第1話

文字数 1,378文字

僕は、秋の小道を歩いていた。
ぽっかりと胸に穴が空いたような淋しさ。枯れた木の葉の匂いも、虚しく感じる。

———ずっと好きだった恋人が病気で死んでしまった。

涙がポロポロこぼれた。
こぼれたはずなのに、結局のところ何も僕の目からは出ていったものはないような、変な心地だった。
透明な塊のような何かが、つっかえている。それが道を塞いでいるせいで、僕の気持ちは何も自由にならない。

(……山へ、行こう)

唐突にそんなことを思って、出かけて行って。葉の枯れ始めた樹々の生い茂る山道を、歩いていた。……そんな時だった。

『カクテル』

まるで、まっくらい墨の海に浮いている、一輪の花を見つけたようだった。

それは小さな屋台だった。
店番は、黄色いドレスの少女。透き通ったルビーのような髪飾りで、春の若葉色の髪の毛をまとめ上げている。
まるでお人形のように可愛らしい女の子が、影法師の如く自然にそこへ佇んでいた。

「……いらっしゃいませ」

僕に気づいて、少女は柔らかな笑みを浮かべてお辞儀をした。

「百円です。カクテル一杯、百円です」
「あ……はい。えっと、」
「『海の女王』。ぽぽ梅と数珠クラゲ、ブルーの渦巻きをベースに想像したカクテル、サーブさせていただきます」

少女はどこか、儚げな雰囲気を纏っていた。
けれど同時に、有無を言わせぬ力強さも、そこには秘められていたのだ。
僕は言われるままに、財布から銀色の百円玉を取り出して、少女に渡していた。

「それでは」

少女は一礼すると、奥へ引っ込む。
ふわり、と。仄かな甘い香りが漂った。

————海の匂い。

つん、と鼻が痛くなる。懐かしさと、辛さと、悲しさと、様々な感情がないまぜになって僕の心臓をぐるぐる駆け巡る。

「お待たせしました」

すっと。美しい所作で手渡された。
少女はお辞儀をした姿勢で、静かに顔を伏せている。

ありがとうございます。その言葉をかろうじて囁くことができたかどうかも、僕はわからなかった。
震える手で、グラスを持つ。飲む前から、僕は泣いていた。

「あぁ、あ、ぁ……」

ポロポロと心の中の何かが剥がれてゆく。

血が騒ぐ。
酔いが回る。
ガクン、と僕はその場で突っ伏して、長い長い夢を見始めた。

それは淡い幻に包まれた森の中の物語だった。
春が来て、夏が巡り、秋がやってきて、冬が通り過ぎる。
そうしてまた、春が来る。
何日も、何ヶ月も。何年も、僕は時を過ごすのだった。

あの子は、海が好きだった。
あの子は、梅の花と実を溺れるほど愛していた。
あの子は、クラゲの模様のワンピースを好んで着用していた。

死んでしまった恋人の思い出が、夢幻のようにくるくる巡る。

「ありがとうございます」

カクテルを提供した少女の声が、幾重にも重なりながら響くように降ってきた。

「あなたのお陰でまた一つ、見事に発酵したお酒が出来上がりました」

黄色いドレスの少女の影が、ぼんやりとそこで揺れている。少女は僕の前でお辞儀をした。

「『懐古の影法師』。昔桜とオールドコーン、しっとり濡れた雨の影をベースにしたカクテル。……あなたが死んだ時、悲しみに暮れる誰かのために、私はこれを預かっておくことといたしましょう」

それではごきげんよう。
そう言って、少女の姿は掻き消えた。

ふと、気づく。
秋の小道に、僕はポツンと立っていて。

ただ、ずっと、海の水色に染まった柔らかな秋の空の下。しっとり優しい風に、吹かれていたのだった。
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