第1話

文字数 796文字

「雨を聴くと、落ち着かない気持ちになるんです」
 彼女は言った。彼女のうしろで、大きな窓を雨粒が、絶え間なく叩いていた。
「胸が潰されるような、たまらない気持ちになるんです」
 グラスのアイスカフェオレの氷が、からんと音をたてた。濡れた足もとが店内の冷房で冷え切っている。こんな日に冷たい飲み物なんて、女の子に飲ませるべきじゃなかったなと、今さら反省した。
「だからわたし、考えていたの。むかしむかし、わたしがわたしじゃなかったころ、わたしはこんな雨の日に、大切なひとをなくしたんだって。だって今も、雨を聴くだけでこんなにつらい」
 ぼくは彼女の冷たい指さきを握った。
「きみは前世のことを言っているの?」
 彼女は寒そうに肩を丸めた。ぼくは彼女の肩越しに降りしきる雨を見つめた。
「不思議だね。ぼくたちは神さまを信じていないのに、生まれ変わりは信じているんだ。ぼくは雨を聴くと、どうしようもなく嬉しい気持ちになるよ。逸るような気持ち。大切なひとに、やっと会いに行けるような気持ちだ」
 しばらくは雨の音しか聞こえなかった。やがて彼女が再び口を開いた。
「石畳の道で、馬車は泥水をはねながら進んでいました。今の車に比べたら乗り心地は最悪だけれど、私はあれが好きだった。がたがた揺れてるうちにね、泥水の泥が沈殿するみたいに、頭の中がだんだん澄んでいくの。たくさんたくさん飛び交っていた言葉たちが、ぐるぐる回る速度がゆっくりになって、彗星の尾みたいにあとが間延びしてはっきり見えるようになって、そのうち手を伸ばしたら掴めるようになるの」
「今、掴んだら何と読める?」
「長かった、と」
 ぼくは微笑んだ。
「その日は冷たい雨が降っていました」
 彼女は囁くように言った。
「今日みたいに太陽が雲を黄色に染めていた。それでいて土砂降りだったんだ」
「百年前の今日」
 彼女は夢みるような眼をあげる。
「百年はもう、きていたんだな」



おわり
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