日夜列車

文字数 2,000文字

だからそういうわけで駆け出してきたけれど、行く先なんてまるで決めてないわけだから全く困ったものだった。夜の鉄道乗り場は、もうそこまで人が居なくて酔いつぶれた若者や疲れ切った仕事人、それに車掌なんかがたまに通り過ぎていくだけだ。オレンジの薄明かりを浴びながらさっき買ったぬるい缶コーヒーを飲み干す。確実にこれから頭を抱える事になるわけだ。ただ存外に気分はよくて、ベンチから立ち上がり俺はニヤニヤしながら切符売り場に向かった。
「これで行ける所まで」
なけなしの金のほぼ全部を窓口にぶちまけた。
釣銭受け皿にジャラジャラと落ちた金を見て、受付の中年の男はため息をついた。
「方向は?」
「どこでもいい。」
男はより深いため息をついた。
煙草臭かった。
「じゃあ南だな。この時間からはこの便しかない。」
「ありがとう」
受け取ったペラペラの朱色の切符には、ウトン発カンエ行 深夜特急券と印刷されている。こうして随分軽くなったコインケースに、切符を入れ込んだ。ポケットの残りはあと飯一杯食べれるのがギリギリな位だ。
俺が鼻唄を歌いながら発車ホームに向かう途中、酒臭い男と派手な女が笑い転げていた。薄暗いホームの線路ギリギリで、ひらひら踊る様にしているのは些か羨ましくもある。
ひらひら、ひらひら。女の針金みたいに細い腰に金が光る土木みたいな男の腕。
「もーぅ!やめてよぉ」
「いいだろお、別にい」
そうやってすれ違った女の香水はやけに鼻につき、俺はまた彼女の傷んだ毛先を思い出してイライラし出した。
どっかりと座席に身を預ける。窓側だったから冷気が少し染みだしていた。
彼女は今何してるか、なんて考えそうになって俺は固く目を瞑った。
がたがた汽車が動き始めた。
最後に言われた言葉が反芻しそうだった。



目を開けると薄い水色がベールみたいに広がっていた。もう朝だった。いつの間にか人が増えて、親子連れなんかで車内は活気づいていた。少しすると列車は止まった。どうやら次が終点らしい。外に出ると、ホームの至る所に柔らかい蔦が這っていた。ここからの景色は海と空がくっつき、その先の街は初夏の明るさで透けて見えた。上着を脱ぐと、日差しで腕がしゅわしゅわした。伸びをして、友人から無理やり借りてきた写真機を構える。
「あれ、君」
ファインダーに写り込んできたのは、Tシャツにジーンズに野球帽の無造作な女性だった。
「覚えてないかぁ、ほら昨日男と騒いでた女だよ」
白い歯に目が行った。
「あ…」
昨日ホームにいた派手な女だった。あの時みたいに香水の匂いはもうしないし甘ったるい喋り方もしていなかった。
「あの時のあたし、馬鹿みたいって思ったでしょ?」
にっこりする彼女
「いや、羨ましかったよ。」
「君は蝶みたいだったし。」
はにかみながら言った俺の台詞に、彼女は大声で笑ってストリップダンスの間違えでしょ、と言った。
「私はにやにやしながら歩いて行ったあなたが羨ましかった。」
「記念にこれあげる」
彼女は俺に帽子を目まで被せ、じゃあね!とだけ言って彼女はひらひら手を振って去って行った。俺は慌てて彼女の後ろ姿を写真に撮った。
放射状に広がった彼女の髪はキラキラして綺麗だった。

終着駅に降り立った途端に潮風で全身が靡いた。眼下におもちゃみたいな街並みが見えた。聞けば、20分ほど歩けば海につくらしい。海にも行きたかったけど何よりもまず何か口に入れたかった。見渡すとすぐそこに、目につく青い木造の売店があった。
「飲み物下さい、おすすめのやつ」
「はいよー」
澄んだ水色の目が特徴的な白髪のおじいちゃんは、気前良く、流暢に鼻歌交じえている。
「ありがとう、ございます」
ほい、と冷えた紺色のガラス瓶を渡された。一口飲むとジンジャー味がして鼻にミントが抜けていった。ゆっくり飲もうと思ったけど、耐え切れなくなって一気飲みした。それから瓶をもって絵本の家みたいな平面的で淡い色調の軒並みを歩いた。ほとんどの家の前にはボートや浮きがそのまま置かれ、扉は開けっぱなしだった。だからどこでもガチャガチャとかカラカラした生活音が聞こえる。楽しくなってきて歌を口ずさむ。地元の少年たちが自転車で坂を駆け下りていく。僕も早く海に行きたいから走り出した。
そうやって、汗が全身から滴る頃に海についた。もう日が沈むところだった。海も砂も船も人も全部オレンジ色になっている。駅で見た時よりも海は深くなって、夕焼けが滑らかに反射している。
しばらくしゃがみ込んで海を眺めていた。
美しい、なんて馬鹿げてるけど、本当に美しかったんだ。

気づいたら潮の匂いに微かに香辛料の香りが混ざってきた。
もう日が沈む。
また彼女のひらひらした踊りを思い出した。
潮風が染み込んだ腕を撫でて上を見上げる。
ぼくは、すっかり何もかもどうでも良くなっていた。
動き出そうと砂を払い立ち上がった。
さて、この街にストリップバーはあるだろうか。
あったらすごく嬉しいのに。

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