輪廻
文字数 1,999文字
私の命はもうじき尽きる。この裏路地で誰にも知られず、むごたらしく。
動かなくなった身体の代わりに、頭はひどく冴えている。
四十年ほどの苦痛に満ちた日々。征服者の栄華を称えた巨大な建造物を築くため、背中を鞭で打たれて石を積み、使い物にならなくなれば捨てられ、獣のように路地裏で残飯を漁る。
ようやくこの苦行から解放される今になって、死に恐怖し、生への執着が増す。なにひとつ喜びのない人生であったはずなのに。
最後の力を振り絞り、路地裏から陽のあたる方へと手を伸ばした。なにかを掴み取るように。
「生まれ変わるなら、腹一杯食べられる家の子に生まれたい」
私は静かに目を瞑った。
願いは聞き届けられた。私は商社を営む裕福な家庭の一人息子に生まれ変わったのだ。前世の記憶を残したまま。
父は私を後継ぎとして厳しく躾けた。それは家政婦たちが気の毒に思うほどだったが、前世で教育というものを受けなかった私にはすべてが新鮮で、奴隷として使役されることに比べれば苦ではなかった。
なにより父は厳しかったが優しくもあった。努力すれば褒めてくれた。母も器量はそれほど良くはなかったが、夫を支え、私に余りある愛情を注いでくれた。幸せだった。
私は成長し、やがて家業を手伝うまでになった。今世で学んだことに加え、前世で培った底辺の思考や経験は大いに役立った。私の代で家業は発展し、縁談で高貴な家の美しい妻を娶った。
機会を与えてくれた神に感謝し、祈りを捧げた。多くの金を教会に寄付して信仰を深めた。
これで後継者となる息子さえ授かれば。前世で家族に縁がなかった私は、まだ見ぬ幸福に浸っていた。
その矢先、二四歳で肺を患った。咳をすれば手は赤く染まり、そのたびに生気は奪われていく。
妻を思い一人療養所に入り、ベッドの上で孤独に取り憑かれていた。
「今度生まれ変わるなら、もっと働きたい。家族に囲まれて穏やかな最期を迎えたい」
ベッドから見える窓は、雨に濡れていた。
願いはまたも聞き届けられた。裕福ではないが漁師の家に生まれ変わり、多くの兄弟たちと切磋琢磨し育った。
幼い頃から父と海に出ては肌で家業を学ぶ。過酷だったが苦労は日々の糧となり、漁は人間だけに許された優越感を味あわせてくれた。
私はまたも機会を与えてくれた神に祈った。兄弟たちにからかわれても、祈ることをやめなかった。
前世で売り買いを生業としていた私には、物の流れが理解できた。獲った魚をどこで誰に売るべきかを知っていた。その金で人を雇い、家族で獲る何倍もの魚を金に変えた。前世の足元にも及ばないが、他の漁師より暮らしは幾分も楽だった。
そうして七五年を過ごし、今際の際にいる。ベッドを囲む多くの息子娘、その夫や妻、最愛の孫たち。それでも満ち足りていなかった。悲しげに私を見る顔が足りていないからだ。
前世、さらに前、今世でも覇権を奪い合う征服者たちの争いに巻き込まれ翻弄された。望みもしない戦に息子を取られ、とうとう帰らない者もいた。
「次に生まれ変わるなら、征服者の眷属になりたい。神を愛し、隣人を愛する、悲しみのない世界を創りたい」
気がつくと暗闇にいた。それでもなぜか目が効いた。音のない静かな世界を泳ぐように宙を漂う。そこに浮かぶなにかを食べて私は暮らしていた。
暗闇が深みを増すと、身体の自由が奪われた。腹に無数の鋭い物が食い込んでいる。私は自由を求めてもがいたが、暗黒に飲み込まれた。
次に目に入ったのは鮮やかな緑。葉、だが大きい。葉脈の一本をなぞれるほどだ。
その葉の先に、奇怪な異物があることに気づく。黄緑色の直線が並び、その上に球体が鎮座している。手であるはずのところには歪な鎌が。蟷螂 。なぜ人の大きさをしているのか。
蟷螂の硝子のような大きい瞳は、なにかを求めてこちらを見据えていた。
私は動揺したが、なぜか足は前に進む。足の運びに違和感を覚えて自らを確かめると、私の足はか細い線になっていた。目の前の蟷螂と鏡合わせのように私の手も鎌に変わっていたのだ。
「嫌だ!」
思考が言葉にならない。
近づくたびに蟷螂の醜悪さが増していく。触れるのも嫌なのに、これから起こることがわかっているのに、本能という絶対的なものに抗えない。
その蟷螂とまぐわい、果てた刹那、私は大きな鎌に捕らえられていた。
「神よ! なぜだ!」
私の叫びは気味の悪い高音であった。
生きたまま身体を引き裂かれて捕食される、人では想像も及ばない恐怖に支配された。
これまで、奴隷の私を不憫に思った神が願いを聞き入れてくれたのだと信じていた。だから神に感謝し、その機会を無駄にしないよう懸命だった。
しかし、気づいてしまった。なにかの手違いで前世の記憶があるものの、私はただそこにあっただけなのだと。
心の底から絶望していた。目の前で私を貪る死と、生まれては死ぬを繰り返す永遠に。
動かなくなった身体の代わりに、頭はひどく冴えている。
四十年ほどの苦痛に満ちた日々。征服者の栄華を称えた巨大な建造物を築くため、背中を鞭で打たれて石を積み、使い物にならなくなれば捨てられ、獣のように路地裏で残飯を漁る。
ようやくこの苦行から解放される今になって、死に恐怖し、生への執着が増す。なにひとつ喜びのない人生であったはずなのに。
最後の力を振り絞り、路地裏から陽のあたる方へと手を伸ばした。なにかを掴み取るように。
「生まれ変わるなら、腹一杯食べられる家の子に生まれたい」
私は静かに目を瞑った。
願いは聞き届けられた。私は商社を営む裕福な家庭の一人息子に生まれ変わったのだ。前世の記憶を残したまま。
父は私を後継ぎとして厳しく躾けた。それは家政婦たちが気の毒に思うほどだったが、前世で教育というものを受けなかった私にはすべてが新鮮で、奴隷として使役されることに比べれば苦ではなかった。
なにより父は厳しかったが優しくもあった。努力すれば褒めてくれた。母も器量はそれほど良くはなかったが、夫を支え、私に余りある愛情を注いでくれた。幸せだった。
私は成長し、やがて家業を手伝うまでになった。今世で学んだことに加え、前世で培った底辺の思考や経験は大いに役立った。私の代で家業は発展し、縁談で高貴な家の美しい妻を娶った。
機会を与えてくれた神に感謝し、祈りを捧げた。多くの金を教会に寄付して信仰を深めた。
これで後継者となる息子さえ授かれば。前世で家族に縁がなかった私は、まだ見ぬ幸福に浸っていた。
その矢先、二四歳で肺を患った。咳をすれば手は赤く染まり、そのたびに生気は奪われていく。
妻を思い一人療養所に入り、ベッドの上で孤独に取り憑かれていた。
「今度生まれ変わるなら、もっと働きたい。家族に囲まれて穏やかな最期を迎えたい」
ベッドから見える窓は、雨に濡れていた。
願いはまたも聞き届けられた。裕福ではないが漁師の家に生まれ変わり、多くの兄弟たちと切磋琢磨し育った。
幼い頃から父と海に出ては肌で家業を学ぶ。過酷だったが苦労は日々の糧となり、漁は人間だけに許された優越感を味あわせてくれた。
私はまたも機会を与えてくれた神に祈った。兄弟たちにからかわれても、祈ることをやめなかった。
前世で売り買いを生業としていた私には、物の流れが理解できた。獲った魚をどこで誰に売るべきかを知っていた。その金で人を雇い、家族で獲る何倍もの魚を金に変えた。前世の足元にも及ばないが、他の漁師より暮らしは幾分も楽だった。
そうして七五年を過ごし、今際の際にいる。ベッドを囲む多くの息子娘、その夫や妻、最愛の孫たち。それでも満ち足りていなかった。悲しげに私を見る顔が足りていないからだ。
前世、さらに前、今世でも覇権を奪い合う征服者たちの争いに巻き込まれ翻弄された。望みもしない戦に息子を取られ、とうとう帰らない者もいた。
「次に生まれ変わるなら、征服者の眷属になりたい。神を愛し、隣人を愛する、悲しみのない世界を創りたい」
気がつくと暗闇にいた。それでもなぜか目が効いた。音のない静かな世界を泳ぐように宙を漂う。そこに浮かぶなにかを食べて私は暮らしていた。
暗闇が深みを増すと、身体の自由が奪われた。腹に無数の鋭い物が食い込んでいる。私は自由を求めてもがいたが、暗黒に飲み込まれた。
次に目に入ったのは鮮やかな緑。葉、だが大きい。葉脈の一本をなぞれるほどだ。
その葉の先に、奇怪な異物があることに気づく。黄緑色の直線が並び、その上に球体が鎮座している。手であるはずのところには歪な鎌が。
蟷螂の硝子のような大きい瞳は、なにかを求めてこちらを見据えていた。
私は動揺したが、なぜか足は前に進む。足の運びに違和感を覚えて自らを確かめると、私の足はか細い線になっていた。目の前の蟷螂と鏡合わせのように私の手も鎌に変わっていたのだ。
「嫌だ!」
思考が言葉にならない。
近づくたびに蟷螂の醜悪さが増していく。触れるのも嫌なのに、これから起こることがわかっているのに、本能という絶対的なものに抗えない。
その蟷螂とまぐわい、果てた刹那、私は大きな鎌に捕らえられていた。
「神よ! なぜだ!」
私の叫びは気味の悪い高音であった。
生きたまま身体を引き裂かれて捕食される、人では想像も及ばない恐怖に支配された。
これまで、奴隷の私を不憫に思った神が願いを聞き入れてくれたのだと信じていた。だから神に感謝し、その機会を無駄にしないよう懸命だった。
しかし、気づいてしまった。なにかの手違いで前世の記憶があるものの、私はただそこにあっただけなのだと。
心の底から絶望していた。目の前で私を貪る死と、生まれては死ぬを繰り返す永遠に。