僕はお前を/私は貴方を 許さない!

文字数 5,000文字

 降りしきる雨の中、僕たちは喫茶店の窓際の席に座っていた。幾度目かのため息。既に注文したコーヒーが来てから随分の時間が経っており、香りは温もりと共に消え去っていた。それをまるで僕たちの関係のようだと他人事の様に思う辺り、この話し合いは既に結末が判っているようなものである。

「どうしても、ダメですか?」

 ポツリとそう呟いた対面に座る加奈子のすがる様な上目づかいに僕は内心舌打ちを打ち、怒鳴り付けそうになる気持ちを押さえながら冷静を装って静かに答える。

「あぁ、ダメだ。これで終わりにしよう。君には君の、僕には僕の人生があるんだ。お互いこれ以上顔を会わせたところで有益な事など無いだろう。」
「そんな、嫌です!」
「大きな声を出さないで貰えるかな? ここは家ではないんだ」
「ごめんなさい……でも」
「いいかい? 僕は君の事が好きでは無くなった。君が例え僕の事を好いていたとしても、一方通行の気持ちを相手に押し付けることがどれだけおかしいことなのか、流石の君でも解ることだろう?」

 僕の言葉に俯いてしまう加奈子。付き合い始めの頃はこんな内気さも愛しいと思った。しかし、付き合いはじめて半年。僕の我慢は限界に達していた。
 加奈子は一言で言えば束縛をする女だった。例えば僕が男友達と呑みに行っていて少しメールの返信が遅れると鬼の様に電話が掛かってきた。例えばSNSでよく会話をするフォロワーが女性だとわかると、ブロックをする様に強要してきた。それを断った時なんかマンションの窓から飛ぼうとして僕を脅してきたくらいだ。最初はただ気持ちが一途過ぎるのだと我慢もしていたが、先日とある事がきっかけでついに僕の怒りが爆発した。

「なん、で……どうしてそんな酷いことを言うの……?」
「酷いことだって!? あんなことをしておいて、よくもそんな事を言えたもんだ!!」

 つい感情が昂ってしまい、僕は声を荒げてしまった。そんな僕たちの様子を伺っていた喫茶店のマスターがカップを二つトレーに乗せてやって来た。

「お客様、一先ずこれでも飲んで落ち着いてください。こちらはサービスです」

 テーブルにあった冷めきった二つのカップを片付けると、湯気と香りの立つ新しいコーヒーの入ったカップを僕と加奈子の前に置いた。僕たちは突然のマスターの来訪に戸惑っていると、マスターは口髭をにっと上げて微笑む。

「他のお客様はおりませんので、話し声はぜんぜん結構です。ですが、そんな眉を吊り上げて顔を突き合わせても良いお話は出来ないものですよ。ささ、私の入れた素人に毛の生えた程度のコーヒーですが、これでも飲んでみてください」

 静かに、それでいてかつ何故か逆らいがたい雰囲気のマスターに何も言えず、僕はコーヒーに砂糖を入れて口をつけた。それを倣うように加奈子もコーヒーにフレッシュを入れて恐る恐るといった感じで口をつける。

「「美味しい……」」

 思わず出た言葉に僕たちは顔を見合わせる。そして僕は、先程注文をしたものの一口もつけずに冷めきってしまったコーヒーを思いだし、せっかくマスターが丹精込めて入れた物を飲まなかった事に罪悪感を感じていた。

 コーヒーの香りによるものなのかそれともマスターの不思議な雰囲気のせいなのか。僕たちが落ち着いた様子を見て、マスターはまたニコリと笑みを浮かべる。

「さて、お二方にとってお節介かも知れませんが、老人というものはお節介なものでございます。よかったら、なぜこんな素敵なお二人が鼻をつき合ってお怒りなのか、この老人に話してみてくれませんか?」
「え、えぇ? で、でも……」
「いいさ、この際だ。誰かに聞いてもらえれば僕の主張が間違っていないことがわかるはずだ。むしろ聞いていただいて良いですか?」
「ええ、勿論ですとも。是非お聞かせください」
「では……」


本山文彦の主張

「僕はですね、別に加奈子から束縛されること自体にそこまでは嫌がっていないんです。確かに少しうざったいと思うこともありますが、それ自体は加奈子からの気持ちだと思っていますから」
「えっ…………?」
「ふむふむ……では、えっと……」
「本山です。本山文彦と申します」
「私は京本加奈子と言います」
「なるほど、本山さんと京本さんですね。それで、なぜ本山さんはそんなにお怒りなのでしょうか?」
「あれはそう、先月のことでした……」

 僕はマスターの運んできたコーヒーに砂糖を加え、スプーンでかき混ぜる。少しの間スプーンの先に感じていた砂糖のザリザリとした感触がなくなり、スプーンを取り出して全て溶けきったのを確認した僕は一口含み、香りと微かな酸味を味わう。それを飲み込むと、余韻の残る溜め息を吐き出し、先月起こった僕と加奈子との別れを決定的な物とした出来事を語り始める。


 あれは僕が仕事から帰り、夕食を摂るときでした。僕が仕事で遅くなってしまっていても夕食を食べるのを待っていてくれていたり、僕が昼食でなにを食べていたのか聞いてくれて、夕食は被らないよう気遣いもしてくれていました。
 そして、あの日は昼食が魚だったこともあり、夕食は僕の好物である若鳥の唐揚げを作って待ってくれていました。先に風呂に入り、僕が食卓に着くと加奈子は唐揚げを取り皿に取り分けてくれて、僕に渡してきてくれたんです。

「あの……ちょっといいですか? これ、ノロケ話ではないですよね……? 今一つ喧嘩になりそうな場面が出てきそうにないのですが……」
「あ、この後です」
「あ、そうですか、すみません話の腰を折ってしまって……」
「いえ……それで」

 僕は喜んでその唐揚げを頬張りました。食べる直前に二度上げをしてくれたその唐揚げは、衣がサクッと軽く、それでいてジューシーな肉汁が口のなかで広がる最高の出来でした。そう、唐揚げは……
 僕がその異変に気がついたのはその直後でした。口の中に広がる肉汁の中に混じってくる微かな、そう、微かな酸味。それはまるで白いキャンパスに黒の絵の具を一滴落としてしまったような感覚。その違和感は時間が経つにつれ、咀嚼をすればするほど、完璧な唐揚げの味をすべて台無しにしてしまう程の違和感へと変化していきました。そうして僕は気がついてしまったのです。

 加奈子のテーブルの前に、絞られたレモンがあることに。


「…………はぁ?」
「え?」
「え?」
「いや、だってレモンですよレモン! 唐揚げにレモンなんて、邪道どころか唐揚げに対する冒涜も良いところですよ!! 唐揚げにレモンをかけられるくらいなら、生肉で食べてお腹を壊してしまった方がましだ!」
「ま、まぁまぁ、少し落ち着いてください。ふーむ……おや? 京本さん、どうしました?」
「……さない」
「「え?」」
「唐揚げにレモンをバカにするなんて、絶対に許さない!!」
「ちょ、京本さんも落ち着いてください! テーブルに足を乗せないで!!」
「それに、私だって、文彦さんにあの時の事で言いたいことがあるのよ!!」
「な、なんだよ! 言ってみろよ」
「ええ! この際だから言わせてもらうわ!」

京本加奈子の主張

 私はマスターが持ってきたコーヒーにコーヒーフレッシュをいれてスプーンでかき混ぜる。白と黒のコントラストが溶け合い、次第に薄茶色になったところで一口啜る。コーヒーの苦味とフレッシュのまろやかさがなんとも心地が良い飲み味で、思わずホッと溜め息をつく。そして、私はあの日の事を語り始める。


 その日は文彦さんがお昼御飯に鯖の煮付け定食を食べたと言うことをメールで聞いていたので、なにか肉料理にしようと思いスーパーへ行きました。そこでちょうど若鳥のもも肉が安かったのもあり……

「ちょっと待ってください京本さん。その(くだり)は長そうなので出来れば本山さんとの食事まで跳んでいただいて良いですか?」
「……仕方ないですね。せっかく八百屋の岸谷さんや金物屋の上野さんから声をかけられて、めくるめくドラマがありましたのに……」
「おい! 初耳だぞそれ!」
「あら、もう関係ないんじゃないのですか?」
「お二人とも、話が脱線し過ぎておりますぞ。それで京本さんはお食事の時に何に対してお怒りになったのですか?」

 私は文彦さんが唐揚げをひとつだけ食べて怪訝な顔をしたのには気がついていました。でもその時は揚げ物は気分じゃなかったのかなと思い、私は他にも作っていた料理を勧めました。そこで文彦さんが手に取ったのは、冷奴でした。やっぱりスッキリとしたものが良かったのかな、と少し落ち込んでいましたが、そこで文彦さんが冷蔵庫から持ってきたものに私は愕然としました。

 こともあろうか文彦さんは冷奴にポン酢をかけたのです!

「…………ポン酢」
「そうです、ポン酢です。あり得なくないですか!? 冷奴と言えばネギと生姜をのせてお醤油でいただくのが正道でしょう!?」
「馬鹿なことをいうな! 冷奴に生姜?ネギ? そんなことをしてしまったら豆腐の香りがすべて消えてしまうじゃないか! それに醤油だと塩気が強すぎる!」
「ば……!? 馬鹿はどっちよ! 唐揚げにレモンだって、カラッと揚がった若鳥に対して酸味のアクセントを加えることによって少しだけ残る油のくどさを和らげ、尚且つ肉そのもののジューシーさを引き立てる最高の組み合わせじゃない! 私があの時どれだけ我慢したことか……なのに貴方ときたら『やっぱり僕たちは好みが違い過ぎる』ですって? ふざけるんじゃないわよ!!」
「なにを! 言わせておけば!! こんな味音痴の女を好きになったなんて人生の恥だ!」
「なんですって!? 良かったわ! 結婚する前にこんなわからず屋の味音痴だって事が分かって!!」
「味音痴はお前だ!!」
「味音痴は貴方よ!!」
「お前なんて」
「貴方なんて」
「「絶対に許さない!!」」


「うるせええええ!!!」

 突然怒号を発したマスター。そのあまりにも先程までの穏やかな様子とは真逆の剣幕に、私も文彦さんも唖然として固まってしまった。

「うるせえぞこの味音痴共ぉぉ!! さっきから聞いてりゃあ唐揚げにレモン? 冷奴にポン酢? くだらんわ馬鹿者共がぁぁぁぁぁ!!」

 額に青筋を浮かべたマスターは片足をテーブルに乗せ、恐ろしく低い声で話始めた。


喫茶『ラブモアイ』店主、佐々木菊次郎の主張

 ぐずりはじめた空模様に客足が途絶えたので、コーヒー豆の焙煎をしていたところ男女の二人組が入ってきました。席に案内する間も二人は目も合わさず、会話のひとつもない。これは今の天気と同じく、あまりいいくもゆきではないな、と思って様子を伺っていると案の定言い争いが始まりました。
 これは穏やかではないなと、店の看板を準備中に変えてからコーヒーのおかわりを入れて二人の席までもっていくと私は驚きました。

 だってこの二人は私が丹精込めていれたコーヒーを一口も飲んでいないのですから!!

 私はこめかみがピクピクと動くのを感じながらも笑顔を崩さずコーヒーを取り替えました。そこで男性の方は申し訳なさそうにしておりましたが、そんなことはいいから早くコーヒーを飲むのです。香りは刻一刻としてその場に留まってくれないのです!

 そして、お二人の話を聞いていて私はあまりの衝撃に、怒りに膝がガクガクと震えてしまいました。
 いえ、唐揚げにレモンも、冷奴にポン酢もどうでもいいのです。私がショックだったのは、本山さんはコーヒーに砂糖をどばどばと入れるし、京本さんはフレッシュを何個も入れやがったからです!!
 コーヒーは砂糖を一本、フレッシュを一個の半分が不文律なのです! それをなんですかそれは!! そんなに甘いのがお好きなら、そんなにミルクの入ったのが飲みたいのであればコンビニのカフェオレでも飲みやがれ!!

 私がカウンターから塩の入った壺を取り出すと二人を追い出して玄関に塩を撒き散らしました。二人はおろおろとしていましたが知るもんか。
 全く腹立たしい! 二度と来ないでくれたまえ! 私はコーヒーの味のわからない奴は絶対に許さないのだから!!
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