第1話

文字数 2,038文字

 ひとつ、悲しみの話をしようと思う。一人の女性の話だ。彼女は普通の人間だった。笑う時は笑い、悲しい時は悲しみ、怒る時は怒る。ただ、ハンセン病だっただけの一人の女性だ。
 私は当時フリーランスの記者で社会の闇にまつわる記事を書くためにハンセン病の施設に取材に来ていた。そこで彼女と出会った。彼女は高齢で、でもどこか少女のように朗らかに笑いそれでいて上品な雰囲気を身にまとった人だった。私がハンセン病の記事を書くために取材にきたことを伝えると快く取材に応じてくれた。彼女の部屋でお茶とお菓子をすすめられ、世間話をしてから彼女は語り出した。
彼女は今でいうところの小学2年生の時にハンセン病と診断されこの施設に来たという。それ以来ずっとこの施設の中で生きてきたと言った。結婚もしてそれなりに幸せだったという。あの日が来るまでは。
彼女は同じ施設内に住むハンセン病の男性と結婚した。男性はパイプカット、つまり断種手術を受けていたので、子供ができることはないと高をくくっていた。なので、妊娠した時は本当に驚いたと彼女は語った。けれど、彼女がその子を抱くことはなかった。生まれたばかりのその子はすぐ彼女から取り上げられ、ガラスの容器の中に入れられた。「標本」にされたのである。たったさっきまで生きていた「人間」を。命あった存在はまるで「モノ」のように扱われ、死んだ後もお墓に入れることもなく「見世物」となって。
 彼女は一度標本になった我が子を見たことがあると言った。そこで彼女はいったん言葉を切り、しばらく下を向いた。そして、そっとハンカチで目元をぬぐった。ハンカチを握りしめていた手が小さく震えていたのを見て、「標本」となった我が子を見た時の彼女の慟哭が見えた気がした。なぜか私には標本にしがみついて変わり果てた我が子に言葉にならない声で話しかけ、震えながら泣く彼女の様子が浮かんだ。
 彼女は標本となった我が子を「私の赤ちゃん」と呼ぶという。「名前は何か?」と訊くと、困ったように笑い、「ない」という。名前はつけられない、いや、つけることができないと。守ってあげることもできなかった自分が名前をつける資格はない、と彼女は言った。せっかくこの世に生まれてきたのに殺された命。彼女は毎日謝るという。名もなく、墓もない赤ん坊に。
「ごめんね、守ってあげられなくて。ごめんね、抱いてあげられなくて。ごめんね、愛してあげられなくて」
ごめんね、ごめんね、と繰り返す彼女は今も自分を許さない。それでも、彼女は穏やかに笑う。そんなふうに笑えるまでにどれほどの痛みを越えてきたのだろう。どれほどの思いの果てに彼女は私に話してくれたのだろう。毎日赤ん坊のことを思うやさしい人。けれど、彼女は毎日赤ん坊を助けられなかったことを悔やみ、懺悔の声が絶えることはない。この手で抱きしめることもできなかった赤ん坊の為に。愛してあげられなかった命の為に。
彼女は「自分が悪い」と言う。助けてあげられなかった。抱いてあげられなかった。愛してあげられなかった。しかし、本当に彼女が悪いのだろうか?海外ではすでに治る病気だったのに、国は長くハンセン病患者を隔離し、蔑み、人権をはく奪し。人々は彼女たちを忌避するようになり。このやさしい人を泣かせる国とは一体なんなのか?
今現在国はハンセン病患者の隔離をやめてはいるが、いまだに根強くハンセン病は忌避している人はいて、数年前某温泉街の宿泊施設がハンセン病患者の宿泊を拒否した事件があったことは記憶に新しい。どれだけの人に罪の意識と悲しみをこの国は与えてきたのか。
 彼女たちのような人が咎人というのなら、この国に罪はないのか?この国が今までやってきたことこそ責められるべきではないのか?それよりなにより、彼女たちを平気で隔離させるままにしておいた私たち一人ひとりの無知と無関心にこそ問題があったのではないか?
「差別はよくない!やめろ!」と口ではなんとでも言える。「差別はやめろ!」と言ったその後でハンセン病の人と握手が、抱擁が、本当にできるのか?ためらう自分がいやしないか?長らく忌避されてきたハンセン病が、本当の意味で人々に理解される日はまだまだ遠いのかもしれない。法が変わったからといって、人の心まですぐに変わることはないのだから。けれど、人は知ることで考えを改めることができる。正しい知識を持てば、偏見もすぐにではないがなくなっていくことも可能だ。この考えは理想像にすぎるかもしれない。しかし、その為に私はこの施設に来たのだ。
 最後に彼女は私の手をとって、このことを世の中の人に知らせてほしいと言った。どんな思いで私たちが生きてきたのか、伝えてほしいと。少し変形した手を私は握り返した。施設を出た時、気のせいかもしれないが赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。こらえていた涙がこぼれそうになった。私は思わずそっと目を閉じた。彼女の記憶の中で眠る小さな命を思って。
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