明るい便り

文字数 3,147文字

 史帆は今年の四月から学校に来ていない。このままでは夏休みの課題を課すこともできないまま一学期が終わってしまう。担任のフカヤンは相当頭を悩ませたのだろう、史帆の家庭訪問について来てほしいと頼んできた。
「えーなんで私がついて行かなきゃいけないの」と私は駄々をこねた。
「お前中学からの友達だろ。友達として説得してほしいんだよ」
「でも最近は仲良くないし」
「そこをなんとか、お願い!」
 フカヤンは机に両手をついて頭を下げた。彼はまだ二十五歳で、私とは七つしか年が離れていない。若者の流行も分かっているしタメ口をきいても怒らないので、みんな彼のことを友達だと思って慕っている。とはいえ大の大人に頭を下げられると断りづらく、渋々同伴を承諾したのだった。もちろんスターバックスの新作を奢ってもらうことを交換条件にした。
 学校が終わってから、フカヤンと二人で電車に乗った。乗客は同じ高校の生徒ばかりだ。どこから目をつけたのか、同じクラスの女子二人組がにやにやしながら隣の車両から移ってきた。あれ美波、フカヤンと付き合ってんの? 馬鹿、そんなわけないでしょ。美波も隅に置けないなぁ。違うって言ってんでしょ、史帆のとこに行くの。ああ、不登校の子ね、行ってどうするの? 学校に来いって言うのよ。ふうん、本当かなぁ、とか言ってフカヤンとデートなんじゃないの? だから違うっての!
 しょうもない押し問答をしている間に史帆の最寄り駅に着いた。フカヤンはずっと困った様子でにこにこしていた。駅から史帆の家まで、線路に沿って歩いていく。大きく傾いた太陽が線路の電線を輝かせていた。
「なんか、悪かったな」とフカヤンが口を開いた。さっきのからかいのことを言っているのだろう。
「別に良いよ、適当に言わせておけば」と私は軽く返した。
「そういうところ、美波は大人びてるよな」
「そうかな」
 史帆の家はブロック塀に囲まれた一戸建てだった。ラティス調の門扉の向こうに芝生の生えた庭が見える。史帆の家に来るのは初めてだった。私たちは中学二年生のときに同じクラスだった。そのときにいくらか仲良くなったけれど、中学三年で別のクラスになってからはほとんど話さなくなった。まさか高校三年生で再び同じクラスになるとは。
 フカヤンは汗を拭いてワイシャツの皺を伸ばしてからインターホンを押した。遠くの空でカラスが二回啼いた。ほどなくして史帆のお母さんが出てきた。栗色の髪をうなじのあたりでまとめた、感じの良いお母さんだ。担任の深谷です、とフカヤンが挨拶する。私たちは丁寧に迎えられ、リビングのソファに通された。ローテーブルに麦茶を出してくれる。担任の他に知らない生徒がいることは、彼女には気にならないようだった。
「わざわざご足労いただいて、ありがとうございます。今、史帆を呼んできますので」
 お母さんはそう言ってリビングを出て行った。階段を上る足音に続いて、ドアをノックする音が聞こえる。母子のやりとりの気配が聞こえるが何を言っているのかは分からない。私とフカヤンは麦茶を飲みながら黙って待っていた。正面の壁掛け時計は十八時を指している。それから五分経って、お母さんが階段から降りてきた。
「すみません、今史帆が着替えていますので、もう少しお待ちいただけますか」
 お母さんは心の底から申し訳ない様子でそう言った。フカヤンに倣って軽くお辞儀をする。テレビはご自由に見ていてくださいね、と言って、お母さんはまたリビングを出て行った。テレビでは夕方のニュースを放送していた。面白いニュースはほとんどなかった。人気だったモデルタレントが自殺をした。大手企業の不祥事が告発された。政府は増税を検討している。唯一平和なニュースは、ドラマで夫婦役だった女優と俳優が結婚したというニュースだった。笑顔で並ぶ二人の写真が大きく映される。
「結婚ってすごいなぁ」とフカヤンが呟いた。
「すごいねぇ」と私は言った。
 二十分経ってもお母さんは戻ってこなった。それでも二階から話し声が聞こえるから、説得は続いているのだろう。私は欠伸を噛み殺しながら待った。フカヤンは落ち着かない様子で、リビングを見回したり貧乏ゆすりをしたりしている。ニュース番組がクイズ番組に切り替わったとき、ようやくお母さんが降りてきた。私とフカヤンは慌てて背筋を伸ばした。
「すみません、ちょっと今日は人に会える日ではないようで」
 お母さんは眉にグランドキャニオンくらいの皺を寄せながらそう言った。人に会える日と会えない日があるらしい、クリニックの定休日みたいだ。
「ああ、そうですか」
 フカヤンは努めて明るくそう言った。首筋を触る仕草で、本気で困っていることが分かった。
「ええ、すみません。わざわざご足労いただいたのに」
「いえ、こちらこそお邪魔してしまいすみません」
「いえ、私からも学校に行くようにきつく言っておきますので」
「お願いいたします。また後日ご連絡しますので」
「ええ、ありがとうございます」
「それでは、本日は失礼いたします」
 私たちはペコペコ頭を下げながら史帆の家を後にした。ただ座っていただけなのに、私もフカヤンもどっと疲れていた。太陽はほとんど沈みかけている。
「とりあえず、スタバ行くか」
 私は頷いた。
 駅前のスターバックスは小ぢんまりとしていた。一つだけ残っていた窓際のテーブルを確保する。新作はスイカのフラペチーノだった。フカヤンはアイスコーヒーを選んでいた。少しだけ口をつけてから、じっとストローを見つめている。会ってもらえなかったことがかなり応えたのだろう。
「まあ、今日はしょうがないよ」と私は言った。
「ん? ああ、ありがとな、ついて来てくれて」フカヤンはぎこちなく笑ってそう言った。
「いいよいいよ」
 沈黙。
「ほら、必要だったらまたついて行くよ」
「ありがとうな。でも史帆のやつ、どうしたら学校来てくれるかなぁ」
「うーん、難しいよね」
 沈黙。
「このスイカ、めっちゃおいしい」
「それは良かった」
 沈黙が重たいガスになって私たちの間を満たしていた。フカヤンが何か失態を犯していればフォローのしようもあるけれど、会ってもらえないのではどうしようもない。今日のことでフカヤンは何も悪くなかったのだ。しかし思い返せば、今年はフカヤンにとって初めてクラス担任を持つ年だ。初めての担任で、自分の責任を大きく考えてしまうこともあるのだろう。こういうとき、なんと声をかければ良いのか、私にはまだ分からなかった。気まずい沈黙のままフラペチーノを飲み切ってしまった。
 そのとき、フカヤンの背中側のガラス越しに見慣れた制服が見えた。電車で私のことを茶化してきた二人組のクラスメイトだ。二人は私たちの方にスマートフォンのカメラを向けると、醜悪な笑みを浮かべながら笑い合った。
「あいつら!」
 私はテーブルを叩いて立ち上がった。フカヤンが驚いてコーヒーをこぼすと同時に、二人組は慌てて走り去っていった。店の入り口に回って外の通りに出たが、二人組はもういなくなっていた。わざわざ私たちの後をつけていたのだろうか、なんて暇なやつらだろう。地団太を踏んで店内に戻った。フカヤンがこぼしたコーヒーを拭いていた。
 翌日、猛暑、朝のホームルーム。フカヤンが連絡事項を読み上げる。今日も暑いので水分補給を忘れないように。バンッ! と音を立てて教室前方の引き戸が開いた。そこには史帆が制服を着て立っていた。走ってきたのか息を切らしている。クラス全員の視線が史帆に集まる。三か月ぶりに登校した彼女の第一声は次の言葉だった。
「美波! フカヤンと付き合ってるの!?」
 その日から史帆は二週間続けて学校に来ている。悩みの種がなくなりフカヤンは嬉しそうだ。
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