凶器なし、狂気充分

文字数 3,902文字

「絶対にね、許さないわ」

 笑っていた。彼女は、瞳孔の開いた目で、土気色の肌で、震える指先で、荒い息で、それども口角を釣り上げていた。
 あまりにも不気味。彼女はすでにこの世にはいないと言われた方が、幾分か納得できるような風体だった。

「な、何をだ」
「とぼけるの……? 別に、いいけど……意味、は、ないわよ」

 彼女の声は震えていた。
 しどろもどろで挙動不審のようでありながら、それがあまりにも不気味だった。
 いかにも儚く消えてしまいそうでありながら、なんとどうしても不気味だった。
 いまにも息途絶えてしまいそうでありながら、しかしそれでいて不気味だった。

「ゆ、許さないからなんだって言うんだ! き、みが、何をできるって言うんだ!」

 私が主催する夜会に突然現れただけの小娘に、一体何ができると言うのか。間も無く政界に進出すると言う事を知らしめるために業界でも名前が通っている人物ばかりを集めた。そのために警備も気を遣った。決して、断じて、絶対に、私の身の回りに危険など入り込む余地はない。
 さらに言えば、今私の周りにはボディガードとして屈強な男が何人も控えている。私が一声かければ……いや、声など出すまでもなく、彼女が怪しい動きをすればすぐに彼らが動いてつまみ出してくれる事だろう。
 この状況で、何をしようと言うのか。何ができると言うのか。断言できる。彼女は、私に何もする事ができない。

「おい、怪しい女。ボスから離れろ」
「それ以上近くなら容赦はしない」

 彼女の異様な雰囲気を流石に看過できないと感じたボディガードが、彼女に厳しく警告をする。あとほんの1ミリメートルでも私に近づいたなら、彼女の行き場所は寒空の下だ。
 私は、完全に優位だ。私が、害されるはずがない。私を、傷付けられるものか。
 だから私は余裕を取り戻す。安心して、余裕で彼女に対応できる。



「絶対にね、許さないわ」

 この時を待ち望んだ。ようやく、私は彼に復讐する事ができる。
 己の権力の事しか考えていない彼は、きっと踏み潰したアリの事など覚えていないのだろう。きっと幾人もその汚い足でにじってきただろうに、そんな事は気にした事もないのだろう。
 しかし、辛うじて生き残ったアリの方はそうではない。死ななかったというだけで文字通り虫けらのような生をおくらなければならなくなった方は、当然その原因を忘れられるはずなどない。自分を踏み潰した相手の事を決して忘れず、憎しみを時間とともに募らせて行くのだ。
 そして思っても見ないのだろう。こうしてアリが噛み付こうと近付いてくるなどと。
 頭がクラクラする。純粋に気分が悪い。しかし、彼を殺すためならば自分の命すら惜しくないと思っている私にしてみれば、そんな感覚は大した問題とは言えなかった。

「な、何をだ」

 しどろもどろで、彼は私を指差して叫んでいる。

「とぼけるの……? 別に、いいけど……意味は、ないわよ」

 私は息も絶え絶えで、それでも笑顔は絶やさなかった。と言うよりも、自然に笑っていた。苦しくて苦しくて、痛くて痛くて、それでもずっと笑っていられた。私の恨みはそういうものだ。

「ゆ、許さないからなんだって言うんだ! き、みが、何をできるって言うんだ!」

 屈強な男に守られて、いろんな人を踏みにじってまでお金と権力を手に入れて、そんな男が私に恐れをなしている。先ほどまでは、もう何も怖いものなどないとでも言いたげだった顔をしていたというのに、今では失禁してもおかしくないと思わせる。

「おい、怪しい女。ボスから離れろ」
「それ以上近くなら容赦はしない」

 流石にまずいと思ったのか、ボディガードが私に警告を発する。こんな男でも命がけで守らなければならない真面目な警備員さんには同情するが、それでも職務を全うしようというのなら一緒に死んでもらう他ない。すでに手遅れであり、すでに私の犯行は終了しているのだから、命は諦めてもらおう。
 ボディガードの存在をようやく思い出したのか、つい今しがたまで情けない声を上げていた男が今更平常心を装って私に笑みを向けてきた。
 落ち着いて強者を演じれば命が助かるなどと思っている愉快な頭を笑いながら、私は彼とようやくまともな会話をする事ができるようになった。

「一体、君はなんなのだね?」
「そん、な事、関係ないでしょ……私は、あなたに人、生を狂わ……された人間の中の一人、だけど、あなたはそん、な事覚えてない……」
「あぁ……」

 話す事すら苦しいが、彼の話にはできるだけ乗ってやる事にした。自分の事を強いと思いたい、強いように見せたい彼に、せめてあと十何分かだけ夢を見させてやるのも悪くない。それは冥土の土産というやつか、それとも単なる嫌がらせなのだろうか。

「君、入り口で金属探知機を通ったはずだ。刃物の類はおろか、スタンガンも鈍器もそうそう持ち込めないぞ」
「そう、ね、間違いないわ……でも、私は、あなたを……刺殺す、る、つもりじゃないの……」

 本当の事だ。スタンガンや鈍器はおろか、アクセサリすらも入念な確認を通してでなくては持ち込めない。

「最近ではプラスチック製や、なんなら紙製なんかのナイフがあるようだが、そんな物も持ち込めなかったろう? 荷物検査は徹底した。うちのスタッフはボールペンすら持ち込ませないよ」
「そ、うね……私はそん、な物……持ち込んでな、い」

 これもまた事実だ。ボールペンはおろか、爪楊枝すら持ち込めないだろう。しかし私には関係のない話だ。

「偽装された毒物もこの会場にはないと断言する。国際空港にも劣らないスキャニング技術は、手荷物のどこに隠された不審物も見逃さない」
「でしょう、ね……手ぶらの、私……には関係のな、い事だけど……」

 手荷物など、初めから持ち込んでいない。何か全く意図しない理由によって止められたなら、せっかくの計画が台無しになってしまうからだ。

「服の中に隠し持ったって意味はないだろう。身体検査は入念にと言ってある。どれだけ高名な政治家先生にも行うように言いつけてあるんだからね」
「確かに、され、たわ……私の、体、なんて……触って……も面白くな、いでしょうに」

 だが、それがなんだと言うのか。携帯電話すら持っていない私には、身体検査などあってないようなものだ。どうせ、文字通り何も出てきやしない。

「うちのスタッフは優秀だから、買収なんかは絶対にされない。そう教育してあるからね」
「私に……そん、なお金は……ないわ」

 そんなお金があるのなら復讐なんて考えない。もう死んだも同然だから命をかけようと思ったのだ。

「だったら、一体どうやって私を殺すんだい? 君は私を殺すための用意など持ち合わせていないようだが、私は一体何をされるんだい? ぜひ、教えてくれよ」
「…………」

 あぁ、もう声も出せなくなった。まだ話し足りないと言うのに、それでも時はやってきてしまった。
 喉を震わすだけの力すらも残っていないっ私は、呆気なくその場に倒れこんだ。硬い床に頭を強くぶつけるが、もう痛いとすら感じない。最後に見た光景は、この世で一番憎たらしい男の、随分と仕立ての良さそうな革靴だった。



「なんだったんだ?」
「さあ、分かりかねます」
「頭のイカれた女ってだけなんじゃねえです?」

 目の前で倒れ込んだ女をスタッフに言いつけて運び出させる。まさか退場すらも自分でしないような女が紛れ込んでいるとは、今後はもっと警備を強化しなくてはならないだろう。

「手荷物検査や身体検査だけではいけないな。今後は怪しいやつが現れた時のマニュアルを一新しよう。クリーンなイメージを作ろうとして門を広く開いたのが間違いだった」

 検査を徹底すれば身の危険などなかろうと思っていたが、あんなおかしな奴がもう一度現れたらと思うと背筋に悪寒が走る。危険がどうとか以前に精神衛生上の問題だ。
 何やらどっと疲れが出てしまったため、体がどうも重く感じてしまう。近くに控えていた執事を呼び止める。

「……ちょっと休む。後の対応を頼んだ」
「お任せください」

 頼もしい限りだ。私は安心して自室に引っ込む事ができる。

「少しばかり休まれては?」

 ボディガードのうちの一人がそう言った。純粋に、私を心配しての言葉だ。

「休んでいるだろう。まさに今」
「いや、そうでなく、ここのところ働きすぎではないかと」

 見ると、もう一人のボディガードもうなづいている。彼らは優秀だが、やはり上に立つ者のなんたるかを理解しているわけではない。

「けほっ」
「お風邪ですか?」
「いや、関係ない。どちらにしても、今が一番大切な時期なんだ。休んでなどいられるはずがないだろう」
「そう……ですか」

 そう、休むという事は、立ち止まるという事だ。立ち止まってなどいられるはずがない。私がここまで来るのにどれだけ苦労したと思っているのか。そんな事ができるはずなど断じて……



 【政界期待の新星、殺人ウイルスに感染か?】
 選挙戦に向けて活動を行ってきた。〇〇 〇〇氏が、今日未明自宅で倒れているところを発見された。関係者の話によると、感染源不明のウイルスが原因だとみられている。 氏は政界進出に向けて多忙な生活を送っており、1ヶ月ほど前から不調を訴えていたが「医者にかかる時間はない」と普段から関係者に話していたようだ。
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