第1話

文字数 4,058文字

 伝票を棚から一枚取り出すと、台車を持って倉庫の中を歩いて行く。目の前に同じ仕事をしている人が三人ほどいて、皆仕事に集中しているようだった。夏の暑さが倉庫の中を満たしていて、さすがに東京の夏は厳しいなと思った。倉庫の奥に飲料水の入った段ボールの箱が積まれていて、伝票を確認して、台車の上に段ボールの箱を載せる。
「十分間の休憩にしよう」
 社員の人から声が掛かり、僕は休憩室に向かった。休憩室にはパイプ椅子が置いてあり、皆そこに座って汗を拭いたり、飲み物を飲んだりしていた。中央のテーブルに座っている人たちは仲がいいようで、さっきからテーマパークに行った話をしている。僕はスマートフォンの画面を見ているふりをしながら、彼らの話を聞いていた。
「これ、あなたのですか?」
 ふいに後ろから声を掛けられたので振り向くと、若い女性が僕のハンカチを持っていた。
「すみません。僕のです。ありがとうございます」
 僕はそう言って受け取ると、彼女の顔を見た。顔は整っていて、気が付かなかったが、綺麗な人だなと思った。
 その日の仕事を終えて、バス停の前でバスを待っていた。
「佐々木君は大学生だっけ?」
 職場で話をするようになった人が隣に立っている。僕よりも一回り年上で、首にタオルを掛けていた。
「そうです。夏休みだからバイトしているんです」
「いいなー。俺は高卒だからさ、バイトが終わったら何処かへ行くの?」
「とりあえず徒歩で旅行をしようかなと思っています。どこまで行けるかはわからないけど」
 僕はそう言ったが、後ろを見た時、ハンカチを拾ってくれた女性がいることに気が付いた。
「さっきはありがとうございました」
「ううん」
 バスが来るまでの間、三人で話をしていた。若い頃にどんなスポーツをやっていたかという話だった。
 僕はまさかここで女性と話をすることになるとは思っていなかったが、次第に彼女に興味を持つようになった。
 バスがやってくると僕らは乗ったが、たまたま空いていた席に彼女と一緒に座った。
「佐々木って言います。よろしくお願いします」
「私は村上加奈。下の名前は?」
「啓介です」
「わかった。啓介君はずっとこの仕事するの?」
「夏休みのアルバイトです。普段は大学に通っています」
「そっか」
 村上さんはそう言うと窓の外の景色を見ていた。しばらくの間、話をすることはなかったが、バスが駅前に着くと、二人で降りた。
「私は一年くらい働いているからさ。何かわからないことがあったら聞いてよ」
 別れ際に村上さんはそう言うと、反対側のホームへと歩いて行った。

 その日から仕事で会うたびに僕らは話をするようになった。村上さんはおそらく僕より年上だと思うが、小説を読み、演劇を観に行くのが好きだと言っていた。僕は大学では法学部だが、小説を読むことが好きだったので、話が合った。僕らは仕事が終わると駅前のファミレスで夕食を食べるようになった。八月になり、暑さはピークを迎えていたが、夜は涼しい風が吹いていた。
 今日も仕事終わりにバス停で村上さんと話をしていた。
「今度演劇を観に行こうよ。チケット貰ったからさ」
「いいですね」
 僕は何となく彼女に親しさを感じていた。脳裏に付き合えるのではないかという期待が過った。ただ僕に対して優しいのは彼女が年上だからという点もあるのかもしれない。
「明日は休みだし、この後飲みに行きませんか?」と僕は誘った。
「いいよ」
 僕らはバスに乗って駅に着くと、居酒屋に入った。店内はスーツを着た人もいれば、大学生と思われる人もいた。個室に案内され、僕らはビールを注文した。
「大学は楽しい?」と彼女は聞いた。
「それなりって感じですかね。あまり親しい人もいないし、講義もこれと言って面白いわけじゃないし」
「佐々木君は今の現状に感謝した方がいいよ」
 彼女はそう言って、お通しのキュウリを口に運んだ。
 僕はぼんやりと大学のことを考えていた。ここで働くようになってから、知り合いは増えたし、仕事は大変だけど、充実した日々を過ごしている。そして村上さんとこうして話をすることができた。
「佐々木君は彼女とかいないの?」と聞かれた。
「いないです。今まで付き合ったこともないから。村上さんは?」
「そうなんだ。私も今はいないかな。昔付き合っていた人は酷い人だったからさ」
「そうなんですか?」
「その話をすると長くなるかな。この後予定ある?」
「特にないです」
「じゃあ私の家に来る? そこで飲みなおそう」
 僕は自分の心臓が鼓動しているのを感じた。こうして二人で話をしているだけでも十分だったが、家に誘うということは僕に気があるのかもしれない。
 僕らは会計をして、店を出た。空には大きな雲が浮かんで風に乗って流れていく。村上さんは僕の隣を歩いていた。なぜ彼女は僕と親しくしてくれるのだろうか。
 僕らは駅の改札を抜けて、ホームで電車を待った。その間に村上さんは小さな声で鼻歌を歌っていた。僕は駅のホームに立ちながらぼんやりと辺りの光景を見ていた。

 村上さんのアパートは駅から歩いて十五分程のところにあった。鉄でできた階段を上り、二階の部屋に案内された。ワンルームのアパートで、キッチンと風呂場があった。部屋の中は綺麗で、白い絨毯とソファが置かれていた。彼女は冷蔵庫からチューハイの缶を取り出すと僕に渡した。
「そこに座って」と言われたのでクッションの上に座った。
「酷い人って何があったんですか?」
「私が大学に入った時の話なんだけどさ。サークルの飲み会でその人と知り合ったんだ。彼は大学三年生でサークルの幹事をやっていたの。当時は知り合いもいなかったから彼と仲良くなって付き合い始めたの」
 彼女はそう言うとチューハイを飲みながら、テーブルの上に置いてあったクッキーを口に入れた。
「付き合ってから、彼の家に行くようになってね。ある時、私としている時に写真を撮ったの。私は彼のことが好きだったから、大丈夫だと信じていたんだけどね。ある時、サークルに出ると、周りが変な目で私のことを見てくるの。それで、知り合いから、あなたの写真が出回っているって知ってね。ショックだったから、それ以来大学に行けなくなったの。半年くらい実家で過ごしていてさ。両親にも言えなかったから、うつ病になったって言ったわ。それで大学を休学したんだけど、ある時、自分はこうなったことに憎しみを感じるようになってね。大学まで行って彼を探し出して、持っていったナイフで刺したの」
「そんなことがあったんですか」
「すぐに人が集まってきて、彼は救急車で運ばれたわ。私は茫然とそこにいたんだけど、警察が来て逮捕されたの。私は捕まって、最終的には刑務所に行くことになった」
 村上さんはそう言うと、目には涙が滲んでいた。僕はその話を聞いて、その彼に対して憎しみを感じた。
「保釈されてから、しばらく実家にいたんだけど、たまたまあの倉庫の求人を見て、上手くごまかして働いているの」
 彼女はそう言うとチューハイの缶を飲み干して、冷蔵庫へ向かい、新しいチューハイの缶を持ってきた。
「辛かったんですね」
「でも今となっては、もう全てが仕方ないのかもなって。そういえばこれを貰ったんだけど」
 彼女の視線の先には花火の袋があった。僕はそれを手に取って眺めていた。
「この辺りに河原があるからそこでやらない? もう夜遅いけど」
「いいですよ」と僕は言った。

 部屋を出て、夜の街の中を歩いて行く。村上さんはまた鼻歌を歌っていた。どうして彼女が僕に優しくしてくれるのかわかったような気がした。彼女は手に負えないほど辛い人生だったのだ。僕はぼんやりと街の中を眺めていた。気が付くと、僕らは手を繋いで歩いていた。村上さんは僕の顔を見て微笑んだ。
 河原は歩いて十分程の場所にあった。人がいなくて、街灯の光が辺りを照らしている。僕らは花火の袋を開けて、ライターで火を付けた。火花が夜の闇の中に消えていった。村上さんはじっと火花を見ながら、ぼんやりとしていた。
「いろいろあったけど、時々こういう日がやってくるんだ」と彼女は言った。
「僕、司法書士を目指そうと思うんです。働き始めたら一緒に住みませんか?」
「いいよ。佐々木君は優秀だと思うから。それまで楽しみにしているね」
 僕らはそんな会話をして恋人同士になった。花火の袋の中は線香花火だけになった。二人で河原にしゃがみ込み、火を付けると、小さな火種から火花が散った。
「夏休みの間はあそこで働くの?」と彼女は聞いた。
「そうですね。本当は徒歩で旅行をしようと思っていたんです。でも親しくなった人もいるから、今年の夏休みはあそこで働くことにします」
「そっか」
 僕らは線香花火を終えると、帰り道を歩き始めた。まるで自分たち二人だけがこの世界にいるような気がした。部屋のドアを開けると、中に入り、二人でベッドに寝転んだ。昔、修学旅行でこんな感じだったなと思い出した。
「私、将来は海外に行きたいんだ」
「どこの国ですか?」
「ギリシャ。写真で見たんだけど、いいところだなって」
 その日は夜遅くまで彼女と話をして、眠りについた。翌朝目覚めると鳥が鳴いていた。ベッドの横で彼女は静かな息をして眠っている。僕はゆっくりと彼女を起こさないように起き上がり、キッチンへ行ってコップで水を飲んだ。その時、脳裏を過ったのは昔、聴いていた曲だった。僕はここ最近の出来事を思い出して、充足した気持ちになっていた。しばらくすると彼女が目を覚ました。
「おはよう」と彼女は言った。
「おはよう」
「昨日はよく眠れた?」
「ぐっすり寝ましたよ」
「今日は映画に行かない?」
「いいですね」
 僕らは交代でシャワーを浴びて、軽い朝食を食べた、トーストと目玉焼きで彼女が作ってくれた。今日は晴れていて、窓の外が明るい。彼女は時々僕の顔を見て微笑んでいた。僕は二人で過ごしていると安心することができた。この先、僕らはどんな人生を歩むのだろうかと考えながらトーストを口に運んだ。

 
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