第1話

文字数 11,188文字

 十二月二十四日の午後十時、仕事を終えてようやくマンションの部屋に帰って来ると、そこには見知らぬ一人の男がいた。彼は玄関のすぐ前に立っていて、ニコニコと笑みを浮かべながら、「メリークリスマス」と私に向かって言った。

 五十代くらいの、ずんぐりむっくりとした男だった。不思議な色のズボンと、不思議な色の上着を身に付けていた。基本的には白に近い銀色なのだが、見る角度によって微妙に光り方が変わる。彼は黒縁の眼鏡をかけていて、頭には例の真っ赤なサンタの帽子を(かぶ)っていた。

 私は連日の残業で疲れ切っていて――家電量販店に勤めているため、今が稼ぎ時なのだ――しばらく何が起こっているのか理解することができなかった。寒さと空腹、そしてようやく家に帰ってきたという安心感が、脳の働きを弛緩(しかん)させていたのだ。でも少しすると、ようやく状況が呑み込めてきた。誰か知らない人間が我が物顔で私の狭い部屋を占領しているのだ。二十九歳の独身の女性のマンションの一室に。私は当然のことながらドアを閉めて、すぐに警察に連絡しようとした。なにしろ都会なのだ。いろいろな人々が住んでいる。こういうことだって、まったくないというわけでもないだろう。

 私が110と押したか押さないかというタイミングで、またドアが開き、その男が焦ったように私に言った。「いや、違うんです」と。

「何が違うんですか?」と私は言った。「あなたはただの変態でしょう?」

 彼は首を振り、言った。「いや、だから違うんです。あなたの誤解です。ほら、これを見てください」

「これって?」

「このサンタの帽子ですよ。だから私は変態ではないんです」

「ねえ」と溜息をつきながら私は言った。「そんなのついさっき寄ったコンビニの店員さんも(かぶ)っていたわよ。それを(かぶ)っていれば何でも許されると思ったわけ? そもそもどうやってここに入ったの? マンションの入口だって暗証番号が必要だし、ここもきちんと鍵をかけていたはずだし・・・」

「へっへ」とそれを聞いて彼は得意げに笑った。「だから言ったでしょう。私はただの変態ではないんです。その辺のことを説明してあげますから、とりあえずお上がりなさいな。そこだと寒いでしょう」

 それでも私はその場を動かなかった。電話はまだ手に持っていたが、警察に実際にダイアルするまでは行っていない。不思議なことに、私はこの状況に少々興味を持ち始めていたのだ。たしかにこの男が言うように、ごく普通の変態であればこうして部屋の中に入り込むことはできないだろう。彼が

変態である、という可能性もあったが、なんとなくそれは違うような気がした。その笑みを見ても、あまり悪意というものを感じることができない。それに今日はクリスマスイブなのだ。恋人もいない独身の二十九歳にとって、必ずしも心楽しい日ではない。そんな日にあまり悪いことは起こってほしくない、という願望があった。この男は何のためにここにいるのだろう?

「あなたの目的は何なの?」と私はまだ多少警戒気味に言った。

「目的?」と彼は言った。「目的とはつまり・・・。ねえ、本当を言うとね、むしろ

私に用があるんじゃないですかね?」

「私が?」と私は言った。私がこの男に用がある? それは一体どういうことなんだろう? 「どうして私があなたに・・・」

「あなたは最近何かを()くしませんでした?」

 一瞬ドキッとした。「どうしてそれを・・・」

「だから言ったでしょう」と彼は得意げな顔で言った。「私はそんじょそこらのおじさんとはわけが違うんです。あなたのことなら大体なんでも知っています。スリーサイズから、生理の周期から、何までね。でもまあそんなことは今はどうでもいいんです。大事なのはあなたが何かを失くしてしまった、ということだ。そしてそれが何であるのかをあなたは思い出すことができない。それでここ数日すごく気持ちの悪い思いをしていたはずだ。そうじゃありませんか?」

 私は溜息をついた。つかざるを得なかったのだ。なんだかここ十年くらいの疲れがどっと身体に押し寄せてきたみたいな気分だった。私はこんなところで何をしているんだろう、と思った。

「分かった」と私は諦めて言った。「あなたが特殊な変態だということは分かったから、ちょっと上がらせてもらうわね。というか自分の部屋なんだけど」

「どうぞどうぞ」と彼は嬉しそうに言った。そして邪魔にならないように何歩か身を退()いた。「そうこなくっちゃ」


 私の部屋はワンルームのマンションで、二人も人間がいるとかなり狭く感じることになる。それでもなぜか彼だけはそれほど邪魔だとは感じなかった。なんというのか、存在感というものがないのだ。しゃべり方が独特な割に、気配に圧力というものを感じない。それでなぜか私はほっと一安心してしまった。彼は私が手を洗ってうがいをしている間、部屋の隅のクッションにもたれてリラックスしていた。それは私のお気に入りのクッションで、できれば誰にも触れてほしくはなかったのだが、なぜかこの男なら許してもいいか、という気になってしまった。まったく。どうしてだろう?

 私がやって来ると、彼ははっと立ち上がった。眼鏡の奥のその目は不思議な光を(たた)えていた。今まで一度も見たことのないような光だ。どこまでも自然で、美しいと言っても過言ではなかった。私はその奥に強烈なイノセンスの気配を感じ取った。

「別にそのままでいいから」と私は言って、彼をまた座らせた。そして自分は小さな椅子を持って来て、少し距離を置いてそこに座った。部屋はとても静かだった。もちろん普段だって静かなのだが、こうして他人と一緒にいるとその静けさがより強調して感じられることになる。私は自分が今までどれだけ孤独な生活を送っていたのかを、この瞬間身を持って実感していた。

「それで」と私は言った。「あなたは私の方があなたに用があると言う。このクリスマスの夜に」

「正確にはクリスマスイブです」と彼は言った。「どうも日本人の祝日の感覚には私はなかなか馴染めませんが」

「別にどっちだっていいわよ」と私は言った。「とにかくサンタさんが来る日」

「まあサンタさんね・・・」と彼は言って、少し何かを考えていた。首をかしげると、例のサンタの帽子の先端が少しだけ揺れた。私はただそれを見ていた。

「サンタさんもいいですが、ほら、今日は私が代わりにやって来たというわけです。それで十分埋め合わせはつくでしょう」

「そもそもあなたは何者なの?」と私は言った。「その辺を説明してくれないと困るんだけど。明日もまた仕事があるし、私だってあんまり時間があるわけじゃないんだからね」

「時間ね」と彼は言った。そして目の前にある何かを手で払い除けるような仕草をした。それは不思議な仕草だった。だってそこには空気のほかなんにもなかったのだから。でも彼はまるでおまじないのように真剣な表情で手を動かしていた。そしてまた私を見た。「ええ、たしかに時間は重要です。あなたは明日も仕事に行かなくちゃならない。そして明後日も、そのあとも、ずうっと死ぬまでね」

「何が言いたいの?」と私はちょっとむっとして言った。

「いやいや、気分を害するつもりは・・・」と彼は取り(つくろ)うように言った。

 私は溜息をついた。「たしかにこれがさほど面白い生活じゃないってことは分かっている。毎日毎日仕事に行ってね。素敵な出会いもない。なんだか身を擦り減らしているって感じ。最初は結構熱意を持って頑張っていたんだけどね。最近はそういう感じでもないな。生きるために生きているって感じ。分かる? そして毎日歳を取っていく。来年には三十よ。私の人生はどうなるのかしら?」

「まあそう悲観的にならなくても」と彼は言った。「これから何が起こるのかは誰にも分かりません。神様にだって分かりません。仏様にも、総理大臣にも、官房長官にも、ええっと、ほかには・・・」

「まあいいから」と私は言った。「とにかく誰にも分からないってことでしょ?」

「ええそうです。あなたは話が早い」

「それで、あなたは何者なの? たぶん普通の人間じゃないんでしょ? 私にはそれくらいは分かる。確定申告ってしたことある?」

「確定申告?」と彼は驚いたように言った。「いや、したことありませんね」

「ほら。じゃあ普通の人間じゃない。きっとインフルエンザの予防接種もしたことないんでしょ」

「したことありませんね」と彼は言った。「注射大っきらいなんです」

「とにかく普通の生活をしている普通の人じゃないってわけだ」

「まあそうなりますね」と彼は認めた。「あくまで今日はたまたまこのおじさんの格好を拝借しているだけなんです」

「じゃあ普段はどんな格好をしているの?」

「普段は格好を持たないんです」と彼は言った。「要するに抽象概念に近いわけだ。そういう観点で言うと、まあサンタさんに近い存在かもしれませんね。あれは人々の――主に子どもたちの――願望を具現化した存在に過ぎないわけです。サンタさんは世界中どこにでもいます。しかし同時にどこにもいない。その姿を

ものはいます。もちろん。でもその本質は、一種の抽象概念のようなものです。幸せを運んでくれるおじさん。トナカイと空飛ぶ(そり)。神話みたいなものですね」

「それで、どうして今日はそんな格好を選んだの?」と私は訊いた。「もうちょっと見栄えの良い人間を選んでもよかったんじゃないの? 独身の一人暮らしの女性を訪問するには」

「いや、これでよかったんです」と彼は言った。そして服の上からでも分かる丸い腹を撫でた。「この肉体がね。だってムキムキの若い男性だったとしたら、あなたはきっともっと警戒したでしょう。この身体だからこそ、あなたはリラックスすることができているわけだ。違いますか?」

「まあそう言えなくもないわね」

「オーケー。そこまでは話が進んだ」と彼は言った。「それで私が今日ここに来た目的です。私はあなたの方こそ私に用があるんじゃないのか、と言った。そしてそれは真実だと思っています。実のところ、私は求められていないところには行けないんです。そう決められているんですよ。だからあなたは意識の表層では否定したとしても、本心では私を求めていたはずだ。私がここにやって来るのをね。違いますか?」

 私はそれについて少し考えた。でも正直よく分からなかった。「正直よく分からないわね」と私は言った。「本当をいえば、自分が何を求めているのかも分からないの。さっきあなたが言った、何かを探しているのに、それが何なのか思い出せないという感じ。身体の奥がモゾモゾと(うごめ)いているような感じ。でも適切な言葉が浮かばないの。変な感じ、としか言いようがない。それはすごく・・・すごく・・・変なの。でも誰とも共有することができない。だって誰も何も見ないんだもの。私は最近そう思うの」

「あなたはたぶん岐路(きろ)に立っているんだと思いますな」と彼は言った。「人生の岐路です。私はそう思います。だからこそこうして私が呼ばれたんです。ねえ、実を言うと私は雪の精なんです。嘘じゃないですよ。その証拠に・・・ええと・・・まあ証拠と呼べるほどのものはないんですがね。ほら、こうして冬の寒い夜にやって来たというわけなんです」

「まだ今年は一度も雪が降っていないけど」と私は言った。

「まあ暖冬のせいですね」と彼は言った。「地球温暖化が進んで、我々の居場所もなくなっているというわけなんです。まったく・・・。とにかく私は雪の精です。そしてあなたは人生の岐路に立っている。二十九歳、独身。恋人はいたが別れた。毎日の生活に飽き飽きしている。しかし、にもかかわらず前に進む勇気を持つことができない。なぜから前に進んだところでどっこいどっこいだということが本能的に分かっているからです。違いますか? 同じ平面上を進んでいるに過ぎない。たとえば別の仕事に就いたとしても、ですね。たとえば誰か適当な相手と結婚したとしても、ですね。本質的には変わらない。あなたはどんどん歳を取っていく。そしてやがて死ぬ。火葬場でガンガン燃やされて・・・」

「分かった分かった」と私は言った。「とにかくあなたは雪の精で、私は人生の岐路に立っている、っていうことでしょ。それはよく分かったから」

「よかった」と彼は言った。「分かってもらえて」

 そのとき部屋の隅で何かが光ったような気がした。彼は気付かなかったようだが、私は気付いた。目の端で、たしかにそれを捉えたのだ。小さな、金属性の光。あれは何なんだろう?

「今の見た?」と私は言った。「そこで何かが光った」

「そこで?」と彼は言って、私が指差した方向を見た。「いや、なんにも見えませんでしたね。ちょっと疲れているのでは?」

「まあ疲れているのはたしかだけど、幻覚を見るほどじゃないわね。まあ

幻覚かもしれない、という可能性はあるけれど」

「私は幻覚ではなく、おじさんの姿を取った抽象概念です」と彼は言った。「なおかつ雪の精でもある」

「雪の精って給料をもらって生活しているわけ?」と私はちょっと気になって訊いた。「誰か上の人から」

「まあ正確にいえば違いますが、似たようなシステムは存在していますね。まあ要するに下っ()ですよ」

「じゃあ確定申告した方がいいんじゃないの? 税金が戻ってくるかもよ」

「それについては考えておきます」と彼は言った。「とにかく、雪の精の役割はある特殊な光を人間に見せることにあるんです」

「特殊な光? さっきのじゃなくて?」

「さっきのは違います」と彼は言った。「というかたぶんそうだと思う、ということですが。なにしろ私は見なかったので・・・。とにかく、雪というものにはそういった役割が込められているんです。きちんとした目で見れば、そこにある生命のほんの(わず)かな輝きを目にすることができるはずなんです。でも誰もそんなことはしようとはしない。ああ、雪が降った。綺麗だな、とか。雪かきめんどくさいな、とか。こんなことならスタッドレスタイヤに替えておくんだったな、とか、その程度のことしか考えません。あるいは頭の悪いバカップルなら『ロマンチックだね』とかなんとか言うかもしれません。でも彼らはなんにも見てやいません。自分たちのフィクションの中を生きているだけです。それは張りぼての世界です。借物(かりもの)で満ちています。本当にそこにあるものには目もくれない。ねえ、なぜだか分かりますか?」

「そこには死があるから」とあてずっぽうで私は言った。「人々は死を見たくないために、真実も見ないんじゃないかしら」

「その通りです」と彼は嬉しそうに言った。「やはりあなたなら分かると思っていた。ただの便秘気味のOLじゃないというわけですね」

「便秘のことはいいでしょ」と私はむっとして言った。「仕事が忙しいせいよ。ストレスもあるし・・・」

「まあそれはいずれ解消するでしょう。私が保証します。それでですね。本題に移りますよ。実を言うと私の命はごく(わず)かなんです。つまりここでこうしてこのおじさんの姿を取っている私の命は、ということですね。抽象概念としての雪の精は死にません。それはいつまでも生き続けます。というか正確には生きてはいないわけですが」

「私にはよく分からないのだけど」

「つまりですね、三角形と一緒です」

「三角形?」

「ええ」と彼は言った。「いいですか? この世に完璧な三角形は存在しません。どこかに必ず歪みというものがあります。しかし概念としての三角形は頭の中に存在する。人々の共通のイメージの中に。それこそがイデアというものです。しかし三角形は生きていますか? よお、四角形。最近調子どう? とか言いますか?」

「たぶん言わないと思う」と私は言った。なんだか頭が痛くなってきた。三角形?

「そういうことです」と彼は一人で納得したように言った。「だから要するに雪の精もまた生きてはいないわけです。それが生命を獲得するのは、こうして現実の世界に重みを持った実体として存在している間だけです。そしてこの肉体の生命はすごく短い」

「お(なか)が出ているせいじゃなくて?」

「いや、そういうことではなくて・・・」と彼は言った。「つまりですね、我々の役割は真実を届けることなんです。そして真実の裏にはいつも死があります。さっきあなたが指摘したようにね。普通の人はそれを見ないように見ないように努めています。そしてやがて死にます。実際の死がやって来たときでさえ、ほとんどの人は真実を見ることができません。なぜならそういった視力が鍛えられていないからです。彼らは自分が何を見ているのか理解することができないんです。でもあなたは違う」

「そうかしら?」と私は言った。「私はほかの人と何が違うんだろう?」

「あなたは

ここを出たいと思っています」と彼は言った。「それをひしひしと感じ取ったからこそ、私は今日ここに来たんです」

「自分から?」

「そうです」と彼は頷きながら言った。帽子の先端がまた揺れた。「あなたはそれを知っているはずです」

 私はそれについて考えてみた。たしかに彼の言う通り、最近の私の生活は停滞気味だった。仕事は忙しいけれど、何かが欠けているという感覚をずっと心のどこかに抱いていたと思う。というかそれは考えてみれば二十歳(はたち)を過ぎたあたりからずっと感じ続けてきたことだった。その間何人かの人と付き合ったけれど、結局はどこにも行かずに別れてしまった。始めはたしかに感じていた「繋がり」の感覚も、やがては弱くなり、すっと消えてしまった。面白かった会話も、徐々に退屈なものとなっていった。何度かデートを重ねると、むしろ自分は今時間を無駄にしているのだ、という感覚の方が強くなっていった。そして特に喧嘩とかをしたわけでもないのに、関心が途切れ、気持ちが離れ離れになってしまう。私は当時付き合っていたボーイフレンドの顔を思い出そうとしたが、その輪郭はぼやけ、奇妙な陰影を付与されていた。隣で歩いている私自身の姿も同様だった。まるで何光年も遠くの景色を眺めているかのようだった。

 私はここを出たいのだろうか、ともう一度私は思った。この生活を。延々と続く、救いのないサイクルを。もちろん普通に生活していくことはできる。給料だってそれほど悪いわけではない。今は恋人はいないけれど、そのうちいい出会いはあるかもしれない。でもたしかに彼の言う通り、それは同じ平面上のことに過ぎないような気がした。私はもっと別のことを求めているのではないのか、という思いがふつふつと湧いてきていた。それは一体何なんだろう? 私は何を求めているのだろう?

「私は何を求めているのかしら?」と私は言った。「それが分かればもっといろんなことがすっきりとするんだけど・・・」

「自分が何を求めているのかを知るためには、真実を見ることが必要です」と彼は言った。「混じりけなしの真実です。それは怖いことですよ。一度見て、やっぱりおっかないからやめました。また元の生活に帰ります。コンビニ弁当と便秘の日々に帰ります、というわけにはいかないのですよ」

「たまには料理もするわよ」と私は言った。

「まあそれはそれとして」と彼は言った。「これは本当のことですよ。行くか、行かないのか。そのどちらかしかありません。そして私の命は短いときている。そろそろ心臓がドキドキとして、呼吸が浅くなってきました。まったく。あなたは自分の責任で選ばなくてはなりません。先送りにすることはできませんよ。今日、この瞬間が大事なんです。あなたが最初に言ったように、時間は貴重です。

貴重です。ねえ、どうしますか? 進みますか? それとも全部なかったことにして、元の生活に帰りますか?」

「ちょっと待って」と私は少し焦ってきて言った。「でもそれって結構大事な選択なんでしょ? つまり私の人生にとって。そういうことを今この瞬間に決めろって言われても・・・」

「重要であるからこそ、今決めないといけないのです」と彼は言った。その目の輝きは少し前よりも強くなっているような気がした。その奥には透明な泉のようなものが存在していた。こんこんと湧き出す泉。人知れず、静かに、永遠に湧き出し続ける・・・。

「私は・・・」と言ったところで、また例の光が目に入った。彼の背後、カーテンの裏のあたりだ。そこでたしかに何かが光った。金属性の、小さな光。私は今度はそれを彼に教えなかった。それが私だけの光なのだ、と知っていたからだ。それは私一人に向けられた、一種の個人的なメッセージだった。誰が送ったのかは分からない。あるいは彼の上にいる誰かかもしれない。あるいは全然違う誰かかもしれない。それでも私はそのメッセージをしっかりと受け取ったのだし、その事実は私の心をそっと後押ししてくれた。その光はこう言っていた。

、と。

 もしかしてこれは単なるこじつけに過ぎないのかもしれない。正直自分でもそう思わないこともなかったけれど、こじつけならこじつけでいいじゃないかとも思った。私は孤独で、何かの助けを必要としていた。もっと若い頃には、いずれ時間が経てば自分はもっときちんと生きられるはずだ、と信じていた。経験を積んで強くなれば、人生はもっとずっと生きやすいものとなるだろう、と。それはある程度までは真実だったが、ある程度から先は間違いだった。経験を積んで、強くなる代わりに、私は何かを失ったからだ。今ではそれが分かる。それはいわば、精神の純粋さのようなものだった。純粋に、何かを信じる。純粋に、何かを愛する。少なくとも愛そうと努める。そういった心持ちを、私はいつの間にか失ってしまっていたのだ。その結果孤独な生活がやって来た。誰にも理解されないし、誰のことをも好きになれない。表面的には仲良くやっていても、他人との間に深い断絶を感じ続けることになる。

 これは正しい状態じゃない、と私は思う。私は二十九で、本来ならまだまだ人生は――生きる

人生は――残っている。でもこのままだといろんなことが駄目になってしまう。あるいは駄目になっていることに気付かずに、生きることになる。結婚して子どもが生まれたところで、きっと私は救われないだろう。今ではそのことが分かる。私は自分で自分を前に押し出さなければならないのだ。次のステップを踏み出さなければならないのだ。そうしないと、すべてが徒労に終わってしまう。

 私はその小さな光から、ほとんど無理矢理前に進む勇気を抜き取った。いや、抽出した、という方が近いだろうか。私にはしがみつく何かが必要だったし、今はそれがこの光だったのだ。私はほとんどなんにも考えずに、こう口に出していた。「オーケー。その真実とやらを見せて」と。

 彼は頷き、また例の何かを払い除けるような仕草をした。一度目をつぶり、また目を開けた。その視線は、空中の一点に向けられていた。それは私と彼のちょうど中間にある一点だった。私もまたそこを見つめていた。透明な空気が、やがてもぞもぞと動き出すのが分かった。部屋は異様なほど静かだった。まるで世界中が息を潜めて、何かが起こるのをじっと待ち受けているみたいに。

「一度目を閉じて」と彼は言った。私は言われた通り目を閉じた。いつもの暗闇。

「閉じたよ」と私は言った。

「よろしい」と彼は言った。そして次の瞬間、何かをした。何か尋常ならざることを。おそらく彼は私の(ひたい)を切り裂いたのだと思う。縦に真っすぐ。あるいはナイフを使ったのかもしれない。あるいは爪を使ったのかもしれない。でもいずれにせよ、何か鋭いもので、私の目と目の間を深く切り裂いたのだ。それは分かった。

「何をしたの?」と私はまだ目を閉じたまま言った。

「まだ目を開けちゃ駄目ですよ」と彼は言った。その声は心持遠くなったように聞こえた。響きが部屋の中とは変わっている。ここはどこなんだろう?

 そのとき彼が私の額に唇を付けたことが分かった。すごく柔らかい唇だった。その吐息が肌に当たり、私は少しだけビクッと震えた。でもあとは、ただ彼のされるがままになっていた。

 彼は額の傷跡から何かを吸い取っていた。おそらくは私の本質のようなものを、だ。本質なんてあるのかどうかも分からなかったけれど、なんとなくそういう気がしたのだ。

、と。でもそれはさほど嫌な感じのすることではなかった。むしろ気持ちよかったくらいだ。私は私であると思っていたすべてを彼に差し出していた。そう、自分から差し出したのだ。それが必要であると本能的に悟ったからだ。幼少期の記憶。恋人と歩いていたときの記憶。葛藤。悩み。生理不順。様々な思考。希望。および失望。いろいろなものが彼の口の中に吸い込まれていった。どろりとする液体が脳から絞り出されていくのが分かった。身体が軽くなるのが感じられた。私は真っ白な空白に近づいていた。本物の空白に。

 しばらくそうしていたあとで、彼はようやく唇を離した。私は茫然としてその場に残されていた。まだ唇を離さないで、と私は思った。私は弱いのだから。誰かの支えを心から必要としているのだから。結局強がっていたにせよ、私はただの子どものようなものだったのだ。今ではそれが分かる。自分に自信も持てず、かといって前に踏み出すほどの勇気も持てない。いつも周囲の不満を言っている。まるで自分だけは違うとでもいうように。

「ねえ、私は今何になったんだろう?」と私は言う。というか

する。でも言葉は出ない。言葉が空気を震わせたという感触がない。一体どうしたんだろう、と私は思う。私は本当の空っぽになってしまったんだろうか? もはや言葉さえもそこには残っていないのだろうか?

「何かを言う必要はないのです」とそこで彼が言った。その声はさらに遠くなっていた。まるで糸電話で話をしているような気分だった。

「あなたは言葉を回復しなければなりません」と彼は続けた。「深い闇の中から、真の価値ある言葉を取り戻さなければならないのです。ごまかしは利きません。なぜならあなた自身がそれを求めているからです。でもその代わり、もし成功したあかつきには、それはあなたの

言葉となるでしょう。いいですか?」

 私は頷いた。

「あなたは無理に自分を固めてきてしまったんだ。それは自分自身を守るためだった。この荒々しい世界からね。そのせいで便秘にもなった。でもね、どこかの時点で、身体の力を抜かなくちゃなりません。そうしないといろんなものが歪んできてしまうんです。そう、リラックスして。あなたの中にあった余計なものは全部私が吸い出しました。大丈夫。心配しなくていい。それらは全部不必要なものだったんです。あなたがしがみついていたものたちです。あなたはここで一度リセットして、本当のあなた自身に戻らなければならない。それが真実を見るということの意味なんです」

 私はそこで目を開けた。なぜかそうしてもいいような気がしたのだ。「あなたは誰なの?」と私は訊こうとする。「どうしてそんなことを知っているの?」と。

 でも目を開けた先にあったのは、真っ白な空白だった。世界が一度解体されたことを私は知った。彼の姿はもうなかった。白い雪が鼻の頭に落ちた。少なくともそういう感覚があった。(はかな)い命。さっきまでは生きていた。でももう溶けて、水になっている。

「冷たい」と私は言った。その声は実際に空気を震わせた。私は目を閉じ、そして再び開けた。そこにはまったく新しい世界が待っていた。

「ようこそ」とどこかで誰かが言った。


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