第1話
文字数 1,666文字
夏も終わりかけた逢魔時にみつけた女である。
みつけるも何も、交番をとおれば誰でも目にするものだというかもしれない。しかしぼくは手配写真などというものに金輪際、興味をひかれたことがない。
それなのに、そのときばかりは違ったのだ。
写真の女は、口の上にいささか濃い髭の生えた女だった。それが目に入ったとたん、Boyz II Menの「Girl In The Life Magazine」がきこえ、ぼくを周囲の世界から隔絶した。
「この女性に旦那がいるのなら、是非とも殺してやろう」という想念が温水のように、ぼくの体の井戸を、ぼくの精神の空洞をサーッと湧きあがって満たした。
人を殺したいなどと思ったのは、そのときが初めてだった。
口髭を生やした岩石顔の凶悪犯である彼女なら、そんな想いでいっぱいのぼくを道徳的な理由で責めるとは思えない。
ますます彼女を気に入った。
野性味などというものを超越して、荒削りの鉱物のようなゴツゴツとした輪郭・肌質。何があっても驚くことのない蟹のような黒目。
「この顔で何年もみつかっていないのだとすれば、樹海か深海に沈み朽ちているのではないだろうか」ぼくは心配になった。
この顕著な特徴の顔でどこかに隠れつづけるなど不可能だし、もしその不可能が可能となっているなら、彼女は髭を剃り、大規模な整形を顔に施したことになる。それだけは、ぼくにとってどうしても避けたい最悪事態だった。
ぼくの長すぎる滞在に神経を刺激されたのだろう、交番のなかで書類仕事をしていた女性巡査が机から顔をあげて、
「その女、見覚えのある顔ですか?」と訊いた。
このおかしな質問にぼくは戸惑ってしまった。これだけ特徴の明瞭な女性について、もしぼくが「見覚え」ているのだとしたら、彼女を他の人間と混同して立ち迷うことなどなく、交番内に進み出て申し出ているはずだった。
だからぼくが凶悪犯の写真に恋してくぎづけになっていた以外にないのだ。ぼくにそれ以外の理由がないということを、どうしてこの年若き麗しき女性巡査は察してくれないのだろう。
「あなたがたがこの犯人をつかまえたいという以上に、ぼくはこの女性になんとしても会いたいのです」
そういう気持ちをどうしてわかってくれないのだろう?
中年の巡査部長のような、日焼けして固太りの男性警官が二人分の弁当お茶を袋に交番にもどってきた。彼はぼくの傍らを何意識することなくとおりすぎたが、弁当をデスクにおいた巡査部長を女性巡査は見上げ、目配せした。
巡査部長がぼくを振り返る。
「なにか、ご存知ですか? 手配写真の女」
その巡査部長の声のあとに、蝉の声が時雨のようによみがえって降った。夏の陽射しがオレンジ色に、厳しくぼくの肩と頭部、背を刺した。
「暑いから、どうぞ、なかへ入ったらどうです」巡査部長がぼくを見据えていった。彼は微笑してぼくをみていた。ぼくは彼の人のよい好意を感じた。
ぼくは交番のなかへ入った。扇風機が首をふり、内部の空気をぬるく掻き乱していた。巡査部長は壁から立てかけてあった折りたたみ椅子を引いてき、それを展開して、ぼくに座るようにすすめた。
ぼくは座った。
女性巡査は細身でグラマーな体をしてい、メイクも今風に洗練されており、しかも理知的で清潔感のある警官だった。職業ばかりではなく、その存在の全体が、ぼくが恋した指名手配犯とは世界を異にしている。ぼくが実家に連れてかえったら、両親がよろこびそうなタイプだ。
しかしぼくの生涯の決断は、写真の女性と結ばれることだ。
女性巡査は奥の別室にいき、ビラをもってもどってきた。それをデスクに置き、ぼくに滑らしてよこした。
「この女。まちがいないですか?」
ぼくは頷いた。
警官二人は深いため息を吐き出し、二人で顔を見合わせた。二人とも驚きで目が皿のように押し展げられている。凍りついたようにみつめ合った二人はようやく唾を呑み込みながら頷きあい、同時にぼくをふりかえった。
「聞かせてください」警官二人は息をあわせたように、ぼくにそういったのである。
みつけるも何も、交番をとおれば誰でも目にするものだというかもしれない。しかしぼくは手配写真などというものに金輪際、興味をひかれたことがない。
それなのに、そのときばかりは違ったのだ。
写真の女は、口の上にいささか濃い髭の生えた女だった。それが目に入ったとたん、Boyz II Menの「Girl In The Life Magazine」がきこえ、ぼくを周囲の世界から隔絶した。
「この女性に旦那がいるのなら、是非とも殺してやろう」という想念が温水のように、ぼくの体の井戸を、ぼくの精神の空洞をサーッと湧きあがって満たした。
人を殺したいなどと思ったのは、そのときが初めてだった。
口髭を生やした岩石顔の凶悪犯である彼女なら、そんな想いでいっぱいのぼくを道徳的な理由で責めるとは思えない。
ますます彼女を気に入った。
野性味などというものを超越して、荒削りの鉱物のようなゴツゴツとした輪郭・肌質。何があっても驚くことのない蟹のような黒目。
「この顔で何年もみつかっていないのだとすれば、樹海か深海に沈み朽ちているのではないだろうか」ぼくは心配になった。
この顕著な特徴の顔でどこかに隠れつづけるなど不可能だし、もしその不可能が可能となっているなら、彼女は髭を剃り、大規模な整形を顔に施したことになる。それだけは、ぼくにとってどうしても避けたい最悪事態だった。
ぼくの長すぎる滞在に神経を刺激されたのだろう、交番のなかで書類仕事をしていた女性巡査が机から顔をあげて、
「その女、見覚えのある顔ですか?」と訊いた。
このおかしな質問にぼくは戸惑ってしまった。これだけ特徴の明瞭な女性について、もしぼくが「見覚え」ているのだとしたら、彼女を他の人間と混同して立ち迷うことなどなく、交番内に進み出て申し出ているはずだった。
だからぼくが凶悪犯の写真に恋してくぎづけになっていた以外にないのだ。ぼくにそれ以外の理由がないということを、どうしてこの年若き麗しき女性巡査は察してくれないのだろう。
「あなたがたがこの犯人をつかまえたいという以上に、ぼくはこの女性になんとしても会いたいのです」
そういう気持ちをどうしてわかってくれないのだろう?
中年の巡査部長のような、日焼けして固太りの男性警官が二人分の弁当お茶を袋に交番にもどってきた。彼はぼくの傍らを何意識することなくとおりすぎたが、弁当をデスクにおいた巡査部長を女性巡査は見上げ、目配せした。
巡査部長がぼくを振り返る。
「なにか、ご存知ですか? 手配写真の女」
その巡査部長の声のあとに、蝉の声が時雨のようによみがえって降った。夏の陽射しがオレンジ色に、厳しくぼくの肩と頭部、背を刺した。
「暑いから、どうぞ、なかへ入ったらどうです」巡査部長がぼくを見据えていった。彼は微笑してぼくをみていた。ぼくは彼の人のよい好意を感じた。
ぼくは交番のなかへ入った。扇風機が首をふり、内部の空気をぬるく掻き乱していた。巡査部長は壁から立てかけてあった折りたたみ椅子を引いてき、それを展開して、ぼくに座るようにすすめた。
ぼくは座った。
女性巡査は細身でグラマーな体をしてい、メイクも今風に洗練されており、しかも理知的で清潔感のある警官だった。職業ばかりではなく、その存在の全体が、ぼくが恋した指名手配犯とは世界を異にしている。ぼくが実家に連れてかえったら、両親がよろこびそうなタイプだ。
しかしぼくの生涯の決断は、写真の女性と結ばれることだ。
女性巡査は奥の別室にいき、ビラをもってもどってきた。それをデスクに置き、ぼくに滑らしてよこした。
「この女。まちがいないですか?」
ぼくは頷いた。
警官二人は深いため息を吐き出し、二人で顔を見合わせた。二人とも驚きで目が皿のように押し展げられている。凍りついたようにみつめ合った二人はようやく唾を呑み込みながら頷きあい、同時にぼくをふりかえった。
「聞かせてください」警官二人は息をあわせたように、ぼくにそういったのである。
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