも言葉は出なかった。どこをどう探しても言葉なんてものは存在しなかったのだ。俺の意識は今完全にその穴に――そしてその中をもぞもぞと動き回っている手描きのウィルスたちに――引き込まれていた。いろんなものが遥か遠くにあるように思えた。でも、にもかかわらず、俺は今この瞬間生きている。俺にはちゃんとそれが分かった。私は死ぬわ
、と彼女は言っていた。彼らの裏をかいてやるの。盲目的に生きるのなんてごめんだ、ってね。そして神になるの。
神に? と俺は思う。
そう、神に
、と彼女は言う。自分から死を選んだ者は神になれるのよ。知らなかった?
知らなかった、と俺は思う。
ねえ、私に付いてきて
、と彼女は言った。そして席から立ち上がって、俺の手を取った。俺は何が起きているのかも分からぬまま、ただ彼女に従った。目はまだ例のウィルスの動きを追っていた。しかし身体は、実際にこうしてコーヒーショップの中を歩いている。メモ帳はテーブルに残したままだ。というか俺も彼女も、鞄を椅子のところに置いてきている。でも今はそんなことを考えている場合なんかじゃないんだろう、と俺は思った。重力が奇妙に歪んでいるような感覚が確実にあった。俺はふらふらした足取りで、彼女のあとに付いていった。彼女の手は嫌に冷たかった。俺の意識はいまだにどこに焦点を結べばいいのか分かっていなかった。見えるのは穴。そしてそこをそのとき店の天井に穴が空いていることに気付いた。それは空虚な穴だった。本来照明がぶら下がっているはずのところに、大きな穴がぽっかりと空いていたのだ。彼女はその真下に来ると足を止め、一度上を指差した。俺はそこをじっと見つめた。
周囲は驚くほど静かだった。まるでついさっき窓ガラスが割れた時点で――あれは本当に爆弾だったのだろうか?――時間が止まってしまったかのようだった。音楽も今では消えていた。ほかの客のおしゃべりも聞こえない・・・。と、そのとき気付いたのだが、ほかの人々はみないなくなっていた。跡形もなく、さっきまで存在していたという気配すらなく、消え去っている。この店には今俺と彼女しかいない。
それが何を意味しているのか、そのときの俺にはよく理解できなかった。分かるのはただ、さっき彼女の奇妙な声を聞いたあたりから、自分が変な世界に入り込んでしまった、ということだけだった。これは現実なのだろうか? それとも夢なのだろうか? もっともそのどちらにせよ、自分がここをきちんと生きるしかないことを俺は本能的に感じ取っていた。夢だろうと現実だろうとさほど変わりはない。なにしろ俺に選びようはないのだから。
彼女は上に向けていた指を、今度は俺の
その恐ろしいほどの静寂の中で――まるで天井の穴がすべての音を吸い取ってしまったかのようだった――俺たち二人は向き合って立っていた。彼女は相変わらず指をその部分に当て続けていた。俺は小さく呼吸を続けていた。心臓が動きを止めたのが分かった。ドクン、ドクンと、ついさっきまで鳴っていたのに、今では鼓動が止まっている。どうしたんだろう、と俺は思う。でもそんなことを思ったところで、何かが改善されるわけじゃない。血液の流れが
身体が腐り始めている
、と俺は思う。俺はその腐臭を、鼻のあたりに嗅いだような気さえした。もっとも彼女が指を触れている部分だけは、非常に奇妙な熱を持っていた。俺にはそれを感じ取ることができた。まるで俺の中のすべてのエネルギーが、今その一点に集中していっているような気分だった。いや、「気分」というか、実際にそうだったんだろう。彼女は明らかにそれを意図して、指をそこに当て続けていたのだ。穴が俺をじっと見つめていた。俺にはそれが分かった。俺は一度目を閉じ、そして開けた。彼女は相変わらずそこにいたが、見え方がさっきとはちょっと違っているようにも思えた。何が違っているのだろう?
そのとき彼女が死んでいることに気付いた。そう、彼女は
死んでいた
のだ。ついさっきまでは生きていた。でも今では死んでいる。俺が俺はそれを見逃すべきではなかったのだ
。でもすでに終わってしまったことを悔やんでも仕方がない。時は逆戻りはしない。それは普遍的な真実だ。彼女は指をまっすぐ俺の額に当てたまま、完全に硬直していた。そこにあるのは単なる死体だった。意識を持った、生きた人間ではない。だとすると俺はどうなんだろう、と俺は思う。俺の心臓は止まってしまっている。血液の循環も止まってしまっている。呼吸だってしなくていいような気がする。
だとすると
、俺は生きているのだろうか
?そのときまた声が聞こえる。それはどうやら天井の空虚な穴から響いてくるようだった。俺にはそれが分かった。
あなたは間違った場所にいたのよ
、とその声は言っていた。間違った場所にいて、間違ったことをしていたの。これまで三十年間ずっとね。そして今日ようやくそこから抜け出そうとしている。ねえ、私と一緒に来ない? そして神になるの。奴らの裏をかいてやるのよ。
奴らって誰なんだ
、と俺は思う。実際にそう口に出そうともするのだけれど、もはや声が出ないことに気付く。指一本動かすことはできない。やはり俺もまた死んでいるのだろうか? すべては終わってしまったんだろうか?あなたは三十歳になったんでしょ?
とそこで彼女は言っていた。だとしたら、そろそろ真実を見てもいいんじゃないかしら? 見たいものだけじゃなく、見なければならないものを見るのよ。
見なければならないものを見る
、と俺は思う。そのとき穴から何かが噴き出してくる。それは熱を持った何かだった。俺にはそれを感じ取ることができた。しかし、にもかかわらず、目に見ることはできない。
それら
は穴から大量に噴き出してきて、俺と彼女の肉体に付着した。そして増殖を繰り返しながら、我々の肉体を徐々に徐々に彼らは増殖して、増殖した結果、自らをも滅ぼすのよ
、と彼女がどこかで言った。君はどこにいるんだ? と俺は訊いた。そして
俺は
どこにいるんだ?あなたは・・・
と彼女が言ったところで、急に音が戻ってきた。それは元いた喫茶店のテーブルだった。