第1話

文字数 2,016文字

「だから、駄目だって何度も言っているでしょ!」
 語気を強めた母の言葉に妹はしゃくりあげて泣きだした。父はまたか、という顔をしてリビングを出ていく。僕もそれに倣った。
 妹が訴えているのはうちでも猫を飼いたいのにどうしてそれができないのか、ということらしかった。妹はテレビの動物番組が大のお気に入りで、ときどき特集される猫の愛くるしい姿を見るたび「いいなぁ」と恍惚の表情を浮かべているのを僕は知っていた。気持ちはわかる。だがそれを実現させるのは残念ながら限りなく不可能に近い。父は動物嫌いで母はアレルギー持ち、ふたりとも感染病が流行るこのご時世でも出勤を余儀なくさせられる職業についている。僕の中学は通学日数が減って自宅で勉強する機会が増えたけど、来年小学校にあがる妹の世話でわりと手一杯だ。そこに妹以上に手のかかるものが増えるのは御免被りたい。第一うちのマンションはペット禁止である。家族を全員説得した上で引っ越さないと妹の願いは叶わない。
「お兄ちゃん、あそぼ」
 両親が出勤して暫く経ち、おもちゃを抱えた妹が僕の部屋にやってきた。生憎僕は中間テストが近いので勉強をしたいのだが、妹にはそんなもの関係ない。やんわりと拒否すると、彼女は明らかに機嫌を悪くした。
「あーあ、つまんない! お兄ちゃん以外に友達がいればいいのに」
 ぷい、とそっぽを向く姿に流石に少し罪悪感を感じた。
「わかった、じゃあ友達を呼ぼう」
「へ?」
 ぽかんとする妹に、僕は箪笥から水色のハンカチを取り出して、カーペットの上に広げて置いた。
「この上に、目には見えないけど猫が座ってるよ。想像してごらん」
 妹ははっとして、真面目な顔でハンカチを凝視する。
「種類はなにかな? 三毛猫かな、マンチカンかな」
「ノージャン!」
 ノージャンというのはノルウェージャンフォレストキャットのことだ。大きくて毛がふわふわの、妹が一番好きな種類の猫。
「じゃあ、ノージャンにしよう。ここに可愛いノージャンが座ってる。撫でてみようか」
 僕はハンカチから二十センチ上空に手をかざし、本当に触っているかのように左右に動かした。妹もそれを真似する。
「ふわふわだね」
「ふわふわ」
 妹はまだ感覚がつかめていないのか、怪訝な顔でおうむ返しに呟く。
「ママとパパは飼っちゃダメっていうから、これはふたりだけの秘密にしよう。名前はどうしよっか」
「メイがいい」
 即答。五月生まれの妹が一番最初に覚えた英単語だった。

「あの子、最近変なのよ。何か知らない?」
 夕飯の片付けを手伝っていると、母が僕にそう尋ねてきた。
「変って?」
「何もないところに向かって話していたり、おやつを床に置きっぱなしにしたり。それからお兄ちゃんのハンカチあるでしょ、あれを洗おうとすると泣いて返してって言うの。何か変なことを教えたんじゃないでしょうね」
 あの日以来、妹はメイと遊ぶことに夢中になった。日中はずっと一緒にいるし、最近は寝るときも一緒らしい。そりゃ心配にもなるか。僕は仕方なく、妹に黙っていてほしいという前提で母にメイのことを話した。一応ふたりだけの秘密なので。母はそれを聞くとそうなんだ、と言ってそれ以上追求してこなかった。
 その翌日から何故か母が遊びに加わった。直接そう言われたわけではないのだが、水色のハンカチが置いてあるところを摺り足で避けたり、こっそり膝に水色のハンカチを乗せてくつろいでいるのを見かけるようになった。きっと母もアレルギーがあるだけで、本当は妹と同じように猫を飼う生活に憧れていたのだろう。
 そんなある日、父がそのハンカチをうっかり踏んでしまう事件が発生した。それを見ていた妹は悲鳴を上げ、母がなんてことをするんだと叱りつけたので父は驚いて近くにいた僕に俺は一体何をしたんだ? と小声で聞いた。妹は母がこの遊びに参加していたことに気づいて大喜び。猫を飼う飼わないで喧嘩してから暫く険悪な雰囲気になっていたのもあって、ふたりとも何だか嬉しそうだった。父は僕の説明を聞いて何かを考えるように黙り込んでいたが、やがてくしゃくしゃになってしまったハンカチのしわを丁寧に伸ばして、母や妹がしているのと同じようにメイを優しく撫でた。
「メイ、よかったね」
 妹はご機嫌だった。
 それからメイは家族の一員になった。家族の団欒の中心には必ずメイが座っていて、僕たちはその柔らかい毛並みを撫でながら日々を過ごしている。端から見たら頭がおかしい家族に見えるかもしれない。それでも、メイが来てから家族の雰囲気が和やかになったのは事実なので多分悪いことではないはずだ。多分だけど。
 中間テスト当日、家を出ようとしてふと顔を上げると、誰が移動させたのかはわからないが靴箱の上の飾り棚に水色のハンカチが広げて置いてあった。
「行ってきます」
 僕はメイをそっと撫でた。
 手にはふわっとした毛の感触が残り、鼻を近付けると仄かにお日様の匂いがした。
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