第1話

文字数 1,996文字

密林の木々は足元から頭の遥か上までみっしりと葉を付け、道と言うものがない。
修造達一行は目の前に立ちはだかる葉や枝をかき分けながら奥へと進んだ。
現地で雇った案内人もこの辺りまで来た事はあまり無いようで、周りに注意を払いながら慎重に歩みを進める。
前を歩く案内人が突然右手の平をこちらへ向けて我々の進みを制した。
振り返った口の前に左手の人差し指を立てている。
音を立てるなという事だ。
我々は暫しそのまま動かずにいた。
遠くでカサカサという草を揺らすような音がする。
何かいるのだろうか。
カサカサと言う音は次第に小さくなり、遠くへ離れていくように聞こえた。
案内人は双眼鏡を覗き、生い茂る枝の隙間からあちこちを見た。
危険はないと判断したのか、やがて我々に背を向けた状態で、何かを投げるように右手を前へ振り進み始めた。
四人のポーターを含めた我々五人がそれに続いた。
そこから先も鬱蒼と生い茂る枝を払いながら二時間ほど進むと、徐々に木々は疎らになって来た。木の間隔が一メール程空くようになり、葉も木の上の方に集中していった。
薄暗くはあるが視界が広がってくる。
そんな道を黙々と前へ進んでいる時、遠くで猿の鳴くような声が聞こえた。

修造が長年の夢だったここへ入国できたのは一か月前の事だった。
まだ人の手が付いていないこのジャングルの奥に、野生の猿たちが大自然の中で自由に暮らしている地域がある。
これは、動物写真家なら誰もが知っている事であった。
そこに生きる猿の姿を写真に納めたい。
動物写真家の誰もがそう思ったが、そこへ行くには面倒な手続きの他に膨大な金が必要だった。
その国の役人への賄賂である。
これが世界の常識だった。
修造は運よくスポンサーを見つけ、旅行社のコネを使ったルートで役人に賄賂を渡して、なんとか話を付けた。
そして日本の動物写真家として初めての撮影にやって来たのだ
直行便の無い日本から飛行機を三度乗り継ぎ、飛行場のある首都へ到着した。
そこで予め頼んでいた案内人と会い、ポーターを雇うのに十日ほどかかった。
そこからはセスナ機をチャーターしてこのジャングルまでやって来た。
現地へ着くと、先ず案内人の指示に従い、そこで今なお原始的な生活をしている部族の長たちに会いにゆき、土産物を渡し、自分が危険な人間ではない事、狩りをしに入るのではない事等を説明した。
客として認めてもらう為に、そこでは少なくとも一晩は宿泊し、出された料理も食べた。
そうしてなんとかこのジャングルに入る事を認められ、修造達六人がここに入ったのが二日前である。
そしてついに猿の声らしき一声を聞いた。

修造達がそろりそろりと進んでいくと、案内人は木の上を指差した。
修造が指差された方を見上げると木の枝に一匹の猿がいた。
その猿が最初に見た一匹目の猿だった。
修造達はさらに歩みを進めた。
徐々に、猿たちの様々な声が聞こえ始め、前進するごとにその声は大きくなっていった。
小一時間も歩いたころにはそこら中が猿たちの声で一色となった。
見上げるとそこには数えきれない数の猿がいた。
修造達はテントを二つ張り、一つにはポーター達が入り、もう一つには修造と案内人が入った。
テントの入り口からカメラだけを出し、カメラのファインダー越しに彼らを見る。
そこには猿だけの世界が広がっていた。
木の上で毛づくろいをするもの、カップルになって行動するもの、子猿もいる。
子猿を抱いた猿もいた。無心に木の実を食べるもの、声を上げながら遊んでいるような一団もあった。
修造は、シャッターを切った。
切って切って切りまくった。
これだ。これを撮りに来たんだ、俺は。
興奮を抑えられない手が震えそうになるが、そこはプロの写真家である。
感動で震える胸とは裏腹に冷静に且つ美しい構図で修造はシャッターを切っていった。
シャッターを切りながら修造の頭には既に帰国後の姿が浮かんでいた。
帰ったら写真展を開く。
「猿たちのユートピア」
日本人で初めてこの地を撮影した写真家による写真展は大盛況になる筈だ。
この写真を見た人は皆、猿たちのユートピアに目を奪われるだろう。
ユートピアは架空の世界である。
これらの写真は正にそれに相応しい。
写真から、この地に産まれ猿たちに食べられるだけの木の実のことや、この猿軍団に追われ決してこの地に住めない他の動物、猿の社会でも厳しい権力闘争が繰り広げられている事を感じ取れる者はごく少数だ。
社会経験の少ない若僧や、妄想の中にだけ生きているような夢想家、何不自由のない境遇で生きている者たちのような「生に鈍感」な人間にはこの世界がユートピアに見えるだろう。
ユートピアとは、その裏にあるディストピアによって支えられている事を知らない連中が俺の写真を買ってくれる。
俺を持ち上げて独りいい気になってくれるのだ。
それでいい。それが現実と言うものだ。
修造はこれまでにない興奮の中でシャッターを切り続けた。
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