今日から真面目に!ダイエット

文字数 5,000文字

長男と『機関車トーマス』を見ているとトーマスの友達が、頭の中で考えをまとめていた。
その表情は……表情というより、目の作りは、まるで魚のようだった。

私は長女に話しかけた。

「美奈子。今さ、瞼が下からせりあがったの」
「うん?」
美奈子は机の上でスマホゲームをしていたが、長男と私の座るソファーの前のテレビを見た。

「目の上と下に瞼があるってことは、つまり魚と一緒なのよ。人面機関車じゃなくて、魚人機関車だったのよ」
「……」

美奈子はそのまま、目をスマホに落とした。しばらく間があって、

「お母さん」
美奈子は言った。
「調べたけど、ほとんどの魚には瞼がないんだって」
今は便利になった。疑問が浮かべば、その場で検索できる。

「あ、そうなのか。ありがとう」
「お母さん」
美奈子は呆れたように私に言った。
「暇でしょ」

「うん、暇。でも、(みなと)は好きなんだよね」
長男の湊は三歳、長女の美奈子は十三歳で、ちょうど十歳違いの姉弟(きょうだい)だ。

美奈子が湊の世話をしてくれるから、主人が単身赴任で家にいなくても、今のところ子育ては、そこまで大変ではない。

トーマスが終わったら夕食にしよう。

金曜日、大量に作ったカレーの残りがある。耐熱皿にご飯を盛り付け、平らにならしてカレーをかけて、ピザ用チーズを大量にのせて、オーブンで焼いて……

美奈子が、私が大きな耐熱皿にご飯を大量によそっているのを見て、
「お母さん、いつからメルヘンの世界の住人になったのっ?!」
と驚いていた。

メルヘンの世界の住人?
どういう意味で?
私はメルヘンの世界の住人にふさわしいように、首をかわいく傾げてみせた。

=========

私には十歳違いの弟、湊がいる。

湊はお砂遊びが大好きで、
休日には、二人で公園の砂場に水を含ませ、バケツで大きなプリンを何個も作った。

プリンはケーキにも見立てられ、その後、作ったものを踏み潰す。
年の離れた弟の遊びは、私には不思議と新鮮だった。

ある日曜日の夕方、公園から湊と家に帰ると、母がケーキとプリンを買って、私達を待っていた。
「湊が好きなの選んで」
「ケーキたべる。みなと、ケーキ」
湊はケーキを選んだ。

「どっちもあるよ。二つずつ。いつも湊をありがとね」

「えっ賞味期限、いつまで? 早いほうから食べるよ」
母は賞味期限を見た。

「どちらも今日まで。まあ、明日でも。もしあれだったら、お母さん食べてあげる……なんて、ふふ。冗談、冗談」
「お母さんの分は?」
「お母さん、さっき食べた」
「……二つ?」

私と湊がプリンとケーキを砂場で大量生産している時に、
母は一人で二つを、同時に消費していた。

湊は嬉しそうに、ほっぺにケーキを運んでいる。
小さい子供のほっぺは膨らんでいるから、ほっぺで食べているように見える。

しかし、湊と違って、母が膨らんでいるのはほっぺではなく、お腹だった。

母は、昔はそこそこおしゃれもする、かわいい母親だった。
それが、湊を妊娠する何年か前にぐっと太ったっきり、湊を出産して三年経った今もお腹が出たままだった。
ソファーにどんと座り、テレビをピッとつける。

どこかのかわいいゆるキャラに見えた。

「? 美奈子も食べなさい」
「あ……うん。お母さん、ケーキ食べたら、スマホ貸してくれる? ……ゲームしていい?」
「もちろん。そこにある」

母は今度はダンジョンに向かう勇者を手助けする、何かのかわいいキャラのように、スマホの場所を指で告げた。

湊の好きなアニメが終わり、キッチンに立った母にスマホを返そうと覗くと。
そこには、大きな耐熱皿にご飯を大量に盛り付ける、くまのプーさんのような、お腹の大きな母親がいた。

「お母さん、いつからメルヘンの世界の住人になったのっ?!」
母は意味がよく分からない、という風にかわいく首をかしげた。

最近の母は、本当に寝てばかりだ。
「美奈子、ごめん。寝かせて。昼寝はお母さんのたしなみ、なの!」
母は休日、いつも眠そうに訴えた。

「たのしみ、じゃなくて?!」
「そう、たしなみ!」

今日もおそらく、ケーキとプリンを買いに出かけて、食べた後、すぐに寝てしまったに違いない。

私は首をかしげた母に言った。
「メルヘンの世界は、かわいいってこととイコールじゃなくて」
「もっと分かりやすく」

「だから……!」
私は覚悟を決めた。
「くまのプーさんみたいにお腹が出てるってこと!」

「ええーー!」
母は仰天した。


「今日から、真面目にダイエットする。お母さん」
力いっぱいご飯を食べながら、母は言った。
「別に太っててもいいんだけれど……でも、ちゃんと動かなきゃ。体に悪いよ」

「太ってる……?」
「うん」
「ああー。そっか。ああもう! お母さん、こんな自分が許せないッ! こんな食べて、こんな太って!」
そう言いながら、ご飯を食べた。

牛乳のお代わりを湊が求めて、
母はキッチンに牛乳を注ぎに行った。帰ってくるとき、再び私達に宣言した。

「今日から、運動するから! 走るから! 健康的に、きちんと痩せる! ね? 文句、ある?」

文句はなかった。
ただ、そこには、出っ張ったお腹があった。


その四日後、母はぎっくり腰になった。
聞くと、くしゃみをした時にぎっくり腰になってしまったという。
湊が、いろんなものをリビングに散らかして、一人で上手に遊んでいた。

「お母さん。無理していきなり走るから」
夕食後のお皿を洗った後、日曜日から四日続けて毎日一時間、母は走っていた。
やり始めはウォーキングがいいと知ってはいても、昔マラソンを走っていた流れで、何となく走ってしまったらしい。

「ごめん……トイレ行くから起こしてくれる?」
母は、私の首につかまって上体を起こした。トイレへ行って、再び横になった。

「腰が動かないと何もできない」
「お母さん、かわいそうに。トイレ我慢してたの?」

「うん。湊も大変だっただろうけど」
「明日一日、私学校休もうか?」

「ありがとうね。でも美奈子は学校に行ってね。お母さん、今から鍼灸師さん探す。訪問してくれるとこ」
「私やるから。パスコード入れて」
母にスマホを渡した。

その後、近くに訪問してくれる鍼灸師がいないか、私は検索した。
それをしながら、今までなんとなく気になっていたことを、思い切って母に聞いてみた。

「お母さん。昔、サークル入ってたでしょう? 私が小さかった時。マラソンのサークル、どうしてやめてしまったの」
「ああ……うん」

母は天井を見ている。

昔、母はマラソンのサークルに入っていた。
木津川マラソンの時は、私と父も、京都に旅行がてら応援をしに行った。
丸亀(ハーフ)マラソンの時は、ついでに香川県を旅行した。マラソン大会と旅行はセットで、私はいつも楽しみだった。

それが、いつの頃からか、母はサークルに行かなくなり、走ることもなくなった。
しばらくして湊が産まれ、すっかり運動習慣はなくなった。

「はあ……サークルの会長さん、お母さんにこう言ったんだったなあ。
健康は目的じゃなくて、手段だって。ダイエットもそうだったんだな……」
「?」

走りすぎるマラソンは、かえって健康に良くないと書かれたネットの記事を読み、母はマラソンが実際に健康に悪いのかを、会長さんに訊ねたという。

「健康は目的じゃないんです。
走るためには、まず健康でなくてはならない。健康は、目的じゃなくて、手段です」

ダイエットが目的で走り始めたけれど、
そもそも、痩身になることを目的として走るのではなく、痩身でいることが走る手段だったのを思い出したと私の質問に答えずに言った。

だから太っているうちは走らず、ゆっくり、きちんと歩くべきだったと答えた。

「だから……なんでやめちゃったの。マラソン好きだったのに」
もう一度聞いた。
「……マラソンしてるから、子供ができないのかと思っちゃったのね」

「子供? 湊?」
「うーん。湊の前にね……赤ちゃんがね、何回か、だめだったの」
「だめだったって、どういうこと」
わたしは怖くなった。

「うん……どう言ったらいいのかな。赤ちゃんがお腹の中に来てくれたと思ったけれど、お腹の袋の中にいなかったのが一回目」
私は黙って続きを待った。

「赤ちゃんが来てくれたんだけど、なぜかお腹の中で死んでしまったのが二回目」
「そんなことがあるの」
私は目の裏が暗くなるのを感じた。

「そういうことが、あるの。ごめんね……こんなこと話して。でも……なぜか、今日は美奈子に知ってもらいたくて」
「ううん、私が聞いたから」

「美奈子は元気に産まれてきたけど、その後は、お腹でうまく育たなかった。マラソンが悪かったわけじゃないと思うんだけど、七年経ってもどうしても妊娠できないから、三回目に赤ちゃんが育たなかった時、お母さんマラソンをやめてしまったの」
「……知らなかった」

「二回目までは美奈子はまだ小さかったし、三回目の時も、きちんと赤ちゃんが育つと分かるまではと、言わなかったからね。お父さんとお医者さんに何年か通って……赤ちゃんが来ないと来るのが、生理。生理がきてしまうと、ああだめだったってお母さん、馬鹿みたいに食べたり飲んだりして、どんどん太ってしまってね」
「……」

「美奈子の友達に兄弟ができると、お母さんは喜んであげられなかった。神様が憎らしかった。どうして赤ちゃんが死んでしまったのか、自分をどうしても許せなかった」
「お母さん……」
私は息を詰まらせた。暗くなった目の奥から、大量に涙が溢れてきた。

「私、昔、兄弟が欲しいって言ったことがある。なんでうちには兄弟がいないのって聞いたこともある……ごめんなさい……あんなこと言って、ごめんなさい……!」

「何、言ってるの」
母は私の涙を見て、悲しそうに目を潤ませた。

「美奈子。美奈子は優しくて、本当にいい子なの。美奈子は何も悪くないんだから。
お母さんは、どうしてこんなに良い子が、お母さんのところに来てくれたのか、分からないって……いつもお父さんと話してるのよ。そんなふうに泣いたりしないで」
母はそれから、イテテと言った。

私は慌てて手元のスマホに目を戻したが、画面はもう暗くなっていた。
もう一度パスコ-ドを打ってもらって、私は鍼灸師を探した。
湊が一人で機嫌よく、歌を歌っているのが聞こえた。


あれから一ヶ月。
母は食事の量を少し減らし、間食もなくして、あご周りのすっきりした顔で
「でも、体重はあまり減らないの」
そう言った。

「でも、なんか、顔がすっきりしてきれいになったよ。お母さん」
湊と母、それから私の三人で、砂場で山を作っていた。

「お母さん」
私は手元を見ながら言った。
「お母さん、ご飯をたくさん食べた自分が許せないって言ってたけど、許してあげて、自分のこと」
「え。……ああ」
母は笑った。

そう、自分のこと、許してあげて。

保健室の先生に、私は聞いた。赤ちゃんはどうして死んでしまったのか、お母さんの何に問題があったのかを聞いた。

保健室の先生は、どんなに気をつけても赤ちゃんがお腹の中で亡くなってしまうことはあるし、誰にでも起こりうる、悲しいことだと私に説明してくれた。

そして先生はこう言ったのだ。
「だから、赤ちゃんが誕生する事は、奇跡みたいなものなんだよ」と。

そして、太ってるって母に言ったのは、確かに私なんだけど。

またマラソン大会に出たいって
そう私に話したお母さんは、
そのままで充分、私と湊のすてきなお母さんなんだから……

お母さんのせいじゃない。
だからマラソンが好きだった自分のこと、許してあげて。

でもなぜかそれを、私は口には出せなかった。
言ったとしても、悲しいことはただ悲しいから、臆して言うことができなかった。
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