第3話 躊躇を知らない女

文字数 1,803文字

「手当がついて給料3割増しで、おまけにボーナス付きだから、少々不便なのは納得してるわよ。でもね、センター長は“生活は主要基地と変わらない”って言ったのよ。どこが? まともな給湯システムもないじゃん。あの人絶対ここで生活したことないか、地球でも碌に風呂にも入らない無神経かのどっちかだわ」
 鼻息も荒く一気にまくしたて、皿に残ったソースをご飯にかけてかきこんでいく。
「ドクターはまた何かやるつもりですか?」
 医療官のアントニオ・コンテが聞いた。栄養士の資格も持っており、食事の用意は彼の役目になっている。今日の料理も彼の手によるものだった。そんな料理人で健康を管理する役割を持つ男は、常に秋子をドクターと呼ぶ。
 秋子はドクターだが医者ではない。PhD――博士号の方のドクターだ。
 20歳と少しの時点ですでに水産学と作物学の分野で博士課程を修了して、それ以外の分野にも“趣味”で論文を投稿している。
 火星での役割は魚の養殖と植物の栽培における水の管理だ。彼女の貢献によって、火星での食生活は幾分か向上している。小規模ユニット居住地でティラピアのバジルトマトソースが食べられるのは彼女のおかげだ。
 これからの宇宙開発において火星以遠の場所へクルーを派遣する際に、小規模な施設でいかにして食糧生産を維持するのかという観点でも、彼女が行う仕事は注目を集めている。
 そうした大きな視点抜きでも、乏しい飯に苦しめられてきたクルーと、彼らの腹を満たすために努力するアントニオのような食事係にとって、食材の生産に一役買っている秋子は尊い存在としてあがめられている。

 そして同時に、彼女は相当な変人として知られている。思い立ったら行動に移し、躊躇というものを全く知らない女。それが彼女と仕事なりプライベートなりの付き合いがある人間が抱く感想だった。
 ある時は柳川鍋が食べたいと言い出し、実験用のドジョウを食用に養殖しようとした。生理学研究施設のスタッフを言いくるめてドジョウを手に入れた秋子は、見事に低コストでの確実な養殖に成功した。
 ただし、火星では粉末鶏卵こそあるものの、ゴボウがまだ手に入らないことに気付いたために、ドジョウを鍋にする計画は凍結となっている。
 実験動物を安定して増やせるようになったことで研究スタッフは喜んだが、彼らはそれが食べるために増やされたことはまだ知らない。
 またある時は、お気に入りの耳かきを地球に忘れてきたと騒ぎ、自分でデザインして図面を書いた耳かきを3Dプリンターで作成した。金属製の物と、カーボン製の物をそれぞれ1つずつ。
 その際に、手書きのデザインと図面をプリンターに入力する3Dモデルする役目を押し付けられたのが誠だった。

 別の時には味噌煮を食べたいと言って、人の体に付着している菌からコウジカビを単離し、自分が栽培を担当していた大豆と合わせて味噌を作った。かくして作られた「火星味噌」により、火星で食べられる料理のバリエーションはまた増えた。
 ただし、誠はその味噌を食べる気にはあまりなれない。コウジカビの採取元が、秋子の足の裏だと知っているから。
 卓越した頭脳と行動力を無駄遣いして欲望を叶えてきた秋子の次なる野望が風呂だった。

「まあ水はあるけど、風呂に使えるほどのお湯は用意できないだろうな。それにバスタブもないだろう?」
 施設のエネルギー管理を担当しているジャックが困ったように言った。水は地下の氷を採掘し、可能な限りろ過を行って再利用している。
 施設の電力は採掘したメタンを燃料として使う溶融炭酸塩燃料電池(MCFC)から得ている。反応に必要な酸素は地表の酸化鉄を還元するときに出る副産物だ。作られた電力の大半は採掘機械のために回され、人間が自由に使える分は多くない。
 氷を採掘して、燃料電池から出る余分な熱を使えばお湯は作れるが、給湯システムはない。そしてバスタブに使えそうなものもない。
「ハッハー、その程度の障害で日本人の風呂への欲望が止められるもんですかい。もうアイデアはあるわよ。ここで風呂と言い出したのは宣言よ。やってやるわ」
 誇らしげに言って、秋子は空になった茶碗に茶を注いで飲み干した。
 それを見ながら、誠は彼女のわがままに付き合わされるのが自分だろうということを薄々感じていた。少なくとも、柳川鍋、耳かき、味噌煮、そして風呂のことをわかるクルーは、今のところ誠しかいない。
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