第1話

文字数 1,595文字

 草文堂の主人といえば、この町で知らぬ者はない。わずか三坪ほどの店に、雑多な古書がうずたかく積まれ、その山をすりぬけるようにして奥へ行くと、和服姿の主人が端然と座っている。伸ばし放題の真っ白な髭の中から鋭い眼光を放つその風貌は、仙人を思わせた。
 とはいえ、この仙人を店で見ることはめったにない。入口にはたいがい「外出中」の札が掛けられている。しかも、鍵をかけたためしがない。座布団の上に、「代金はここへ」と書いた札と箱が乗っているだけである。それで今まで、本も売り上げ金も盗まれたことがないらしい。そんな浮世離れした生き方と、いつ行っても不在なことを掛けて、町の人々は彼を「今仙人」……「いませんにん」と呼んでいた。
 この仙人、店にいないかわりに町中いたるところに出没する。ふと気付くと、いつの間にかそこにいるのだ。仙人が現れるのは、決まって人々が悩んだり苦しんだりしている時である。と言っても、手を貸すわけでも、口を出すわけでもない。ただ、いかめしい表情でじっと見ているのである。
 ある時、借金を苦に自殺しようとしている経営者があった。屋上から飛び降りようと下を見ると、あの仙人の姿が見えた。仙人は射すくめるような目でこちらを見ている。経営者は体中の力が抜け、その場にへなへなと崩れ落ちた。しばらく身動きもできなかった。やがてゆっくりと体を起こし、自分の手を見た。力を振り絞って立ち上がり、自分の足を見た。……俺にはまだ生きる力がある……経営者はそう思いながら階段を下りていった。
 またある時、かなわぬ恋に苦しむ青年がいた。公園のベンチでうなだれる青年は、周囲の猛反対に遭い、愛する人をあきらめようとしていた。人の気配に青年が顔を上げると、仙人がじっとこちらを見つめている。青年はハッとした。仙人の視線が自分の心の底まで届いているような気がした。……僕は……僕は彼女が好きだ! 誰が何と言おうと、この気持ちは変わらない!
青年は立ち上がり、澄んだ目でうなずくと、力強く歩き出した。
 神通力……そんな言葉で彼を評する人もいたが、「仙人」本人は何をどう考えているのか、誰にもわからない。彼が発した言葉を聞いた者は、誰もいないのだ。
 「仙人の姿を見ると、悩みや苦しみから解放され、幸せになれる」
 そんなうわさが広まり、町外から訪れる人が増えた。彼らはまず草文堂を訪ね、主人がいないことを確かめると町中を捜し回った。だが仙人はどこにもいなかった。そのうち、深刻そうな顔で公園のベンチに座ったり、ビルの屋上から飛び降りるまねをしたりする者まで現れた。しかし、仙人は姿を見せなかった。
 そのうちテレビ局がうわさを聞きつけて取材にやって来た。むろん、仙人に会うことはできなかったが、「幸福を呼ぶいませんにん」という番組が放送されると、毎日何百人もの人々が町を訪れるようになった。商店街はにぎわった。仙人をあしらったお菓子や土産物を売り出す店もあった。そのうち、仙人の銅像や観光施設まで建てられた。訪れる人々は、仙人を捜すことをしなくなった。そこへ行くだけで満足した。町の人々も、仙人の行方など忘れてしまったようだった。
 間もなくブームは去り、訪れる人もまばらになった。仙人の人気に乗じて過大な投資をした商店主たちには、借金だけが残った。
 ある夜、店をたたむことを考えながら歩いていた一人の店主が、草文堂の前を通りかかった。何気なく店を見ると、そこに仙人の姿があった。驚いて店のガラス戸を開けると、たちまち仙人の姿は消えた。店主は呆然として外に出た。すると、再び店の中に仙人の姿が浮かび上がった。店主は恐る恐るガラス戸に近づいてみた。すると仙人もこちらへ近づいてくる。遠ざかってみると、仙人も遠ざかる。それは鏡に映った自分の姿であった。そこで店主は、「いませんにん」など、もともといなかったのだと悟った。
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