第1話

文字数 2,004文字

 猫の会話にもっていくのが難しいとおもったが、とにかくまず初対面の女性とは猫の話をしなければならない。
 たとえばある女性との自然な会話で(自然な会話?)
「そういえば飼っていたうちの猫がさ、」
とおれが切り出した瞬間、女性とのあいだでリラックスしているときにだけ存在していた目に見えないある種の雰囲気、象徴ってやつは霧散してしまう。「のどが渇いている?」「寒くない?」「ここ遠くなかった?」、これらは今にもどちらかが動き出しそうな言葉だが、はたして「そういえば飼っていた猫がさ、」はどうだろう。そもそもキスがはじまる数分前、もしくは数分後であっても、おれの日常生活からはそもそも猫の存在が遠い。じゃあ、逆に猫を生活の中心に据えてみたらどうだろう。女と猫の話をするために。たとえば、リビングで猫がにゃあとかグルルルだとかうなりながら中心で転がっているところから出会いがスタートしていたならば。そうすると猫の話題におれが近づけた分だけ、逆にセックスそのものが遠ざかっていく気もする。猫を見ながら、抱き合い、キスをして、横になって裸になって絡み合ったごきゅごきゅとお腹のあたりで音を鳴らしながら、ふぅふぅ言い合う二人の全裸の周りをおれの猫はさみしそうに、退屈そうに周遊する。
 ぜったいにそんなのは、射精できなくなるよりずっといやだ。猫が近い生活をしている男、猫が生活の中心にある男はセックスが遠いはずだと断言できる。いやできるかどうかはわからないが、断言してみたい。猫の名前ランキング2021というサイトによればもっとも多い猫の名前は上からムギ、ソラ、レオらしい。
 それでもやはり、おれは初対面の女性と「どうぞ、」とか「どうも、」とか「のどが乾いている?」たちのあとに「うちの猫の写真みてよ」とカマさなければならない。
 やや強引だが直球に「AirDropできる?」からはじめるのもいいだろう。
 できるよ?なんで?と相手が不審がる姿がすぐに浮かぶ。だがここであえていったん無視をする。いや無視するわけではなくて「ねぇ見てよ」とか一言添えてもいい。
 「え、猫の写真おくった?かわいー」
 ここで女との間に「開通」しておく必要がある。ほんとうにかわいい必要も、ほんとうの猫である必要もない。かわいーと言いやすい猫の画像を送りつける。すかさず猫への愛を語ってもいいだろう。女が何か生き物を飼っていることを祈りながら。なにか一匹でも飼っていたなら(いたことがあるとわかれば)いよいよこのお願いをする。
 「何飼ってたの?AirDropで写真送ってよ」
 これが決まれば〝勝ち〟だ。
 AirDropで送ると写真の位置情報まで送られてしまうから、家の住所までがセットになってしまうのだ。こうして住所がわかったならば、休みの日には散策へゴー。〝そこ〟へ向かえばいい。商売女だろうと、アプリで出会った一夜限りの女だろうと、なんだっていい。もちろん正確な住所が把握できるほどではないし、土日の間中ずっと部屋にこもっているような女ではなかったとしても、〝そこ〟には〝そいつ〟がいるし、その町で〝そいつ〟が暮らしている。二度と会うつもりのない、偶然に会われると思っていない、もしくは偶然に会われることがないからこそのエロいことをした女が、そこに棲んでいるってわかるだけでもなんだかコーフンしてくるもんじゃないか? 今思ったけど〝会われる〟ってなんだかものすごくいい言葉だな。おれは会われることを恐れているような、想像もしていない女にこそ会っていたい。
 だからこそ、その約束行為が済んだ相手との行為が格別のものになっていく。おれはまた次の週、昼間からモンブランをドトールでほおばる。知らない町で知らない人たちに混じり、お茶をするんだ。旅人の気分は悪くない。セットのアイスコーヒーのパチパチ鳴る氷。バイナリーオプションのマルチ勧誘。この町には、いま目の前にいる会われることを恐れているような、想像もしていない女が日常生活を営んでいるくらしがある。でもそんなことはおれだって一秒しか考えない。でも大事な一秒だ。安心のためのまばたきよりも早く、永遠よりも長い一秒だ。
 これだけはずっとゆずれないのだが、おれはオーラルセックスの一部としてのクンニリングスを愛している。愛液は15分から1時間、バルトリン腺から分泌される。日によって、相手によって、状況によってちがってくる。それは誰だって知っている常識とかかもしれない。だが、今この瞬間の同じ味はここにしかないんだ。男性の精液だって食べたものに味や匂いを左右されるといっても、それはなんの役にも立たない、終わった後のものなんだ。でも愛液はちゃんと機能する。それを味わうために、おれは初対面の女と猫の話を終えて〝安心の一秒〟をたっぷりと過ごしたのち、やっとそれからゆっくりゆっくり、おまちかねのクンニリングスを。
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