第1話

文字数 2,219文字

 一面のガラス窓に、絵のように海が見えるカフェ。
 そう聞くと、湘南か須磨か糸島か、気合いの入ったデートで行くような、とてもおしゃれな店構えを想像するかもしれない。
 でもそこは名古屋から車で一時間半、かつてのユースホステルで、今は概ね廃墟。地元出身の先輩が、子どもの頃に臨海学校で泊まった覚えがあるという、鄙びた港町の小さな建物。車通りからはキラキラした雰囲気はまるでなく、車から降りて近づいてようやく、小さな看板が目に入り、営業中のカフェであることがわかる。
 そのカフェに一人でよく通っていた時期があった。新卒から数年過ごした大阪から転勤で愛知に移ったあの頃。想い出すたび、一緒に強烈な孤独感が蘇る。回りに誰もいず、いつも一人愛車で出掛けたイメージ。直線の建物とコントロールされた水が美しい豊田市美術館や焼きものを見に行った美濃や常滑の陶器市。一人で好きなだけ好きなところに出掛けているけど、ぽつんとした自分。そんな思い出ばかり。
 実際には、大阪時代と変わらず、同じエリアに住む大学時代からの友人たちと泊まりがけで遊んだり、会社の人と山や温泉やに出かけたりしていたのに。その前でも、その後に移った東京でも必ずしも幸せな恋愛に恵まれていたとは言えないのに。近くに住む後輩が「週末の予定は埋まるけど、なんか寂しいの」そう言って早々に結婚したときも、一人も楽しいよとか思っていたのに。なぜだろうか。
 そういえばあの頃、転勤した先にいた同期や身近な後輩は軒並み、新婚かそれに近い状態で、結婚の段取りや新婚生活の話ばかり聞いていた。わりと閉鎖的な環境で、社内で付き合っていたパターンが多く、噂話を避けて皆、結婚ぎりぎりまで交際を隠していた。そこから一転、やっと公表できた反動で浮かれてるんだろうなと冷めた目で見ていた。口では、「いいねいいね、参考にさせて」と言いながら。

 海沿いの強い日差しにやられたのか、全体的に陽にやけて色褪せたようなカフェの店内は、土日でもお客さんは多くなく、一人でも居心地が良かった。
 いつも同じ曲がかかっていた。ピアノを背景に、包みこむようなささやきで「なぜだろう、なぜだろう」と歌う女性のうた。後からそれがノラ・ジョーンズだと知った。
 そこでは、たっぷり何杯も飲めるからという理由でポットの紅茶を頼み、カバーが掛かった古いソファで足を崩しながら、ひたすら本を読んでいた。たまに本から窓の外に目を向けるたび、遠くに見える大型船がだいぶ動いていて、それで時間の経過を感じていた。
 私にとって、本は人と同じようなものなのかもしれない。合うときもあれば合わないときもあり、今はわからなくても、時が経って理解(わか)るようになることもある。偶然出逢うこともあれば、芋づる式に紹介されることもある。そして、本を良く読む時期は、人間と深く付き合えていない時期と重なっているように思われる。
 小学校3年生。クラスの学級文庫にある小公女セーラを、何度も何度も読み返していた。質素に真面目にという教訓部分は読み飛ばし、父親の遺産が転がりこんできたセーラへの対応がすっかり変わるシーンばかりなぞっていた。私にもそんなすべてを変える何かが、いきなり転がりこんでくるのを夢見て。
 高校生の頃。今でもつきあえる友人に出逢えた一方、ずっとべったり一緒に過ごす友人はいなかった。文化祭にのめり込むまで、卒業まで1000冊読めるかな、と三つの図書館をはしごして、さらに市で一番大きな本屋に通い、本を漁っていた。あの頃読んだ本は、今も私の血肉となっている。
 
 クリスマスが近い頃だったか、休日の午後、いつものようにそのカフェでポットの紅茶で本を読んでいると、「もしこのあと時間があったら、ゆっくりしていきませんか?」と声をかけられた。そして、お茶をサービスしてくれた。
 いつもは夕方で閉まるそのカフェは、夜は予約があるときにだけ貸し切り営業することは知っていた。気になっていたが、一人で寛げるこのカフェを教えたくなかったし、そもそも誘えるような人もいなかった。
 少しずつ日が落ち、店内に点されたろうそくが置かれてゆく。海に沈んでゆく太陽が、西に開けた窓一面に見える。少しずつ、でも日が沈みかけてからは一気に移っていく色合いがとても綺麗だった。そして日が落ちると、あちらこちらのろうそくがゆらめき、全く別の表情を見せた。
 予約したグループは、既に向こうの席に着いていたが、何を話しているか聞こえず、他に話す人もいなかった。私も息をひそめるようにろうそくの光と暗くなった外を見つめた。そしてまた本に目を落とす。しばらくして、貸切で予約したはずなのに、私がいても邪魔じゃないかなと勝手に心配して帰った。
 今思い返しても、あの夕陽をあのカフェで見たとき、間違いなく独りだった。でも、あの頃の孤独感とはぜんぜん違う。優しくて美しい記憶。お店の人が、この景色を見せたくて、私に見せてくれたんだろうなと感じたからだろうか。

 その孤独な日々は突然終わりを告げ、私は東京へ転勤することになった。それはあの震災が落ち着いた頃で、時折「あのとき」の話になり、関東で震災を経験しなかった仲間外れ感か罪悪感かそんな気持ちを抱く。でもあの頃の孤独感はない。
 今でも、ノラ・ジョーンズを聞くと、あの頃の気持ちを想い出す。そして、泣きそうになる。
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