花火

文字数 5,467文字

 ねえ、キスして。くびの後ろに手をまわしながら、沙耶が言う。瞳の奥の奥に夜空のような冷たくて温かい闇があって、諒は困ったように笑うと、彼女の唇にそっと口づけをする。七月のしけた生ぬるい風が網戸からゆっくりと入ってきて、ふたりの額に汗を乗せた。沙耶が諒の首を甘えるように撫でて、胸に頭をのせる。シャンプーのくちなしの様なにおいが諒の視界をぐらんと揺らす。彼は沙耶を押しのけてベッドから立ち上がると、部屋を出て行った。沙耶は、シーツをくしゃくしゃにして、ベッドの上に座り込んだまま小さく泣いた。月の大きな夜だった。

 どうして愛せないんだろう。こんなに愛しているのに。夏の温度を立ち昇らせる川面に向かって、ゆっくりと溜息を吐く。ポケットからタバコを取り出して、火をつけた。街灯に照らされたライターの火は何だか汚らわしくて、火で暖かくなった人差し指を、半そでで拭った。シャツは、かいた汗が蒸発し始めて冷たくなっていた。不味い煙を吐き出して、沙耶にラインを送る。
「いつもごめん。沙耶のことは本当に愛しているから」
口の中に、煮詰めたべっこう飴みたいな苦みが広がっていく。本当なのに、どうして、嘘っぽく見えるんだろう。世の中の薄っぺらい告白のことばや、ラブソングの焼き直しのような愛の囁きはホンモノに見えるのに。ラインに既読はつかない。諒は、彼女が今頃自分のにおいがついたシーツを握りしめながら、泣いていることを知っている。

 アパートまで帰ると、隣の部屋に住む英司が諒のことを待っていた。
「タバコ臭いね。悩みがあるなら聞くよ」
ドアの前まで隣を歩きながら、英司がうつむいてそう囁いた。
「別に。相談してもどうにもならないから」
「そっか」
英司は当たり前のように、諒の部屋に一緒に入ってくる。彼はドアを閉めたとたん、半ば強引に口づけをした。
「やっぱり、タバコ臭い。今度から吸わないで」
「僕の自由だろ」
諒がそう言っている間に、英司は彼の服をゆっくり脱がす。
「一週間ぶりだから、今夜は激しくやりたい」
英司の瞳は諒のことをまっすぐ見ていたが、諒の瞳は一人分の狭いベッドのほうをずっと向いていた。月の光が枕をかすかに照らして、青白い暗さの中で、二人は抱き合う。英司は、ツバメの雛のように諒の唇をついばんだ。
「うん、わかってるから」
沙耶からのラインが来て、通知音が鳴った。うるさい沈黙の中で、間の抜けた音が鳴り、英司が舌打ちをする。
「別れないの? 諒もゲイだろ」
「僕は本当に沙耶のことが好きだからさ」
「そっか。まあ、いいや」
英司が短く息を吐いた。月が雲に隠れて部屋は真っ暗になる。二人は夜の温度をじっとりと体にまとわりつかせて、手足を絡めた。
「俺、来月で実家に帰ることになった。」
朝陽がやけにまぶしくて、夜明けのころにふたりとも起きた。狭いベッドが軽く軋む中で、英司が思い出したように言った。諒は何も言わない。英司のことは好きではなかった。沙耶以外の人を好きになるなんて考えられなかった。彼はただの「友だち」だ。遠くへ行っても大丈夫。
「じゃ、今日はバイトだから」
諒の思考を見透かしたかのような、しんなりとしたあきらめ顔で、英司が出かけて行った。抜けるような青空がやけに目に染みる。沙耶に会いたい。昨晩あったばかりなのに、強くそう思った。

 明け方の川は、夜の川とはまるっきり違う。水位が上がって、夏のひんやりとしたさわやかさをいっぱいに含んで、フレッシュに流れている。夜の浮ついた温かさはもうどこかに消えていて、川沿いでは犬の散歩をしている人ばかりだ。途中、はじめて犬を散歩しているであろう少年に出会った。リードを持つ右手だけじゃなくて、左手もぎゅっと握られていて、手と足はおんなじように動いている。あぁ、自分の感情と身体もああやって連動すればいいのに。諒は足元の石ころを蹴飛ばしたけれど、ほろ苦い気持ちはまだ胸に溜まって、肺を圧迫していた。

※※※

 「実は親が商店街の福引でこれ当たったらしくて、わたしと諒で行って来たらどうかって!」
沙耶がそう言って取り出したのは、温泉旅行のペアチケットだった。東北の地名が書かれている。沙耶のことは好きだ。いまこうやって、わくわくした面持ちで自分のことだけを見てくれるところ。泣きぼくろが好き! とか、声がタイプ! とか、そういうことはあんまりないけれど、沙耶のことを見ていると心がしあわせで満たされていく。銀河みたいだな、と思う。天の川を両手であふれるほどつかんだときの明るさを彼女はくれる。
「行きたい! 沙耶に合わせて有給とれるよ」
諒は迷いなく返事した。沙耶の身体を愛すること。温泉旅行がそれを意味することくらいはわかっていた。
「了解! 親にも伝えておくね!」
彼女がにっこりと笑った。諒は彼女の柔らかい髪が陽の光を浴びて茶色っぽく透けているのを、ゆっくり撫でた。大学のころからずっと変わらない手触り。染まったことのない黒い色。甘えるように頭を突き出す彼女のしぐさ。それなのに、どうして。英司とのことを考えると、終わりのない奈落をずんずんと落ちて彼女から遠くなっていく。自分の「正常」じゃない部分が憎くて、諒はぎゅっと奥歯をかみしめた。頬が固くこわばって、空気が花を通っていくのが少しだけ痛い。

 週末、早速ふたりで高速道路を飛ばしていく。チケットで出るのは旅館の料金だけだったから、レンタカーを借りた。外の景色がどんどん移ろって、そのたびに助手席の沙耶はころころと瞳の色を変える。車窓から軽く吹いてくるそよ風が気持ちよく、ふたりは途中でキスをした。ディープなやつではないけれど、それよりももっと深いキスだった。この旅の思い出を全部唇に託すような口づけが、ふたりの顔をしあわせで包んだ。

 旅館は映画に出てきそうな和風建築で、温泉街には街を縫うようにして流れる川の音が響いている。ところどころの煙突から立ち上る湯気が、雲になって空にたなびいていく。夕飯は旅館で用意されていて、海のない県なのに海鮮がメインだった。まぐろをほおばる沙耶の笑顔が、内側から喜びをにじませている。きれいに満遍なく広がったふわふわのオムレツを、ナイフで広げたときのわっととろける感覚。あれに近いような笑顔だ。そんなわけのわからない喩えをしながら、諒もお刺身を食べながら奥歯に思い出を刻む。

 お風呂は部屋にあった。沙耶が、着ていた浴衣を少しだけはだけさせて、諒のほうを潤む目で見た。
「諒。わたしね、プラトニックな関係以上のものが欲しいの」
「そう、だよね。僕たち恋人だもんね」
キスをする。昼間のルームミラーに映したものよりも、ずっと濃厚に。沙耶が舌を絡ませながら、諒の浴衣を少しずつ脱がしていく。諒の顔には、引きつった笑顔が仮面のように硬直して貼りついている。沙耶の顔だけを見る。頬は薄紅色に上気していて、目はとろんと黒い水気を帯びている。諒も彼女の服を脱がしていく。想像以上に白くやわらかい月光の肌がさらされて、沙耶が恥じらいにうつむく。
「諒、好き」
「僕も、大好き」
抱きついた二人を、熱帯夜が暗く照らした。もう、これで謝らなくていいんだ。キスをせがむ沙耶に答えながら、諒はどこか安心した顔をして耐えていた。

 湿った布団が少し冷たくなっている。沙耶は昨日の夜のことを思い出して、顔を布団で隠した。そして気づく。諒がいない。先に起きたのだろうか。部屋を探しても彼の姿はなかった。注射針を当てられたときみたいに、自分の中にあった熱が急激に吸い取られていく。

 気づいたら、彼女は部屋を飛び出していた。まだ店のやっていない商店街を浴衣のままで走る。川の音がやけにうるさい。転んで、もういちど走る。それを繰り返した。自分が裸足だと分かったのは、五回目に転んだとき。諒は人生の中で唯一好きになれた人だった。なんとなく入ったサークルで誰も友だちができず、恋もせず、生き方の輪郭がぼやけたわたしの前に現れた諒。前触れもなく、花火大会に誘ってくれた。トンネルを通る列車のヘッドライトだった。急に現れて、まぶしい光を溢れさせ、わたしを連れて行ってくれる光。明るい性格だね、と彼は言ってくれるが、それは彼の前だけだ。涙があふれてきて、喉の奥のほうが熱い。顔がぐちゃぐちゃになりそうだったけれど、気にせず走る。もう、何のために走っているかわからない。転ぶ。走る。空を突く長い煙突がものすごいスピードで視界を横切っていく。また転びそうになった。そのときだった。慣れた温かさの手が、わたしを支える。
「諒。どうして」
目の前には、同じくぼろぼろの諒が立って、沙耶を見つめている。目じりが赤くなって、鼻先もほのかに血の色が透き通っている。浴衣には泥がついていて、ふたりそろって裸足だ。
「沙耶が転びそうになってたから」
諒が泣き声で言って、沙耶がその場に崩れた。
「僕のこと、全部話すね」
旅館に戻りながら、諒は話した。恋を手放す瞬間は、宇宙から追放されたような虚無感に包まれていた。

 諒は生まれつき、恋愛対象は女性だけれど、肉体関係は男性と結ぶタイプであること。もうすでに、同じアパートの男性と浮気をしていること。沙耶のことは本当に本当に大好きであること。

 泥だらけの浴衣どうしようね。全部を話して、沙耶は言った。声が蜃気楼みたく震えていた。少し黙って、彼女は諒に抱きついた。
「わたしも、大好き」
肋骨がきしむくらいの強い抱擁。朝日は少しずつ高くなって、川面がきらきらと輝く。シャンプーのにおいがして、諒は抱き返しながら、ひたすら泣いた。いつもは撫でられているはずの沙耶が、手を伸ばして彼を撫でる。優しい髪だった。彼が浮気をしていたこと。彼の苦しみに自分が気づけなかったこと。ふたりが愛し合っていること。これからのわたしたち。そんなことはどうでもよくなるくらいの、強い光。夏の温度。川の音がする。わたしがシーツを丸めて泣いたときの川の音。彼がわたしと別れて嫌いなタバコを噛んでいるときの川の音。全部が混ざり合って、わたしも涙を流していた。裸足がどこか気持ち良い。生きている、っていう気がした。空がどこまでも青く続いて、わたしたちはずっと抱き合っていた。少し残る昨日の行為の痛みが愛おしかった。

 帰りのドライブは、車窓を開けなくても爽やかな風が吹いているようだった。秘密で塗りたくっていた心に穴があいて、夏風が吹き抜けている。沙耶との今後については何も話していない。子どもが欲しい。沙耶は昔そう言った。諒もその気持ちは変わらない。でも、興奮するかといえば、相変わらずしないままだ。プラトニック。その言葉が蘇る。苦しさがソーダのように胸の内からせりあがってくる。ルームミラー越しに、沙耶と目が合った。お互い目じりが腫れている。ふるえる笑みを浮かべて、ふたりは高速を飛ばした。

※※※

 旅行から帰ってきたら、もう隣の部屋は空き家になっていて、ポストに簡単な便箋に角ばった文字が詰まった手紙が入っていた。
「地元へ戻ります。俺は、諒さんのことが好きでした。でも、あなたが彼女の家から帰ってくるときのタバコの匂いが寂しすぎて、彼女を語るあなたの瞳の色が夜に不釣り合いに明るくて、とっくの昔に諦めました。それでもセフレを続けてしまったことは、謝ります。俺とのことは秘密にしてください。俺は彼女さんと諒の関係を応援しています。
追伸 また会う日にはもうタバコをやめていてください」
揺れるような文字の列は、力を入れて書いたんだろうな、と思わせる。もう、秘密ではないし、彼女もいなくなるかもしれない。心の中でそう呟いて、諒は指が吸うようにして離れない手紙を何とか捨てた。

 「会わない?」
沙耶からラインが来たのは三日後だった。いつも通りの文面に涙がにじむ。三年間の文字列の、最後の一行になるかもしれない。無数に詰まった漢字とひらがなとカタカナ。無性に愛おしくなって、スマホの文字を撫でた。会うのは彼女の部屋だった。行くのがひどく久しぶりな気がする。重たい十字架を背負いながら、川沿いを歩く。穏やかな夕焼けが、空にオレンジの絵具を垂らしたみたいに静かに広がって、反射光がゆっくりと揺蕩う。嵐の後の静けさもあるんだな。彼女の家に着いてインターホンを鳴らすと、息を吞む音が聞こえて「はーい」と、甘い声がした。
 「三日間、ずっと考えたの」
それでね、と沙耶がゆっくり呟くように続ける。彼女の少しだけ曲がった睫毛を、小さな四角い窓から射し込む夕日が照らした。
「やっぱり、わたしは諒のことが好き」
「僕も、沙耶のことは好きだ。こころの意味で」
諒が弱く付け足す。あんなことをしてしまった自分を、身体を愛せない自分を、沙耶は許してくれないだろう。
「ごめん」
どちらが言ったのかは分からないことばが、空気に溶けてゆく。お互いの服を握りしめて、柔らかい身体を寄せ合った。
「わたしは、別れたくない。体の関係も欲しいけど、それ以上にあなたが欲しい」
絶対に言い間違えないように、かみしめるように沙耶が囁く。いつの間にか、西日はどこかへ行って、薄暗いグラデーションが窓に作られている。こぼれかけのうれしさをゆっくり拾い集めて、諒がもう一度沙耶を強く抱きしめた。
「ごめん。幸せにするから」
遠くで花火の音がする。遊園地のパレードの音だ。
「花火」
と消え入るような声で沙耶が言った。初めてのデートを思い出す。
「綺麗だ」
はじける音がふたりの間を埋め尽くして、唇にそっと触れた。
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