第1話

文字数 886文字

「先輩っていつも珈琲を飲んでいますよね」
 在学時代よくそう言われた。食堂やアトリエでも何かを飲んでいる時は必ず珈琲だと。その習慣はこうしてほとんど人と会わなくなっても続いているらしい。私はぬるくなった珈琲をすすりながら目の前のキャンバスに目を向けた。
 油絵具というのは独特の匂いがする。少しツンと鼻の奥に来るような特有のそれがダメな人というのは案外いるらしい。匂いで挫折したという話を度々耳にする。私も最初は慣れなかったが、そのうち鼻が馬鹿になって気にならなくなった。絵具と珈琲の香りが入り交じったこの部屋は、敏感な人ならば卒倒しそうな空気になっているだろう。
 珈琲を床に置いてそのまま座り込む。イーゼルを買う金がないのでキャンバスは壁に立てかけたままだ。絵筆を安い紙パレットに放り出したまま、しばらくぼんやりと眺める。
 下手くそな絵だな、と思う。いつも思う。昔から変わらない。だから売れないのだろうな、とも。あの後輩も私の絵ではなく珈琲の事を指摘したのは私の絵に興味がなかったからだろう。絵より、絵具の匂いより、床に置かれたぬるい珈琲が存在感を放つ。インスタントでなくて良かったと思うべきなのかもしれない。珈琲の名前になっている遠い山。いつか行ってみるのも悪くはないかもしれない。そうしたらそこに立派なキャンバスを立て、冷たく澄んだ空気の中で絵筆をとるのだ。
 いくら描いても売れる事は無い。それでも描いている。三文小説ならば素晴らしい未来がまっているだろうが、この部屋にあるのは明るい未来ではなく古くなって嫌な香りを放つ油絵具と苦い珈琲の香りだけだった。申し訳程度の換気扇から冬の冷たい空気が流れ込んでくる。淀んだ空気がほんの少しかき混ぜられた。
 ため息をついて残りの珈琲をあおる。そうして重いマグカップを部屋の隅に寄せた。ひとつ大きな伸びをして、再び絵筆を取り上げる。キャンバスに向き合えば相変わらずの不出来な絵が待っていた。しかし少しの休憩をとったことで修正点が見えてきている。
 描いて、描いて、描くしかない。
 馬鹿になった鼻の奥に、異国の珈琲の香りがツンと染みた。
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