第1話

文字数 6,279文字

 いつものように仕事を終え、コンビニで食事を買い、アパートに戻る。変わり映えの無い、いつもの毎日。
 頭痛と胃痛が慢性化しているが、ストレス性のものだと分かっている。病院に行ったところで、なるべくストレスの無い生活をしなさいと言われ、精神安定剤と入眠剤を処方されるだけだ。
 今の日本社会においてストレスを無くせということは、仕事を辞めろと同義語である、特にうちの会社の実態を見てから言って欲しい。
 役者になる夢を描いて上京したものの、夢破れ、何とかブラック企業でも正社員になれたのだ。辞めたら収入が無くなるだけだ。
 三九歳、彼女も子供もいない一人暮らし、安い給料のせいで生活は決して楽ではない。
 体はストレスに加え、酒と煙草で肌も内蔵も荒れ、さらに運動不足という、生活習慣病の見本市だ。
 今日も晩酌を終えた後シャワーを浴び、ベッドに横たわる。時計の針は夜中12時を過ぎており、明日の過酷な仕事のために睡眠の準備に入る。
 枕元のPCからヒーリング音楽をかけ、入眠剤を飲み、アイマスクをする。ほとんど儀式と化している寝る前の作業だ。
 ヒーリング音楽と暗闇に身をゆだね、体中の力を抜く。するとだんだんと意識が深層に落ちていき、まるで体が無くなったかのようにフワっとなるのだ。この一瞬が一日の喧騒の中で一番安らぎをくれる。そしてゆっくりと優しい浮揚感が俺を包んでいった。
 
 「ねえ、大丈夫?大分頭打ったみたいだけど」
 誰かが俺の肩を揺らし頬を軽く叩く。目を開けると、どこかで見たことがある女性が心配そうに俺を覗き込んでいた。
 「よかった。気が付いたのね。急に倒れて、頭打ったみたいだから心配したよ」
 彼女はえらく厚化粧で、服は中世の貴族みたいな格好だ。
 「いったいここは…」
 辺りを見回すと、そこは舞台の上で、天井にはスポットライトが眩しく光り、広い観客席が眼下に見えた。
 「頭打ったから無理しないで」
 彼女はそう言うと、担架の手配をしてくれた。
 彼女の横では、台本を丸めて持っていた男が大声で指示している。
 「リンちゃん、動いたらダメだよ。すぐ担架来るから」
 俺の傍には彼女が心配そうな顔でずっとついている。因みに、俺の名前には「リン」と呼ばれるような文字は使っていないので、最初は誰の事を言っているのか分からなかった。
 俺は彼女に付き添われて担架に乗せられ、舞台裏を進み、畳敷きの楽屋に運ばれた。
 女性は寝かされている俺の後頭部を優しく触りながら言った。
 「コブになってるよ。セリフ言いながらターンしていきなり倒れるんだもん。びっくりしちゃった」
 セリフ?確かに俺は舞台にいた。よく見れば俺の衣装も中世風の貴族的軍服になっている。
 「今度の『ベルばら』は周年の大事な公演なんだから、主役の私たちが倒れたら一大事よ」
 え?ベルばら?もしかして…。
 俺はコッソリと大事な所を触ってみた…ない!
 「リンちゃんは初主演で、しかも男役だから緊張があったのかもね。でも、大スターになるんだから、頑張らないとね」
 俺の頭は混乱の極致に達していた。彼女の言葉の端々から、俺は舞台で倒れた事、『ベルばら』の主役だという事がわかった。そして、触ってみて無い事…、これは、もしかしたらT歌劇団で、俺は初主役で、男役だけど女だって事か!
 そして、『リンちゃん』なる人物は、皆が違和感なく話しかけてくるということから、俺と風貌が似ているか、若しくは俺が『リンちゃん』の中身になってしまっているかだが、お世辞にも  三九歳独身の俺の風貌はT歌劇団に耐えられるものではない。
 「リンちゃん、本当に大丈夫?」
 「ああ、ちょっと混乱してるみたい。少し寝るから一人にしてくれる?」
 とても俺とは思えない声がのどから出た。
 付き添ってくれた彼女は心配そうに見ていたが、やがて少し寝てね、と言い残し楽屋を出て行った。
 俺は起き上がり鏡を見た。そこには俺と似ても似つかない顔…ド派手なメイクはしているが、綺麗な顔に均整の取れたスマートな体が映っていた。俺はため息をつき座り込んだ。そしてふとテーブルを見るとパンフレットが目に入った。
 どうやら今回の公演のもののようだ。主役の男役の名は『花月竜胆』娘役は『星見麗華』となっている。娘役はさっき付き添ってくれた娘のようだ。公演月は20XX年Y月、場所は僕の住んでいるところの近くにある「玉ねぎ」と言われる場所だ。時期等を考えると特に時間的な転移をしたわけでもないらしい。
 俺は痛む頭をフル稼働し、今までの情報から無理やり仮説を立てた。
 俺が眠りに入る瞬間と『花月竜胆』が倒れた瞬間がシンクロし、両方の魂が不安定になり体から抜け出して、俺が竜胆に入ったか、若しくは入れ替わった可能性が一つ、それと俗にいう『平行世界』に入り込んだ可能性。
 あと考えられるのはまだ夢の中、若しくは急に意識不明、若しくはもうあの世…。
 俺は化粧を急いで落とし、竜胆の私物と思われる服を身に着けた。ノーメイクでもやはり綺麗な顔だ、などとゆっくりはしていられない。竜胆のバッグを持ち出し、こっそりと楽屋を抜け、俺の住んでいるアパートに向けタクシーを拾った。そう、自分の体を確かめるのだ。
 タクシーに乗りこみ行き先を告げる。ホッとした束の間、運転手が俺の顔をミラーでじろじろと見る。なるほど、人気者とはこんなものかと、さっきバッグの中で見つけたサングラスをかける。夜にサングラスとは余計に怪しいが仕方が無い。
 アパートに着くと、俺は一目散に自分の部屋に向かった。コッソリと部屋を伺うと人の気配がする。
 あるいは…と思い、勝手知ったるとばかり台所の窓に向かった。やはり鍵をかけていない。俺は今までなかった長い手足と細い体で窓を突破し部屋に入った。
 廊下を隔てた居間兼寝室からグスグスとくぐもった泣き声が聞こえる。俺はなるべく驚かさないようにと襖にノックする。
 「もしもし、誰かいますか?」
 俺はひそひそと声を掛けたが反応が無く、泣き声が止まってしまった。俺はもう一度ノックした。
 「もしもし、もしかしたら花月竜胆さんですか?」
 襖の向こうから本当の俺の声が聞こえた。
 「だ、誰ですか!」
 「あの、ここの本当の住人なんですが…」
 「え!本当の?」
 ガラッと襖が開くとそこには泣き腫らした目をした俺がいた。四〇前の男が情けない、と思ったが、中身がもし竜胆であるならばショックだろう。
 「竜胆!なぜここに!」
 「いや、ここの本当の住人で本田と言います…姿は竜胆さんなんですが…って、じゃあ、あなたはいったい…?」
 「私…『星見麗華』です!」
 え?あの介抱してくれた娘?
 「竜胆とは同期で仲が良くて…、竜胆が倒れそうになった瞬間、竜胆の脚が私に引っ掛かり一瞬倒れたんです…、気が付いたらここの臭い布団に寝てて…」
 臭くて悪かったな。
 「鏡を見たらおっさんになってるし体も…もういやあ!」
 また泣き出した麗華と名乗る俺の身体をなだめすかし、ようやく落ち着けたあと、自分の仮説を聞かせた。
 「しかし、俺の体に麗華さんで、俺の思念は竜胆さんで…、じゃあ、竜胆さんは?」
 「竜胆は…きっと私の体に入っています、あの子、本当は男役じゃなくて娘役になりたかったんです…、きっとその思いが…。仲良くしてたけど、きっと娘役になった私を妬んでいるんです!だから、きっとこの入替は竜胆が仕組んだんです!」
 じゃあさっきの麗華は竜胆だったのか!しかし、俺は何だ?とばっちりか?いや、役者になりたかったという思いが二人に混線して俺まで混じったのかもしれない。でもいくら有名でもT歌劇団は男としてはちょっとなあ…。
 しかし、ただの混線なら『麗華の中の竜胆』の態度がおかしい。何も焦っていなかった…。
 とにかく、まずは自分に戻らないと。
 「しかし、どうやったら戻れるのかなあ…、俺もこの体では困るし…」
 「私もこんなおっさん嫌です!」
 いちいち癇に障ることを…まあこんなストレス抱えてブラック勤めのおじさんは皆嫌だろうなあ。
 「とにかく前向きに考えよう。まず、こうなった原因として考えられるのが、同じ瞬間に倒れたとか寝入ったとかの意識を失った状態になった事だ」
 「その時に意識と体が混線して…みたいに?」
 俺は長い手足を組み頷いた。
 「それしか思い当たる節が無いしね。ただ、もしかしたら、竜胆が何らかの細工をして君を乗っ取ったとも考えられるが。俺が巻き込まれた意味は分からんけどな」
 「ずっとこのままなんでしょうか…グスッ」
 「やはり、竜胆が自分の体に戻る気があるかどうかだよね。君の体にせっかく入れたのだから娘役をずっと出来るし」
 「じゃあ…ずっと私このまま…」
 泣き崩れる自分の体…麗華を見ていると哀れになってくる。
 「じゃあこうしてみる?まず君と俺が入れ替われば、とりあえず君はT歌劇団には帰れる。あとは君と竜胆の話し合いだ。痛そうだけど、君と頭をぶつけ、替わりたいと念じればいけるかもしれない」
 「男役ですかあ…」
 「君はおっさんの体と竜胆の体とどっちがましだ?」
 「…男の人の体…、結構興味あったりして」
 もじもじとしながら体をくねらせるおっさんは見たくない!しかしお前なあ…この緊急時に。
 「あんまり俺の体いじらないで欲しいんだが…。俺だっていろいろ我慢してるんだから」
 「あなた、まさか竜胆の体をあれこれ…」
 「してない!それどころじゃ無いでしょ」
 どうも若い子は調子が狂う。というかT歌劇団はいろいろ厳しいらしいから変な所で世間知らずになるのかもしれない。
 「とにかくだ、どうする?まずはやって見るか?それとも、痛いのが嫌なら、俺は入眠剤使っているから、二人で同時に飲んで意識合わせて寝てみる手はある」
 「男の人と寝るなんて!」
 「いや、今君が男だから」
 「あ、そうか。でも…寝て起きてもし戻っていれば、寝ている竜胆の体を…」
 「だからしないっての、もう。俺はブラック企業でギリギリの生活でやってるんだ。別にこのままの方が生きやすくなるかもしれないし、無理に戻らなくてもいいんだぞ」
 俺の体…麗華はシュンとして頷いた。
 「分かりました…。頭当ててコブ出来るのは痛いし、入れ替わらなかったら最悪だから、寝る方にします」
 「分かった。薬取ってくる」
 俺は引き出しから入眠剤を取り出し持って来た。
 「俺は、いつも寝る時にこれを飲みヒーリング音楽をかけながらアイマスクをするんだ。麗華さんはアイマスクいらないな?」
 「はい。どちらかと言えば寝つきがいいので」
 「じゃあアイマスクは俺が使う。で、よりシンクロしやすいよう、手を繋いで寝るんだ」
 「男の人と手を繋いで寝るなんて…」
 「いや、君がおっさんの体だろ。心を落ち着けて眠るんだ」
 俺たちは入眠剤を飲んだ後、ヒーリングの音楽をかけた。そしてお互い頷きあい手を繋いで仰向けになった。なんか心中みたいだなと思いながらウトウトとしてきた。
 
 気が付くと、俺はフワフワと宙に浮かんでいた。自分の手を見、体を見ると元のおっさんに戻っているが実態が無い感じだ。
 横を見ると麗華も体が元に戻りフワフワと浮いていた。
 「麗華さん、気が付いた?」
 「は、はい…、ここは…、あ、おじさんがおじさんになってる!」
 「そう、今は元の体みたいだけど実態が無い、どうも思念体のようだ。公演会場の上辺りを漂っているみたいだよ」
 「あの玉ねぎは…そうですね、間違いないです」
 「しかし、君の体も実態が無いとは言え元に戻っているとは…、やはり竜胆もこの辺にいて、何らかの操作をしているかもしれん」
 僕は辺りを見回した。少し離れた所にスマートな影が浮かんでいる。
「竜胆か!」
 俺と麗華は竜胆にすっと近づいた。竜胆は不敵な笑みを浮かべている。
「まさか麗華とおじさんが組むとはね…。私は、古本屋である魔導書を読み、この入替術に成功したんだ。ただ、単純に麗華と私が入れ替わっただけでは今後舞台で邪魔をされかねないからね、役者になりたかったおじさんの強い念を感じたからクッション役にして入れ替わったけど…。おじさん、麗華の体に戻れば?憧れの舞台俳優だよ、女性の体だけど。ブラック企業よりよっぽどましだよ」
「竜胆、俺は人の夢を砕いてまでそんなことをしたくない。残るのは後悔だけだ」
「若い子の前だからって格好つけなくてもいいですよ」
「格好つけてるわけじゃない。理不尽が許せないだけだ!」
 ビシッと竜胆に指を突き付ける。なんか俺格好いい。
「じゃあどうします?ここは私の思念と術が強く作用している場、ここで何をしようと?」
 俺は今までの事を考えてみた。思念が作用しているのは間違いない。ただ一度、思念が体から抜け出たら、思念との縛りが弱まって、自分だけで思念体を作り、体への出入りが出来そうだ。
 そして、これはどうやら『幽体離脱』的要素があるようで、先に体に入ってしまえば乗っ取りが可能であると推測した。
「麗華!今すぐ自分の体に入るんだ!麗華の体はあの公演会場にあるはずだ!」
 俺は麗華に叫んだ。麗華はハッとして会場の中へ飛び込み、俺は一目散に自分のアパートへ飛んだ。
「ま、まさか!」
 会場に行くか、アパートに行くか、竜胆の一瞬の躊躇が俺たちの間の距離を生んだ。
 俺は竜胆が会場に行けないように牽制した。おっさんの思念を舐めるなよ。
 俺は竜胆をけん制しつつ、一足早くアパートへ入り、横たわっている竜胆の体へ入った。後から来た竜胆の思念体は、俺の思念体が入った竜胆の体と、横たわっている俺の体を見比べ茫然としていた。
 「これは…」
 「そうだ、竜胆。もうお前の術は俺に効かないぞ。麗華にもな。あとはもう、俺の体に入るしかない!」
 「そ、そんなあ…」
 ひざを折りがっくりと崩れた竜胆の思念体は涙を流していた。
 「わ、私は…娘役がしたいだけだったのに…」
 「他人を傷つけてまでしていいことじゃない。どうする竜胆。麗華に謝り、今後は仲良くしていくことを誓うなら体は返す。また同じ事をすると言うのなら、お前は一生俺の体だ!」
 「わ、わかりました…、確かにこんなことをしても本当の娘役じゃない…。男役として、精進するので、どうか、体を…」
 泣いて土下座をする竜胆、まだ若いがための暴走なのだろう、一皮むけば世間知らずのお嬢様だ。
 「了解だ、もう無茶なことはするなよ」
 俺はまた思念体になり、竜胆の体を出て自分の体に戻った。竜胆はまだ泣いていたが、俺が促すと自分の体に入っていった。
 俺は自分の体に入った後、まだボーッとしている竜胆の肩を叩き、彼女を立ち上がらせた。
 「さあ竜胆、踊ろう」
 俺は体に付けていた特殊な肉襦袢を取り、丸めていた背を伸ばし、特殊メイクのマスクを取った。俺の、いや私の端正な顔が笑顔で溢れる。 
今までかたずを飲んで観ていた客が一気に湧いた。さあ、ここからが見せ場だ。
 アパートのセットが一瞬で取り払われると豪華な舞台セットが現れ、麗華や他の出演者が私と竜胆の周りに集い、歌を歌いながら踊り出す。
 私は竜胆の手を取り、時に激しく、時に優しく踊る。
 出演者全員の鮮やかな舞と観客の雨のような拍手の中、緞帳が静かに降りた。緞帳の向こうの客席では、いまだ拍手が続いていた。

 「T歌劇団氷組最新SFX公演『幽体離脱の夜』お楽しみいただけましたでしょうか。お帰りは後ろ側と横側のドアとなっております。気を付けてお帰り下さい」
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