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文字数 1,587文字
むかし、ははと過ごしたころ、ははの手をこのまま握っていていいことにぼくは戸惑った。くもり空の下、サルスベリの実のように縮こまった背中の人たちがドラム缶に焚べた火にあたってい、鳩は太っていた。芝生は焦げたような色をしていた。
何度かすれ違ったことがあった大きな白い犬に触れる勇気を、はははぼくにくれた。ぼくは恐る恐るかれの頭に触れ、かれの骨の硬さを知り、ぼくの代わりにははが聞いてくれたかれの名前を、ぼくは大切にしたものだった。
ムクドリたちが飛び立つ空を眺めながら、毎日は水道水が氷を融かすように過ぎていった。
むかし、ははと過ごしたころ、サンテグジュペリの星の王子さまに出てくる小さな惑星がクリスマスケーキになって、砂糖菓子のサンタクロースがイチゴとチョコレートプレートを調度品にその星で暮らしていた。ぼくはいつのまにかクリスマスツリーよりも大きくなっていた。ははのくれた包みの中からは、ははのようにやさしいオレンジ色の、ミヒャエルエンデのモモがあらわれ、それはまるでクリスマスツリーにとっての星のように、ぼくの本棚で長いあいだ特別な場所を占めていた。はははガレージでセキレイがちょんちょんと尻尾をふるような相槌で、思いどおりに出てこないぼくのことばに耳を傾けてくれた。
むかし、ははと過ごしたころ、はははぼくのぎっちょをかっこいいといってくれた。ははは電線のスズメを見上げて、なぜスズメたちが全員同じ方角を向いているのか教えてくれた。
むかしははと過ごしたころ、そう、それはまだぼくがたとえば靴下は左から履かないといけないと考えるように、入れ替わり現れるだれかの前でつねに完璧でありたいと厄介な希望を抱える人間に成長する前のこと。
ぼくの胸に波紋を立てるように、ははの指はぼくの手に唐突に触れた。ぼくはひとりのははの塗ってくれたハンドクリームの香り中毒者。
はじめてははの作ってくれた料理は、とても甘い肉じゃが。
ははは、ぼくのおばあさんを「おかあさん」と呼んで、それまでおばあさんのやっていた買い物にかわりに行くようになって、ぼくはついていった。世界は一歩外へ出るとほんとうの親子がそこらじゅうに溢れているところだった。豆腐屋さんやパン屋さんの人たちの前で、ぼくはずっとうつむいていた。
帰り道にぼくたちは、ぼくが学校で教わった唄や、ははの教えてくれたまんが世界むかしばなしの主題歌を唱歌した。紫のつぼみでいっぱいになったモクレンの大きな木の前を通るとき、ははは子供のころ花弁でおままごとをしたのだとぼくに教えてくれた。
はじめてははと会ったとき、はははまるでぼくが草花かのようにぼくを見てくれた。「また来るね。」といって、ちゃんとその約束を守った。
ははが食卓にいる夕食は、迫ったお別れに胸が苦しくなった。
ある夜、よしなりにいちゃんが来て、ぼくの世話から解かれることになったおばあさんを彼女の婚家に戻すため、車の赤いランプが角を曲がって消えたとき、ぼくの心は好きなテレビが野球で見られなくなったときよりも悲しくはならずに、それはなんとなく悪いことのように思えた。その夜、ははは当時まだ珍しかったキウイを切ってくれた。ぼくとははふたりきりの夜はまるで小舟の旅のようだった。
箱作りの、ひきだしに飾り金具のついた鏡台と、ははとが、父が帰ってきたときに使う一番奥の部屋で暮らすようになった。そこではいくつかの小瓶が百貨店色をして、大人の本が並んで、それまでよそにはあってうちにはなかったものが、大名行列のようにやってきた気がした。
むかし、ははと過ごしたころ、ははがほんとうにそこにいることをぼくは毎夜たしかめなければならなかった。
胸がいっぱいになると、ぼくはこんなふうに唱えた。ぼくのきれいなおかあさん、ぼくのきれいなおかあさん、ぼくのきれいなおかあさん……。
つづく
何度かすれ違ったことがあった大きな白い犬に触れる勇気を、はははぼくにくれた。ぼくは恐る恐るかれの頭に触れ、かれの骨の硬さを知り、ぼくの代わりにははが聞いてくれたかれの名前を、ぼくは大切にしたものだった。
ムクドリたちが飛び立つ空を眺めながら、毎日は水道水が氷を融かすように過ぎていった。
むかし、ははと過ごしたころ、サンテグジュペリの星の王子さまに出てくる小さな惑星がクリスマスケーキになって、砂糖菓子のサンタクロースがイチゴとチョコレートプレートを調度品にその星で暮らしていた。ぼくはいつのまにかクリスマスツリーよりも大きくなっていた。ははのくれた包みの中からは、ははのようにやさしいオレンジ色の、ミヒャエルエンデのモモがあらわれ、それはまるでクリスマスツリーにとっての星のように、ぼくの本棚で長いあいだ特別な場所を占めていた。はははガレージでセキレイがちょんちょんと尻尾をふるような相槌で、思いどおりに出てこないぼくのことばに耳を傾けてくれた。
むかし、ははと過ごしたころ、はははぼくのぎっちょをかっこいいといってくれた。ははは電線のスズメを見上げて、なぜスズメたちが全員同じ方角を向いているのか教えてくれた。
むかしははと過ごしたころ、そう、それはまだぼくがたとえば靴下は左から履かないといけないと考えるように、入れ替わり現れるだれかの前でつねに完璧でありたいと厄介な希望を抱える人間に成長する前のこと。
ぼくの胸に波紋を立てるように、ははの指はぼくの手に唐突に触れた。ぼくはひとりのははの塗ってくれたハンドクリームの香り中毒者。
はじめてははの作ってくれた料理は、とても甘い肉じゃが。
ははは、ぼくのおばあさんを「おかあさん」と呼んで、それまでおばあさんのやっていた買い物にかわりに行くようになって、ぼくはついていった。世界は一歩外へ出るとほんとうの親子がそこらじゅうに溢れているところだった。豆腐屋さんやパン屋さんの人たちの前で、ぼくはずっとうつむいていた。
帰り道にぼくたちは、ぼくが学校で教わった唄や、ははの教えてくれたまんが世界むかしばなしの主題歌を唱歌した。紫のつぼみでいっぱいになったモクレンの大きな木の前を通るとき、ははは子供のころ花弁でおままごとをしたのだとぼくに教えてくれた。
はじめてははと会ったとき、はははまるでぼくが草花かのようにぼくを見てくれた。「また来るね。」といって、ちゃんとその約束を守った。
ははが食卓にいる夕食は、迫ったお別れに胸が苦しくなった。
ある夜、よしなりにいちゃんが来て、ぼくの世話から解かれることになったおばあさんを彼女の婚家に戻すため、車の赤いランプが角を曲がって消えたとき、ぼくの心は好きなテレビが野球で見られなくなったときよりも悲しくはならずに、それはなんとなく悪いことのように思えた。その夜、ははは当時まだ珍しかったキウイを切ってくれた。ぼくとははふたりきりの夜はまるで小舟の旅のようだった。
箱作りの、ひきだしに飾り金具のついた鏡台と、ははとが、父が帰ってきたときに使う一番奥の部屋で暮らすようになった。そこではいくつかの小瓶が百貨店色をして、大人の本が並んで、それまでよそにはあってうちにはなかったものが、大名行列のようにやってきた気がした。
むかし、ははと過ごしたころ、ははがほんとうにそこにいることをぼくは毎夜たしかめなければならなかった。
胸がいっぱいになると、ぼくはこんなふうに唱えた。ぼくのきれいなおかあさん、ぼくのきれいなおかあさん、ぼくのきれいなおかあさん……。
つづく