キャンバスの絵が動かなくなるとき

文字数 8,272文字

 もしかすると、以前の私は一種の大量殺人者だったのかもしれない。
 キャンバスに描いた人物の絵を『命ある人間』として捉えるのであればの話だが。
 私は幼い頃から絵を描く癖があった――ここで「趣味」と言わず、「癖」と表現したのは絵を描くこと自体が特別好きだというわけではなかったからだ。学生の時も授業の合間や昼休みの時間に一人黙々とノートに絵を描くほどで、もっぱら静物や人物のデッサンが多かった。
 その事から察せられるように、私は内向的な性格で友達もおらず、誰とも口を利かずに絵ばかりを描いていたせいで同級生によくからかわれたものだ。どれほど馬鹿にされようとも絵を描くことはやめられなかったのだから、ほとんど病的な癖だったと言えるだろう。
 そんな変わり者の私にも唯一の理解者がいた時期があった。
 それは高校生の頃、教室の窓から見える校庭の風景を夢中になって描いていた私に話しかけてきた一人の女子生徒であった。彼女は私の絵を褒めて、嫌でも絵を描いてしまう私の癖を決してからうことはしなかった。孤独な私に唯一の安らぎを与えてくれたのだ。
 今でも鮮明に思い出すことができる。机に向かって勉強をする彼女の姿をデッサンしたあの時、私は初めて絵を描く行為に心の満たされる感情を覚えた――よく思い返してみれば、それは私が画家になりたいと強く思うようになった一番のきっかけだったのかもしれない。
 高校を卒業した後、私は都内の有名な芸大に入った。
 運が良かったのは、絵を描く癖で自然と身につけていた私の技術や作風は当時の流行の追い風を受けたらしく、入学して間もなく非常に高い評価を受けたことだ。学校内のコンクールや学校外のコンテストでも度々入賞し、芸大を卒業する頃には個展を開いても黒字になるほどの知名度を獲得していた。もはや就職をしなくても生活に困らない程度には稼げていたのだ。
 しかし、私の心は必ずしも晴れ切っているわけではなかった。
 画家になれたこと自体には満足していたものの、自分の絵を不特定多数の他人が見ている事実に気持ちの悪い違和感があったのだ。私の絵を賞賛する人、その反対に批判する人、どちらも私の絵を見ていない気がした。天才ぶって表現するのであれば、彼らは私の絵を通して当時の流行を見ているだけであって、私自身を見ていなかったとでも言おうか。
 それとやはり私は癖で絵を描いていただけであって、特別絵を描くことが好きではなかったのだ。学生の時とは違った点を唯一挙げるとすれば、私は無性に何かを求めるような気持ちで絵を描くようになっていた。絵ではない何かを、絵を描くことで得ようとしていたのだ。
 芸大を卒業してから一年後、私は早くも画家を引退するに至った。
 引退の理由はいくつかあったが、一番の原因とも言えるきっかけは一つの変化だった。
 ある日、アトリエに一人で引きこもっていた私がいつもの癖でキャンバスに知人の人物画を描いていた時のことである。最後の色塗りを終えて、人物画を仕上げたその瞬間、なんとその絵の人物がキャンバスの中で動いて喋り出したのだ。
 私は突然の非現実的な現象を前に驚きながらも、知的好奇心も相まって、その知人を描いた人物画と対話を試みた。言葉を重ねるにつれて、その知人の人物画は私の知っている本人の人格と何一つ違うところがないことを理解したのであった。
 私の知的好奇心はとどまるところを知らない。
 その後、私は他にも様々な絵を描いたり処分したりを繰り返して、私の描く絵に何が起こっているのかを検証した――その検証によって導き出された答えが全て正しかったのかは今となっては分からないものの、少なくとも以下のような特徴があったことに間違いない。
 まず、私の描く絵が何もかも動き出すわけではなかった。
 絵が動くという魔法のような現象が現れるのは人物画のみであった。しかも、特定の条件を揃えた人物画でないと動かないらしく、おそらくその条件は『私が本人の顔と名前を知っていること』、『その人物が実在しており、かつ生きていること』の二つのようであった。
 実際、漫画のキャラクターを模写したり歴史上の人物を描いたりしてみたが、いずれもその絵が動き出すことはなかった。また、実在している人物でも名前を知らない状態で絵に描いても動かなかったのに、名前を知ってから改めて絵に描いた途端に動き出したことからも、私が実在する人物の名前と顔を両方知っていることが重要なのであろう。
 ちなみに、名前と顔を知る手段は何でも良いようであった。例えば、ニュースで殺人事件の容疑者の名前と顔が映ったとする。その容疑者を描いた人物画は当然のように動き出す。つまり、私とその人物に面識がなくても名前と顔さえ知っていれば構わないのだ。
 さらに不思議なことに、その人物画は対象となった本人の人格をほぼ完璧に有していた。性格、知識、記憶、喋り方などを含めて、私の知らない本人の情報でさえ知っているのだ。
 いや、『知っている』という表現は不適切であろう。なぜなら、その人物画は紛れもなく本人そのものだからだ。私が私自身のことを意識して会話をしないように、キャンバスに描かれた人物画も自分が本人だという事実に疑いを持っていないのである。
 それに加えて、動き出す人物画にはもう一つの共通点があった。
 人物画の記憶はその絵が完成した時点で本人が有していた記憶に依存するということだ。
 例えば、ある知人がコンビニに入ったとする。知人が買い物をしている最中に、私がその知人の人物画を完成させると、その人物画は『今日、コンビニに行った』という記憶を持つことになる。しかし、買い物をしている途中で完成した絵であるため、『コンビニで何を買ったのか』や『コンビニを出た後はどこへ行ったのか』の記憶は持っていない。
 端的に言えば、人物画の記憶を最新の状態にするには、その都度描き直す必要があるということだ。補足しておくと、同じ人物の絵を二枚描いた場合、最初に描いた方の絵が動いて、二枚目に描いた絵は動かない。その状態で一枚目の絵を正しく処分すると、二枚目の絵が動き始める。ただし、二枚目の絵が有している記憶はやはりその絵が完成した時点で本人が有していた記憶であり、その絵が動き出した瞬間の記憶とはならない。
 最後に、動き出した人物画の処分方法については少し厄介であった。
 結論から言うと、焼却処分以外はまったく通用しなかった。人物画の上から真っ黒な絵の具で塗り潰したり、キャンバスを叩き壊したりなど色々と試したが、全て失敗に終わった。
 絵の具で塗り潰してもそれは上の層が単色に染まっただけであって、下の層には塗り潰された人物画が確かに存在しているため、しばらくするとその人物画が上の層に移動するような気軽さで浮かび上がってくるし、キャンバスを物理的に破壊しても細かくなった破片のどれかに人物画が避難してそこで動き続けるのだ。
 言い方は物騒であるが、一度動き出した人物画の息の根を完全に止めるには、その絵を火で燃やしてすっかり消し炭にしなければならない。
 燃やされる寸前の人物画は特に抗議する素振りもなく、薄々別れの時が迫っていることを察しているらしく感傷的な様子になることがほとんどであった。
 こうして私の描く人物画に異常としか言いようのない変化が表れたことをきっかけに、私は画家を引退したのだ。表向きには一身上の都合と発表して、私の描く人物画が勝手に動いて喋り出すという秘密は誰にも明かすことはしなかった。
 画家を引退した後、私はごく一般的な会社員として働き始めた。
 画家を引退したものの、絵を描くことは生まれついての癖であったため、まったく絵を描かなくなったわけではない。私の秘密がばれないように、職場では同僚の見ていないところでこそこそと人物以外の絵を描くことで癖を紛らわせていた。
 自宅へ帰ると、当時残していたアトリエにふらっと入って、やはり絵を描いていた。人目のつくところでは描けなくなった動く人物画に自分でも不思議なほど執着していて、一日にいくつものキャンバスを消費していたものだ。
 それにせっかく興味深い力を手に入れたのだから有効的に活用しようと、私は身勝手とも言える私的な理由で動く人物画を利用していた。
 例えば、同僚の誕生日を祝う時にその人の欲しい物を知るために、あるいは上司の機嫌を取れるように興味のある話題を把握しておくために、時には社内恋愛の橋渡しをするためになど利用方法は様々であった。都合が良いことに、人物画は私に対して故意に嘘をついたり隠し事をしたりしないので他人の情報を引き出す点ではとても便利だったのだ。
 こちらの用が済めば、すぐに人物画は焼却処分する。相手が絵とはいえ、普通に会話のできる見知った顔であるために少なからず罪悪感はあったが、動く人物画を描き溜めておく理由はないし、処分しておかなければ後々面倒なことになるかもしれなかったからである――今にして思えば、この行為はある意味で人を殺していたと言えるかもしれない。
 純粋な好奇心から、過去に私の絵を賞賛していた人達の人物画を描いたこともあった。彼らに投げかける質問は決まって、私の絵に対してどのような感情を抱いていたかである。
 彼らの答えはどれもこちらの想定の範囲内に収まっており、私を傷付けることはなかったものの、また同時に私を喜ばせることも一切なかった。動く人物画は聞かれたことに対して隠し事はできない。つまり、嘘偽りのない正直な気持ちを知ることができた。
 私の絵に心酔していた人、一過性の流行りだと思っていた人、実は何が良いのかまったく分かっていなかった人、その反対に表面上は批判をしていたが心の底では一定の魅力を感じていた人など、対面のやり取りだけでは表現し切れなかったその人の本音を吐露していた。
 この時の私は自分の絵に関する質問を投げかけることによって、自分でもよく理解していない一つの正解を求めていたように思う。
 とにかく、そんな動く人物画を描いては燃やしての日々を繰り返していたある日のこと。
 普段あまり見ないテレビをちょっとした気紛れでぼんやりと眺めていた私は、そろそろアトリエに入って絵を描こうかと思い、テレビの画面を消すためにリモコンへ手を伸ばしたところでつとその動きを止める。
 私の興味を引いたのは、テレビのニュースで流れてきた内容だ。
 その内容は、行方不明者に関する情報を呼びかけるものであった。一週間前に出勤のために自宅を出た会社員の女性が、通勤で利用している駅近くの監視カメラに映った姿を最後に、杳として行方知れずになったという。その駅付近で発見された女性のバッグには昼食用と思われる手作り弁当と財布などが入ったままであること、そして遺書が残されていないことから自発的な失踪や自殺ではなく、何らかの事件に巻き込まれた可能性があると報じていた。
 女性の氏名、年齢、顔写真、身体的特徴がテレビの画面に表示されたのを見た私はテレビの画面を消すのも忘れて立ち上がり、アトリエに入ってその女性の人物画を描き始める。
 仕上げを終えた後、その人物画が動いてくれたことにひとまず安堵した。
 少なくとも行方不明の女性は生きていることが判明する。いったい何が起こったのか、今どこにいるのかといった質問を、私が捲し立てると、人物画はその時に自分の身に降り掛かった不幸を思い出して怯えるような表情をしながら真実を話してくれた。
 彼女の話をまとめると、まず自分は見知らぬ男性に誘拐されたのだと言う。
 通勤のために駅へ向かっている途中、人気のない路地裏から人の苦しむようなうめき声を聞いた。もしかしたら誰かが怪我か病気で倒れているのかもしれないと思って、その路地裏の奥へと様子を見に行った。すると、そこには中年ぐらいに見える男性がうずくまっていた。心配になった彼女が声を掛けようと近づいた瞬間、その男性は手慣れた素早い動作で湿った布状の何かで彼女の口を塞いだ。気を失った彼女が次に目を覚ますと、まったく知らない小部屋に寝転がっていたのだった。幸いにも手足は縛られていない状態であったようだ。
 部屋の広さは三畳、小さな簡易トイレ以外に家具はなく、手の届かない高い位置に小窓が一つある。物置部屋か何かのようであり、内鍵のない扉は外側から施錠されているようだ。水と食料が定期的に小窓から差し入れられること以外に、彼女と誘拐犯の接触はないと言う。
 扉を叩いたり、大声で助けを呼んだり、小窓まで壁をよじ登ろうとしたり、試せることは全て行ったが無駄に終わったようだ。誘拐犯はよほど慎重な性格らしく、差し入れる食料は食器や箸などを必要としないものばかりであり、脱出に使えそうな道具は手に入らない。
 私は彼女の居場所の手掛かりを得ようと、さらに状況の詳しい説明を求める。
 時計がないために時間の感覚がなく、小窓の外が明るいか暗いかで昼と夜を区別しているようだ。それに加えて、外からは電車の通る音と振動が聞こえてくると言う。三畳という部屋の面積に四方を壁に囲まれた環境は息苦しく、毎日が不安で仕方がない、と。
 彼女は体力的にも精神的にも疲労していることが、その話し方から伝わってきた。
 どうにかして、彼女を助けることはできないだろうか。
 私は必死で自分にできることを考えた。
 相手が生きている人間ならば、こうして私が絵に描いて話をすることができる。誘拐犯の名前と顔さえ分かれば、動く人物画を描いて、居場所を特定することも可能だ。残念ながら、彼女は誘拐犯の顔をよく見ていないし、そもそも名前も知らない相手だと話していた。
 彼女の置かれている状況も最悪だ。外の景色が少しでも見える状況だったら、その情報を頼りにある程度場所を絞り込むことができていたであろう。
 ただ一つ、今分かることは彼女の近くでは電車が通っているということだけだ。
 その時、私はふとある方法を思い付いた。
 電車は不定期で通るものではなく、一定のダイヤルによって管理されている。もし、仮に彼女のいる場所が誘拐現場である駅からそう遠くない位置にあるのなら、その電車の通る音の間隔が大きな手掛かりになるのではないかと、私は考えた。
 電車の通る音の間隔をより正確に知るには、その音が何時何分に聞こえたのかを知る必要がある。一見不可能なことのように思えるが、私にはそれを可能にする手段があった。
 私の描く『動く人物画』の特徴の一つに、「その人物画の記憶はその絵が完成した時点で本人が有していた記憶に依存する」というものがある。そして、「同じ人物の絵を二枚描いた場合、最初に描いた方の絵が動いて、二枚目に描いた絵は動かない。その状態で一枚目の絵を正しく処分すると、二枚目の絵が動き始める。二枚目の絵が有している記憶はその絵が完成した時点で本人が有していた記憶であり、その絵が動き出した瞬間の記憶とはならない」というもう一つの特徴を踏まえれば、次の方法を取ることができる。
 彼女の人物画を大量に描いて、それぞれの絵が完成した時間を記録し、まず一枚目の絵に電車の音が聞こえたかどうかを質問する。電車の音の有無に加えて、その音がいつ頃に聞こえたものなのかを絵の完成した時間から推測しメモを残す。それを終えたら一枚目の人物画を正しく処分して、二枚目の動く人物画に同様の質問をする。
 これを繰り返せば、電車の通る音の間隔を把握することができ、それを誘拐現場付近の駅の時刻表と照らし合わせれば、そこからどれほど離れた位置にいるのかを絞り込めるだろう。
 当然ながら不安材料もあった。
 誘拐現場からあまりにも遠くへ連れ去られているのであれば、より多くの駅の時刻表も調べる必要が出てくる。その作業に時間をかけすぎると、彼女の体力が持たずに衰弱死してしまうかもしれないし、気が変わった誘拐犯に殺されてしまうかもしれない。
 だが、私はとにかく行動をするべきだと動き出した――ただ彼女を助けたかった。
 すぐさま車を出して、一番近くの画材屋でその店にあるキャンバスと絵具の在庫を全て買い占め、自宅のアトリエに持ち込んだ。彼女の人物画を一つ一つのキャンバスに描き、それぞれ完成した時間を何時何分何秒まで細かく記録し、その絵を隙間なく並べていった。
 半日ほどかけて、アトリエの中は彼女の人物画で埋め尽くされた――私が一生忘れないであろうその光景は、他人が見ればきっと狂気を感じて身を震わせただろう。
 やや不謹慎な言い方かもしれないが、私はそれまで久しく忘れていた満足感と達成感を覚えたために束の間恍惚とした後、すぐさま動いている一枚目の人物画の処分に取り掛かった。
 私は怖かった。もし、この絵を焼却処分した直後、次の絵が動かなかったら、つまりその瞬間に彼女が殺されたということになるからだ。まるで私がこの手で彼女を殺してしまったようできっと罪悪感と後悔で胸いっぱいになるであろう。
 動く人物画を処分した後、次の絵が動き出すのを見るたびに、私は胸を撫で下ろした。
 正確な枚数は覚えていないが、少なくとも百枚の人物画を燃やしたと思う。最後の一枚を燃やす際に、私はそれが無意味な行為だと理解していながらも、ただの動く人物画でしか彼女に向かって、希望を捨てないようにと励ましの言葉を送った。
 メモに残した電車の通ったと思われる時間を参考に、誘拐現場周辺の駅の時刻表を徹底的に調べ上げると、おおよそ三分以内のズレに収まる時刻表のある駅と、五分以内のズレに収まる時刻表のある駅を見つけ出したのだった。
 その二つの駅の沿線上に存在する建造物のどこかに彼女のいる可能性が高い。
 そう確信した私はさっそく所轄の警察署へと連絡した。
 情報提供をする際、私は自分が何故こんな情報を知っているのかと疑われるかもしれないと思い、行方不明者である女性の友人に頼まれて個人的な調査をしている者だと名乗った。とある駅二つの沿線上のどこかに監禁場所がある可能性を伝えて、これは誘拐事件であるため警察に早急な捜査をお願いしたいこと、そして友人のためにも捜査結果をいち早く教えてほしいことも希望する――この時、捜査結果については守秘義務のため教えられないと回答された。
 情報提供を終えた後、私は彼女の安否が心配で仕方がなかった。
 自分の仕事も手につかず、暇を見つけてはテレビやネットに行方不明の女性について続報がないかと目を走らせて、夜も眠れずに寝不足になるほどだ。かといって、彼女の人物画を描いてみるのも怖く、彼女に似た架空の人物画を描いて気持ちを誤魔化し続けた。
 警察に情報提供をしてから一週間後のこと、ついにテレビでその続報が流れた。
 結論から言うと、彼女は見つけ出されて保護されたとのことだった――彼女が無事だったと知った時、私がどれほど心から喜びを噛み締めたことか。
 私が動く人物画を使って導き出した推測のとおりだった。彼女はとある二つの駅の沿線上にある個人宅の物置部屋で発見されたようだ。発見当時は栄養失調に陥っており、あと数日発見が遅れていたら命が危うかったという。
 さらに、その家主である中年男性が誘拐犯の容疑者として逮捕されていた。容疑については認めており、誘拐の動機は「人間を飼ってみたかった。(被害者を)特別付け狙っていたわけではなく、誰でもよかった」と供述しているらしい。
 誘拐犯の情報はどうでもいい。彼女は生きている。その事実が私にとって何よりも重要なことであった。彼女が死んでいたら、私は二度と人物画を描かなくなっていただろう。
 それから何日も経ったある日、私は彼女と直接会うことに成功した。
 彼女に会う前に、もう一度彼女の人物画を描いて、私の絵についてどう思っているか、高校生の頃にやたら絵ばかりを描いていた同級生のことを覚えているか、その同級生のことを本当はどう思っていたかなどを聞いておこうとした。
 しかし、不思議なことに、私の人物画は動かなくなっていた。試しに他の人物画を描いてみても同じであり、その状態は今もなお続いている。
 だが、それでも構わない。
 何故なら、私のアトリエには彼女の人物画ではなく、彼女自身がいるのだから。

                                       了
 
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登場人物紹介

●私(主人公)……

 幼い頃から絵を描く癖がある。

 あくまで手癖で絵を描いてしまうだけであり、絵を描く事自体が好きなわけではない。

 芸大を出て、画家となり、すぐに引退した後は平凡な社会人として生活している。

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