水色の兎

文字数 2,805文字

 ホントに、器にごはん入れてきてくれるだけでいいんで。
 そういって渡された銀色の鍵にはまるまると太った水色の兎のマスコットが引っつき、間抜け面で左右に揺れていた。


 田舎町にあるちんけな本屋でのアルバイト、常連客である禿げ頭の脂っぽい年寄りに理解不能な理由でもって七分間ぶっ続けで罵られた後、死んじまえクレーマー生ごみジジイ、鬼嫁に猛毒盛られてくたばれ、などと一人更衣室でぶつぶつと呟いていたらなぜか『大好きな男の子の家に合法で上がり込めるご褒美イベント』とやらが発生した。
 バグりきった頭を必死に整理し、ひと通りイベント内容を理解すると、私は心のなかで「私の世界」のバカなプログラマーが生んだ詫び石レベルのミスへ盛大に感謝する。
 私、この人生に一円も課金してないのに。
 無料ガチャですげーカード引き当てちゃったんだけど。ねえ、神様って本当にいるし、こっちのことめちゃくちゃ見てるよ。やばいって、もう、こんなんさあ。
 山内くんから貸してもらった鍵をぎゅっと握り締めながら、私は本気でそんなことを思っていた。

 山内くん。彼は同い年のアルバイト仲間であり、私より四か月あとに入ってきたくっきり二重の中性的な男の子であり、私と同じく作家を目指す若者である。山内くんと私の外見には天と地ほどの差があり(山内くんは直球のイケメンで、対照的に私は百円均一の着せ替え人形みたいに中途半端な派手顔で、けれど異様なほど周囲に溶け込みすぎる、いわゆる“いてもいなくても同じような人間”の代表格だ)、そのうえ各々書くものの方向性も全く違うのだけれど、なぜか愛読する作家だけは八割方一緒だった。
 私が他者と本の話をするとき、それまでの人生ならばまず「××という作家がいるのですが」から始めなければならなかったが、山内くんに限っては「××先生の○○に出てくる△△」と話すだけで、それは充分すぎるくらいに伝わった。
 私は本に対する執着がとりわけ強く、同居する家族にすら自分の所有している本に触れられることを酷く拒むのだけれど、山内くんへならとんでもなく高い一冊だって、二度と手に入らない絶版ものだって平気で貸してあげることができる。
 私の夢は自身の作家デビューであったが、それと同じくらい山内くんの恋人になることでもあった。


 教えてもらった山内くんの家の住所をグーグルマップに入力すると、瞬時に道のりと到着までの時間が表示される。徒歩、十二分。できるだけゆっくりと歩きながら、私は山内くんに頼まれたことを丁寧に思い出す。
「ほらぼく、うさぎ飼ってるって前に言ったじゃないですか。覚えてます? 名前、ムウちゃんっていうんですけど。もうね、ムウちゃん、めーっちゃくちゃかわいーんですよお! あ、それで、あと四時間くらいしたらムウちゃん晩ごはんの時間なんですね。普段はタイマー付きのマシーンで自動的にごはんが出てくるようになってるんですけど、それが今朝なんでか知らないんですけど壊れちゃって。勿論新しいやつはすぐにAmazonで注文したんですよ、でもお急ぎ便を使ってもあしたにならないと届かないみたいなんです。だから、きょうの晩ごはんは誰かがあげないと駄目で。ここにくるまでにも友だちとかには連絡したんですけど、タイミング悪いのか、誰からも全然返事なくて。でもぼくは今からバイト入らないと駄目だし、ムウちゃんだってごはん食べないと駄目だし、でも今更バイトサボるわけにもいかないし、どうしようもなくて……で、申し訳ないんですけど伊東さん、ムウちゃんにごはんあげてきてくれませんか? これ、ぼくん家の鍵です」
 山内くんがムウちゃんという名前の兎を飼っていることは当然把握していた。彼自身が過去四度、話題に挙げたことがあるからだ。
 そのときの彼が「ムウちゃんってもう信じられないくらいかわいいんですよ、ぼくムウちゃんがいればなんでも頑張れるんです!」と元気よく言っていたこともしっかり覚えている。そして自分が、どうにかしてムウちゃんになりてえ、と思ったことも。
 山内くんから借りた彼のアパートの鍵には三桁のナンバーが書かれていた。それはなんてことないただの数字の羅列だったけれど、私にはとんでもなく素敵な番号に思えてならない。おそらくはムウちゃんに似ているからという理由で括っているのであろう、不細工な水色の兎のマスコットも、山内くんの愛らしい雰囲気にはよく合う。
 私はこれから上がり込む山内くんの部屋を事細かに想像してみる。
 きっとそこは隅々まできちんと整頓されていて、机には小ぶりの観葉植物なんかがあったりして、窓からは夕焼けが斜めに差し込んでいて、ムウちゃん本人とムウちゃん専用のおもちゃが一か所にまとめて置いてあって、あとは様々なジャンルの本が驚くほどたくさん並んでいるのだろう。山内くんの部屋には山内くんの気配が隅々まで行き渡り、満杯になっている。そこへ、私が入り込むことが、まさに今日許されたのだ。僥倖としか言えなかった。


 勿論、私は山内くんが願ったとおりムウちゃんにごはんをあげたら早々にその部屋を立ち去るつもりでいる。例えばそこで少しくつろいでみようだとか、ちょっとだけ掃除してあげようだとか、そんなことは絶対にしない。だってそれは私たちが“恋人”という関係になれたとき存分に味わうべきことだからだ。
 普段の私ならばここですぐ「山内くんが私を好きになってくれるはずがない」と思えるはずなのに、自宅の鍵を貸してくれた、という事実がおかしいくらいに私の目を眩ませる。
 断言する。山内くんは、私のことを“話の合うバイト仲間”としか見ていない。そんなこと、最初から、誰より私が一番わかっている。そうなのだ、私は山内くんに女として見られていない。だからこそ山内くんは私に平気で鍵を貸したし、住所だって教えてくれたのだろう。私の知っている山内くんはつまりそういう男の子だった。
 私が山内くんの家に行くなんて、どう考えてもこれが最初で最後だろう。それが本人不在時であることはなんとも皮肉というか、中途半端でやり切れないところだが、きっと私たちの間柄ではこの程度が一等しっくりくる形だとも言えた。

 山内くん曰く、今晩のムウちゃんのごはんはジップロックにひとまとめにして、調理台の目立つ場所に置いてあるらしい。それをムウちゃん専用の器に入れたら、私はムウちゃんをひと撫ですることすらもなく、さっさと山内くんの部屋を後にする。
 あしたバイト先で山内くんに会ったら私は簡単な挨拶の後、間髪入れずに鍵を返して、部屋の感想を伝えることもなく、大好きな人の部屋に入ってしまった胸の高鳴りにも、その部屋を出ていく瞬間のこの世の終わりみたいな気持ちにも分厚い蓋を丁寧に被せて、ただ、
「ムウちゃん、めちゃめちゃかわいかったあ!」
 と、それだけのことを早口で伝えるのだろう。
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