第1話

文字数 2,000文字

 部室棟のドアを開けると、コーヒーの深みのある香りが強くなった。
「また亮だけか、つまんない」
 決して嬉しい声色にならぬよう気を付ける。私の声に、亮の前髪の奥にある瞳が文庫本から私へと移った。細くて長い亮の指先は無糖の缶コーヒーにぴたりと吸い付いている。
「先輩、だったらここへ来なけりゃいいんです」
「私の勝手でしょ」
 買ってきたココアの缶を開けると、亮がふっと笑いを含む息をこぼした。
「まだブラック飲めないんですか? だから話も甘ったれた内容に……」
「うるさい、先輩命令だよ、黙る!」
 ニヤリとした亮は、黙って缶コーヒーをあおった。白く長い首筋。一瞬ぞくりとした私は急いで目をそらす。次に見たとき、亮はいつも通り、窓から外を見下ろしていた。
 この時間、一年生の亮がここにいるのは、教室移動をする四年生の桜さんを窓から見るためで、二年生の私がここにいるのは、そんな亮と会うためだった。
 同じ文芸サークルに所属する桜さんはソメイヨシノのように白い肌とさくらんぼ色の唇と頬をもつ、所作も顔も全てが美しい年齢不詳の美女だ。私が叶うはずがなく、亮が心を奪われたのも当然である。
「ちょっと出ます」
 慌てて亮が鞄を抱えて立ち上がり、飲みかけの缶コーヒーを残し部屋から消えた。
「告白、今日なんだ」
 ポロリと言葉が溢れた。私は自分の手帳に忍ばせておいた手紙をそっと取り出す。
 多数作家を輩出しているこの大学を志望した凡人の私は、死に物狂いで合格を決め、文芸サークルの門を叩いた。そこは変人と天才しかいない場所だった。必死で月例定例会に作品を出す一年間を過ごし、少しは上達したと思った今年、亮と出会った。 
 亮の書く文章は、誰よりもうまかった。初めて出席した定例会で亮は射的をするように、私の書いた小説の微妙な点をぴしりぴしりと当てた。
 そのとき私は、亮の声にあわせて動く喉と、紙をめくる長い指先を見ていた。亮が書いた精巧な美しい文章に何度も目を走らせ自分自身に絶望した。才能のなさに絶望したのではなく、才能のなさを知ってもなお書くことを諦めきれない自分に、だ。
 前回の定例会で桜さんの卒業が判明したとき、亮は私の作品をボロクソに批評したときとは別人のような、少年のような顔をしていた。
 亮の文庫本に手紙をはさみ、元あったように置いた。その手で亮の飲みかけの缶コーヒーを手に取りあおる。冷たく苦みのある液体が胸の奥へ広がる。
 初恋はカルピスやレモネードの味だとか言ったやつ、出てこい。
 にじむように広がる苦味は、今の私にふさわしい気がして、目を閉じてしばらく味わう。
 卒業まであと二年。二年で私はどこかに到達できるだろうか、あるいは桜さんのようにカラリと卒業を宣言できるだろうか。才能、文章力、独創性。全てを私はもっていない。それを十二分に理解してもなお、私は諦める自分を許せなかった。誰が私を諦めても、私だけは、私を諦められなかった。
 だから亮に自己満足でしかない手紙を書き、渡すことを選んだ。だって、私は書く人で、書くことも恋も諦めが悪いのだ。手紙の中身は今までのお礼と、べたな愛の告白だ。
「ま、サークルやめても書き続けるのはできるし」 
 当分帰って来ないだろう亮を待つのはやめて、ドアに手をかける。
「あ、俺、桜さんに借りてた本を返す用事終わったんですが、先輩は出ます?」
 ドアの向こうには亮がいた。
「え、告白は?」
「はあ告白?」
 亮はぽかんと口を開けて私を見たあと、肩を震わせ始めた。
「……先輩は小説でも現実でもそそっかしい部分がありますね」
「だ、だって、亮は桜さんの卒業にショックを受けて……」
「それは桜さんの文章を一度読んでみたかったから。ま、いいですけどね。俺には先輩がいますし」
 突然の発言に体が固まる。凍り付く私の横を通って、亮はコーヒーを手に取った。
「あれ、コーヒーがない。まさか勝手に飲みました? あ、これ」
 亮は早々に文庫本に挟んだ手紙を取り出した。
「ありがとうございます、俺宛てですね」
 にこやかに笑う亮を直視できない。完全に面白がっている亮の声と手紙を開ける音が響く。
「ふうん、まあほぼ知ってた内容ですね。あ、言っときますが、俺は興味のある文章にしか意見しないので、どんな言葉も誉め言葉ですよ」
 体全体が熱くなるのを感じながら、私は観念して椅子にもう一度腰かけた。鞄を抱え込み顔をうずめる。
「どうしますか? 俺の文章力を褒めて下さってるので、返事は手紙にします? それとも口で今言いますか?」
「……先輩命令だよ、黙って」
「黙りませんよ。もうただの先輩じゃなくて俺の彼女になりましたからね」
 あと二年、もしかしたら、想像以上のことが起こるかもしれない。私の真横に来た亮に高い体温がバレるのが怖くて、私は落ち着こう深く息を吸う。甘いココアのとろける匂いが充満し、火照った頬がさらに熱くなるのを感じた。
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