第1話

文字数 2,000文字

 リカの両親はお見合い結婚だった。世間でいう年の差婚。昭和三十年代では珍しくなかったのだそう。一回り違う父は、母のことが可愛くてしかたなかったと、晩年は酒を飲むたびに自慢話を聞かされていた。リカが成人してもお互いを慎介さん、直子さんと呼び合っていた。子供ができてもパパやママではなく名前で呼んでいたことは、幼かったリカには理解できなかった。だから初めて両親を呼んだ時、慎介さん、直子さんと言ったらしい。
その後、お父さん、お母さんと呼ぶことになるのだが、家の中の違和感は中学生くらいまで続いた。

 父は一人娘のリカが嫁ぐ前に病気で他界した。結婚式を楽しみにしていたが願いを叶えてあげることはできなかった。リカが嫁いで一人暮らしになった母は、六十歳を過ぎた頃からボケが始まった。
 電話は週に一度くらいの周期でかけていたものの、最近では繋がらないことも多くなってきた。仕方なく、週一で実家に様子見に帰ることにした。電車で30分ほどだ。
「リカ、毎日来てくれなくても心配ないわよ」
この前訪ねたのは五日前だ。
「シンイチさん、リカがきてくれましたよ」
(シンイチ?いつ改名した?)
母はそう言いながら仏壇に湯呑みをおいた。
「最近、体調はどう?」
「昨日はヨガに行ってきたわよ。明日は歯医者だけど……」
最近は会話が噛み合わない。
「そう。食事はちゃんと食べてる?」
「昨日、たけのこご飯を炊いたのよ。食べて行く?」
冷蔵庫を覗きながら母が言った。
「うん。大好物」
「あら、おかしいわね。3合も炊いて食べきれないからおにぎりにしたんだけどないわねぇ……リカ、食べた?」
そういえば、五日前に訪ねてきたとき、仏壇におにぎりと湯呑みが置いてあったことを思い出した。
「ねぇ、お母さん。コンビニでお弁当を買ってくるから一緒に食べない?何がいい?」
「お昼だものねぇ……おいなりさんがいいわ」
「うんわかった。ちょっと出てくるね」
そう言ってサンダルをひっかけて家を出た。

三十分後、ただいまと帰宅すると母が驚いた顔をして出迎えてくれた。
「あら、いらっしゃい。今日来るなんて言ってなかったじゃない。留守だったらどうするの?来る時は電話してね。で、何かあったの?」
「?……」
リカは玄関で固まってしまった。
「お母さん、一緒にお昼ご飯、食べようと思って。お弁当買ってきたよ」
「あら、そうなの。もうお昼だもんね」
テーブルに並べたお弁当を見て母は言った。
「さすが私の娘ね。ちょうど、おいなりさんが食べたいと思ってたのよ」
「何年、娘やってると思ってるの?お母さんの思ってることくらいわかるわよ」
実家の滞在時間は、毎回4時間ほどだが、いつも寸劇を演じているみたいで帰宅するとどっと疲れてしまう。
一人暮らしになってから急にボケが進んでしまった気がする。
(そろそろ一人にしておくのは限界かな……今度、老人ホームの入所の話をしよう)

 あれから一年。
老人ホームの食堂で食事をしている母の手元には父の湯呑みがある。
「シンジさん、ご飯ですよ」
運ばれてきた食事を美味しそうに口に運んでいる。時々、面会に行くが二回に一回はどちら様ですか?と言われてしまう。娘の名前は出てこないがパートナーの存在は永遠らしい。
「慎介さんは元気ですか?」と聞くと「はい、おかげさまで」とはっきり答える。
 空き家となった実家は、母が生きているうちはそのままにしておこうと思っている。
一ヶ月に一度、風を入れに訪ねている。父の仏壇もそのままだ。母がホームに入所する日、どこか旅行にでも行くように手を合わせて話しかけていた。
「シンイチさん、一緒に行きましょうね。大丈夫ですよ、すぐそこですから」
すぐそこの老人ホームはどうやら母の終の住処となりそうだ。

久しぶりに窓を開けた我が家は懐かしい匂いがした。居間には両親がつけていた記念日帳というのがある。結婚した日から毎日一つ、何かの記念日を作ろうと書き残したカレンダーだ。人生をポジティブに生きようという両親の思いが込められている。何十冊も積み上げられた重みは大切な宝物だ。三十年前の七月七日には結婚記念日の他にワイン記念日と日傘記念日と書かれている。おそらく初めてデビューの日なのだろう。当時の情景が浮かぶ。
「お父さん、お母さんといつも一緒で幸せね。本当はおちょこ一杯の晩酌がしたかったよね」
リカは仏壇におちょこを置き手を合わせた。
「二人がいつまでも幸せでありますように」
今日、七月七日は両親の結婚記念日だ。
自分が死んだら命日は忘れていい。その代わり年に一度だけ結婚記念日にお祝いをしてほしい。それが父が最後にリカに言った言葉だった。
「お父さんとの約束はちゃんと憶えていますよ。慎介さん、直子さん、結婚記念日おめでとう。末長くお幸せに」
夏の日の夕暮れの風はどこか寂しい気持ちを運んでくる。
(今日は星空が綺麗に見えそう……)
吹き込む風に、お線香の煙が優しく揺れていた。
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