第8話 触れもせで

文字数 6,339文字

 デッサンのレッスンが終わって、私は飲み会を断って急いで家に戻ろうと駅に向かった。季節は随分変わり、冬が近づいていた。
 駅の広告に
「アイネクライネナハトムジーク 弦楽四重奏」と書かれたコンサートの告知ポスターが貼られている。
 だれかが冬は夜が長いからコンサートが多くなると言っていた。私は首に巻いたスカーフを緩めて、電車に乗る。
 小夜子という名前が「アイネクライネナハト…」と言って「子がない」と言った先生の言葉を思い出して、少し笑う。
 先生に教えてもらわなければ、この曲名もカタカナの音でしかない。
 スケッチ会を最後に私は先生に会っていない。
「意味なんて分からなくても感動できますよ」といつか言ってくれた言葉が私を救ってくれた。
 未だに絵を描く意味が分からない私をそれでいいと言ってくれた初めての人だった。
 たくさんのことを教えてくれた。ドイツ語の挨拶だって覚えている。こんなにいろんなことを与えてくれて、私は何か返せたのだろうか。そんなことを思いながら電車に映る自分の顔を眺めた。
 一年、一年、年を取っていく。それなのに私は少しも賢くならない。だから開き直って、考えることを止めた。裕子さんと本当にギャラリーを借りることにした。
「動け、動け」とひたすら心の中で繰り返す。
 教室のギャラリーは広すぎて二人では作品を用意するのが厳しい。小さなギャラリーを見つけて、春には二人展ができるように頑張ろうと予約した。だから私も裕子さんも飲み会にも参加せずに急いで帰る。

 年末に長男が家を出た。一人暮らしをする費用も自分で貯めていたらしいから、私は反対しないどころか、部屋が空いて嬉しかった。そこで絵を描けると思ったからだ。
 家を出る日、玄関先で見送ると
「母さん…変わったね」と長男が言う。
「え?」
「生き生きしてる。なんか絵を習いに行ってよかったじゃん」
「うん。友達できたし」
「じゃ」
「頑張って」と見送った。
 扉を開けて出ていく長男の後ろ姿は光に包まれて眩しかった。
「次は次男かぁ。二人きりの生活になるなぁ」と夫が言うから「嫌なの?」と聞いてみる。
「そんなことないよ。ゆっくり…できるなって」
 私はそんな夫の顔をじっくり見る。
「何?」
「…何でもない」と言って、私はいーだと顔を顰めた。
 過去のことは蒸し返さない。気持ちがなかったらしいから。でも私は気持ちしかなかった。触れることもない人を好きになった。だから、彼の言い分ではきっと私の方が重罪にあたる。
 ――重罪。
 甘んじて受け入れよう。
 だって私にはそれぐらい大きな出来事だったから。

 春になって、明日、二人展の初日を迎える。前日の夜に搬入して絵を飾るのも大変だったけど、楽しい。学生に戻ったみたいな気持ちになれる。
「絵に値段をつけるのって新鮮」と裕子さんは言う。
 私たちは一つの絵を三千円から八千円とかなりお手頃価格にしておいた。
「キッチンに飾ってもらうような気軽に買える絵を描こう」と二人で決めた。
「季節に合わせて掛け変えれるような絵を描こう」と話し合った。
 私が届かない場所に絵を飾ろうとすると、すぐに脚立を裕子さんが貸してくれる。
「あのね…。先生にも案内出したから」
「え? 住所聞いてたの?」
「ううん。知らない。教室の受付に頼んだの。個人情報保護法で教えてはくれなかったけど。せっかくだから先生にも来て欲しいよねと思って」
「そう…なんだ。来てくれるかな」
「さぁ? でもさ、小夜ちゃんと先生、二人良い感じだったから」
 思わず脚立から落ちそうになった。
「みんな言ってたよ。二人仲良いなぁって」
「あ…え? そんな…こと」
「好きだったでしょ?」
 手から絵が滑り落ちた。脚立から降りて絵を拾う。こんなに醜態をさらしていまさら取り繕うこともできない。それに裕子さんだから素直になることにした。
「…好きだ…ったけ…ど。でも」
「知ってた。だから小夜ちゃんがなるべく気を遣わないでいいように、私、間に入ったりしてたんだよ。スケッチだって…先生と二人だったら、余計な噂立つでしょ?」
「そう…だったの?」
「うん。だからね。先生とどこか行けるように、取り持ってあげる役目と…危ない関係にならないように見てる役目と両方…。やっぱり二人とも…いい関係でいて欲しかったから」
「大丈夫だよ。先生は奥さんを大切にされてて、だから…看病もされてて、そんなことなるわけないじゃん」
 私が掛けようとしていた絵を取り上げて、裕子さんは綺麗に飾ってくれる。
「どうかな。教室辞めたの…奥さんだけのせいじゃないと思うよ」
 それ以上の理由が分からない。でも聞けなかった。
「ま、来てくれるかどうかは分からないし、もうどうしようもないことだし」と言いながら、裕子さんが脚立を持っていく。その後ろ姿を見ながら、呟く。
「どうしようもない…その通りだけど」
 振り返って、裕子さんは少し柔らかく笑った。
「素敵だったよ。恋ってこんな風に始まるんだって私は思ったけど」
「始まってないから」と私は大きな声で訂正する。
 まるで女子高生みたいに恋バナではしゃぐ。
「急いで作業しないと終わらないよ」と裕子さんに言われて慌てる。
 先生とスケッチ会で描いた絵を私はそっとかけた。長細い海。きらきらして眩しい海が瞼に焼き付いている。言えなかった想いがこの絵に詰まっている。
 私の方のDMはこの絵をハガキにした。
 先生が来てくれるかな、と少し思った。
 
 当日、私はスパークリングワインとちょっとしたおつまみを用意して持って行くことにしていた。夕方にレセプションパーティをする予定だった。重たいので、夫に車で運んでもらう予定にしていたけれど、急にお腹を壊したらしいくてトイレから出て来れなくなった。慌ててタクシーを手配するけれど、今日に限って、すぐには捕まらない。私は裕子さんに遅刻を連絡して、重たい荷物を持って家を出た。大通りに出たらタクシーが拾えると思ったからだ。いつもタクシーが走ってるのを見るのに、タクシーが来ない。配車アプリをいまさらダウンロードした方がいいのだろうか、と私は途方に暮れた時、ようやく空車の光るサインを見つけた。
 そう言うわけで一時間ほど、遅刻して行った。月山先生や、デッサン教室の生徒さんたちが来てくれて小さなギャラリーは賑わっていた。
「レセプションパーティは夕方なのに…」と挨拶もそこそこに言うと、また夕方来てくれると言ってくれた。
「小夜ちゃん」と裕子さんに呼ばれる。
 荷物を持って、裕子さんの方に行くと「先生、今帰ったの。ちょっと待っててくれたけど…。後、小夜ちゃんの絵、買ってくれたわよ。あの海の絵。それで今なら間に合うかもしれないから、駅まで走って」と言われる。
「え?」
「急いで、ほら」と文字通り背中を押される。
 その勢いで私はギャラリーを飛び出した。
 来てくれてたんだ。
 絵を買ってくれたんだ、と言うことで胸がいっぱいで涙が出そうになる。
 必死で駅に向かった走った。後ろ姿が見えた。
「先生」と呼びかけても聞こえないみたいだった。
 足がもつれそう。久しぶりに走ったから心臓が破裂しそうに苦しくなる。
「先生」と私の騒音のような足音に振り返ってくれる。
「小夜さん」
「せ…あ…くる…し」
 私は肩で息をするどころか、もう倒れそうだった。それを見て、先生はまた笑った。
「いつも肩で息をしてますね」
 懐かしい言葉にも言葉を返せないほど、息が上がっている。
「…」
 しばらく待ってくれていた。
「あの…ありがとうございます。…来て下さって。…それから絵まで…買って頂いて…、後、いろいろ」
 やっぱり言えない。私の罪深い話は喉で止まった。
 更年期による汗が噴き出してくるのでハンカチを鞄から取り出す。
「いえ。僕の方こそ…。デッサンを教えて頂いて」
 あぁ、そうだ。
「ドイツ語、私の名前の曲も覚えました。モーツアルトの…」
「あぁ、アイネクライネナハトムジーク」
「全然、私とは違う華やかで明るい曲ですけど…」と言うと先生は笑った。
「そんなことないですよ。ぴったりです」
 およそ似つかわしくない美辞麗句を真面目な顔で言ってくれるから、私は泣きそうになって、笑ってごまかす。
「そういう女性を目指そう…かな。あ、先生お時間急いでるんですよね。本当にありがとうございました」
「いえいえ。見舞いに行こうと思ってて。時間はまだあるんですけど…」
「奥様…どうですか?」
「…一進一退で。多分、本人の気力がどこか失われている気がします」
 私はかける言葉が見つからない。それでも先生には幸せでいて欲しかった。それは私のエゴだと思うけれど。
「あの…大変だと思うんですけど…先生も…無理なさらずにお体をお大事にしてください」
 手紙の最後につける常套句のような言葉だけれど、心からそう思った。私が願えることはそれしかなかった。
「ありがたいです。そう言って下さって」
 ただの勝手な願いなのに、感謝なんてしなくていいと私は首を横に振った。
「元気になりました」
 微笑んでくれるのに、私は涙が溢れそうになった。
「あの日、デッサンを教えてくれて…。いつも教える立場だから…。大学の第二外国語なんて、単位習得できればいいという学生が多いし、まぁ、こっちも仕事だからとある程度、割り切ってたんです。だから…あなたが教えてくれた時、本当に絵が好きなんだなって、好きなものを人に伝える姿がきらきらしてて…僕は反省しました」
「反省…なんて」
 私は仕事と割り切ることもできなかった教師失格者だ。
「続けてくださいね。絵を描くことを。応援してます」
 汗を拭くふりをしてハンカチで涙も押さえた。
「じゃあ…約束です。私は絵を頑張りますから、先生は…元気でいてください」
「ははは。僕もなにか頑張れることを探して、頑張りますよ」
 約束でさえ、指切りできなかった。最後まで触れることのできない恋だから。
 駅まで、少し長く喋ったけれど、もうそろそろだと別れの挨拶をする。
「買った絵が届くのを楽しみにしてます」
「はい。期間が終わったら、送らせていただきますね」
「白い壁に飾ったら、海が見える窓みたいになるな、と思って」
 先生の家がどんなインテリアなのか内装なのか分からないけれど、素敵な飾り方だと私は思った。
「では」と言って駅に向かって行った。
 私もギャラリーに向かう。
 見上げる春の空が柔らかく白く光っている。花粉のせいだ、と目を擦った。

 六日間の展示会は無事に終わった。価格が安いせいか、ふらっと通りかかった人が買ってくれたりした。ギャラリーを借りるお金や画材など細かく計算すると赤字だけれど、二人とも満足していた。
「お疲れ様」と裕子さんが言うから、私は思わず抱き着いた。
「やってよかった。ありがとう」
「えー、こちらこそ、ありがとうだよ。小夜ちゃんの昔の知り合いもたくさん来てくれたし」
「うん。会えたの久しぶりだった」
 売れた絵を送るためにプチプチの緩衝材で包んでいく。
「先生に会えてよかったね」
 頷きながらさらに包装紙に包んでガムテープで止める。
「会えて…良かった。じゃなきゃ、二人展なんてしてないもん」
「またやろう。先生来てくれるよ」
「…うん」
「授業は受けなかったけど、事務手続きに来た先生に聞いたの。先生が辞めた理由…」
「うん?」
 買ってくれた人の宛名が書かれた送り状をチェックする。
「楽しいからだって」
「ん?」
 間違いないと確認してから貼り付ける。
「自分の絵が上達するのも、みんなと会話するのも…」
「へぇ。でもやっぱり忙しいから? それとも奥さんに対する引け目?」
 裕子さんが黙り込んだので、顔を上げる。額を指で押された。
「恋しちゃったからじゃない?」
「はぁ? 先生がそんなこと言うわけないじゃん」
「言わなかったよ。言わなかったけど、教室に残ってた小夜ちゃんのこと見てた」
 もう先生が来なくなったレッスン、私は教室から出る気になれなくて、片づけ終わった後、作品をぼんやり眺めてた。
「声かけますかって聞いたけど、首を横に振って。ギャラリー初日だって、もう少しで来るって言うのに、帰っちゃうし…」
「それって嫌われてたんじゃない」
「嫌いな人の絵なんて買わないでしょ? 会いたくて、会えなかったのよ」
「もう…なにそれ。壮大な恋愛ファンタジーじゃない。…そんなはずないのに」と私はあの日の海の絵を緩衝材で包む手が止まった。
「…確かにファンタジーかもね。遠くにいてお互い思い合ってるなんて」と背中を軽く叩かれる。
「もう」と言って、私は絵を包んだ。

 しばらくして先生からお礼の手紙が届いた。
「拝啓
 無事に絵が届きました。早速、壁に飾っています。あの時、繰り返し聞いた波の音が聞こえてきそうです。
 絵を見てると、あの日のことが思い出されます。結局、みんなで海に足を浸したこと、もう何十年も海に触れることもなかったので、新鮮な気持ちになれました。久しぶりに若返ったような気持ちになって薄くぼやけている水平線を見ました。
 少々やさぐれていた私の中で、温かい記憶になっています。

 小夜先生は華やかではないとおっしゃってましたが、いつも一生懸命でそれでいて笑顔だったので、僕の気持ちも明るくしてくれました。どうかそのままでいてください。そのことを言えなかったと後悔しました。そのままで充分素敵です。

 何とか日々を送っている中で日常の癒しとなる絵をありがとうございます。今後の活躍も祈っております。応援してますので、頑張ってください」

 私は手紙を畳んで、そしてあまり使う事のない冠婚葬祭の鞄の中にしまい込んだ。返事を書こうとして、何度も繰り返し書いては捨てた。その無駄になった便箋は台所の生ごみにきちんと袋に入れてから捨てる。

 結局、買って下さった方に送るようのハガキを一枚一枚描くのと同じにした。
「ご購入くださってありがとうございます。ちょっとした幸せをお届けできたら幸いです」
 先生の分には「どうかお元気で」とだけ付け加えた。
 私が願える範囲の願いだ。
 切手を貼っているとと夫が顔を出す。
「郵便局行くの? 車で行こうか?」
「あ、ううん。運動がてら行くから、大丈夫」と断る。
「帰りに近くのカフェでお茶してもいいし」
 優しい夫はそう言ってくれる。
「あ…じゃあ」と私は急いで切手を貼る。
「ごめんな」
 不意に謝られた。
「何?」
「…ギャラリー送って行けなくて」
 きっとそれだけじゃない気がして「ほんとだよ」と言った。
「ねぇ、あなたが介護になったら、昔、相談に乗ってあげてたという後輩ちゃんに世話してもらいなさいよ。私が子育てでいっぱいだった頃、放置してたんだから」
「ごめんって」と慌てる夫を横目で見る。
「絶対よ」と言って、私はハガキを鞄に入れた。
「いや、もう連絡先も分からないし」
「探偵を使ってでも探して、してもらいなさい」と言って立ち上がった。
 くだらない話をしているな、と思いながら、玄関に向かう。
「果物がたっぷり乗ったホットケーキおごるから」
(そんなもので済むと思うな)
 先生が書いてくれた笑顔できらきらしている私なんて存在しない。
「私、バターとメープルシロップの普通のホットケーキが好きなんですけど? 初めて知りましたか?」
 嫌味を連発するおばさんでしかない。
「え?」
「二人でホットケーキ食べるの初めてじゃないよね?」
 ストラップ付の靴を履く。玄関を開けると長男が出て行った時のように眩しい光が差し込んでくる。
「…知ってた」と背後から夫の声がする。
 明らかな嘘。
 でもいい。
 私は夫の判断からすれば大罪を犯した人間。
 気持ちが好きになって
 触れもしないで恋をした。

  ~終わり~
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