第1話

文字数 2,000文字

「おまえさん、あのおかみさんに(だま)されてるんじゃないのかい。(りゅう)さん」
 裏店の上がり(がまち)に腰を下ろした、狸親爺の大家が言った。
「おまえさん、元は侍だし顔もいいが、四十過ぎても酒は呑むし金もない。あんな美人が嫁に来るいわれがない。裏に悪い情夫(おとこ)でもいるに違いない」
「まさか、そんな」
 六畳間の古畳に胡座(あぐら)をかいて、茶碗についだ涼み酒を片手に笑う龍に、大家は続ける。
「美人は浮気をするものだ。素性が知れぬ女房など尚更(なおさら)怪しい。刃傷沙汰が起きたときのために、来月からの家賃を上げさせてもらいたいという話だ」
 龍は茶碗を片手にしたまま、黙り込む。
 勤め先の古道具屋が休みで、長屋で酒を飲んでいた龍の前に、いきなり来た大家が物言いをつけだしてこの有様だ。その理由は龍の女房・お(しな)だという。
 店子(たなこ)の素性に細心を払うのは大家の習いであるが、女盛りで家事も万端

がない美人の女房を持った龍への嫉妬もあろう。
 だが、龍は女房の素性はおろか、歳も本当の名前も知らぬ。夫婦の

も、そのときは酒に酔っていたのか、龍もよく覚えていない。
 龍がお品にそのあたりを聞いても、
「ふふ。詮索はなしだよう」
 と愛らしい媚態ではぐらかされると、どうでもよくなってしまうのだ。
 夫婦になって四ヶ月、龍も惚れた弱みと四十過ぎの鷹揚(おうよう)さから、お品が語らぬことは詮索せずにきた。
 そのような有様だから、女房の浮気を疑いだしたら心当たりなぞいくらでもあり、俄然(がぜん)落ち着かなくなってくる。
「よし」
 龍は茶碗を置いて言った。
「女房の身の証を、立てましょう」
「どうやって?」
「お品が帰ってきたら、おれがあと三日で死ぬと言う。間男がいりゃあそいつに相談しに行くでしょうから、後をつける」
 穏やかだった龍の目が据わる。
「女房の浮気がわかれば、夫婦(めおと)の不始末だから家賃は上げて結構。だが何もなけりゃ、酒でもいただきましょうかね」
 そういうことになった。
 さて、湯屋から長屋に戻ったお品は亭主が寝床で掻巻(かいまき)を頭からかぶって(うな)る様子を見てびっくりした。
 そこに龍と示し合わせた近所の(やぶ)医者が呼ばれ「亭主の余命はあと三日」と告げると、
「ちょいと、出てくるよ」
 お品は下駄をつっかけ、外に飛び出して行った。戸が閉まると、龍は寝床からむくりと身を起こす。
 --まさか、本当に間男か。
 胸にあふれる妄想を押さえながら、龍は長屋を出ると、往来をゆく女房の後をつけ始めた。
 外は薄暮の下で夕蝉が鳴いている。
 お品は町外れにある小さな稲荷社に着くと、無人の境内を横切り、本殿の裏手にある枯井戸の前に立った。龍は神木の陰に潜み、固唾を呑んで様子を(うかが)う。
 そして、それは突然起きた。
 お品が、井戸の(ふた)板を外して井桁に手をかけた。--と、その身が宙に翻って井戸の中に消えたのである。
 仰天した龍が井戸に駆け寄ってその底を覗き込んだが、見えるのはただ闇ばかり。
 --ええい、ままよ。
 龍も腹を決めて、井戸の中に飛び込んだ。
 すると不思議や、その体はふわりと宙に浮いて真っ暗な井戸の底にゆっくり降ろされた。
 闇の中には横穴が通じており、奥では何十本もの蝋燭(ろうそく)が大小立ち並んで燃えている。
 その前にお品が立っていた。
「ああ、よかった。……うちの人の寿命は半分以上残ってる。まだまだ安心だ」
 長い蝋燭を見て安堵(あんど)の呟きを漏らしたお品が、隣の短い蝋燭に目を移す。
「こっちは、確かにあと三日くらいで燃え尽きるけど。……まさか誰かが、これとあの人の寿命を取り替えちまったか……?」
 そのとき龍が突然、盛大なくしゃみを漏らして、お品があっと振り向いた。
「おまえさん? どうしてここに」
「話は後だ。この蝋燭は?」
「これは、みんな氏子の寿命さ」
 お品が悄然(しょうぜん)とうつむく。
「おまえさん。悲しいけれど、お別れだね」
「何だ、いきなり?!」
「だって、あたしの正体は冥府の鬼、ダキニなんだよう……。気味が悪くて、お側に置きたくないだろう?」
「何だ、そんなことだったか」
「……あたしのこと、怖くないの?」
 首を傾げるお品の手を龍はとった。
「おれは女房のおめえが鬼より、浮気のほうがよほど怖えや。――むしろ、鬼なら冥府でも添い遂げてくれるかね?」
「あい。嬉しいよ、おまえさん!」
 人と鬼の奇妙な夫婦は蝋燭の前で微笑み合い、互いに幸せいっぱいの心持ちで身を寄せ合いながら家路についた。
 その途中、自身番の前に集まる近所の連中とはち合わせた。その中にいた飯屋の主に、龍は声をかけた。
「どうした?」
 飯屋の主はおうと振り返って言った。
「さっき大家が自身番で卒中を起こして、医者が来てるんだが……。ありゃどうも、いけねえな」
 店主を見送り息を呑む龍の横で、お品が凄艶(せいえん)に笑う。
「やっぱり、残り三日は大家の蝋燭だった。……勘定が合ったねえ」
「いや。しくじった」
 龍が憮然とする。
「大家から酒をもらい損ねちまった。折角おめえと呑むつもりだったのによ」
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