第1話

文字数 2,000文字

「いや、どこで、と言われましても…」
 依頼人が済まなそうに笑った。依頼人といっても、依頼を受けるかどうかはまだ決めていない。私はわざと黙ったまま客を見た。彼は曖昧な笑みを浮かべ、触覚の先についた赤い球をいじっている。頭の中で警報が鳴っていた。探偵稼業を長くやっているとわかる。ふんぞり返って話をする妖精ならむしろ安心だ。卑屈な態度を取る客の方が要注意なのだ。後々話がこじれるのは大抵このタイプだ。しかも依頼の内容がペットの捜索ときている。骨折り損の可能性は大だった。「逃した場所がわからないとなれば、何とも動きようがありませんなあ」気のない返事をして窓に目をやる。すぐ外を、野良ドラゴンが一匹、鯉のぼりみたいに身を揺らしながら飛びすぎてゆく。ここは雑居ビルの四階で、龍たちの通い道の高さにある。と、銀色の鱗だらけの体がくねっと丸まり、次の瞬間ムチのようにしなった。薄桃色の液体がジャーと吹き出して、はめ殺しの窓を横一文字に薙いだ。ピンクに染まった空の下、トイレを済ませたドラゴンが悠々と去ってゆく。家賃が格安なのはこのせいだ。私はため息をついて視線を室内に戻した。幸い客は自分の心配事で頭が一杯で、窓の外の出来事には気がついていない。私は自分の触覚の先にぶら下がっている青い球をピンと指で弾いた。額から伸びている二本の触覚は、特に超常的な感覚をもたらすわけではない。先端で揺れているゴムボールみたいな球もそう。長い進化の過程で役割を失い、今や視界の上の隅でゆらゆら揺れているだけの代物だ。だが会話のアクセントにはなる。私は頭を左右に振りながら続けた。「迷い猫ならともかく、相手が仮定法過去ウサギではねえ」

 仮定法過去ウサギは、その名の通り、「もしも…だったら」を叶えるウサギだ。世界線をピョンと跳びこえて、もしもの世界に飼い主を連れてゆく。「もしも」の程度に応じて、並行世界に滞在できる時間が変わる。ちょっとしたミスや失言をなかったことにしたいレベルの話なら、あっちの世界に数日ほど入り浸ることができる。一方、自分がテイラー・スイフトだったら、などという大それた望みの場合は、トリップできる時間は10分やそこらだ。無理な世界線の張力に、ウサギの脚力が耐えきれなくなるのだ。すると白ウサギはピョンと跳ねて元の世界に戻ってしまう。飼い主も一緒にだ。とにかく、時間切れは必ずやってくる。こうして不幸な仮定法過去ウサギ中毒者たちは、束の間の理想世界と現実との間を忙しなく行き来するようになるのだ。

「そう言わずに、どうか力を貸していただけませんか」
 依頼人が深く頭を下げた。丸まった背中越しに半透明の羽根が見える。寝癖で折れ曲がっていた。これまた無用な器官であって、我々妖精は別に空を飛べるわけではない。子供のうちなら可愛いアクセサリーだが、自分や目の前の男みたいな大の大人となると、よほどの洒落者でなければ単に邪魔なだけだ。にしても、身だしなみがなっていない。この手の男は金にもだらしがないものと相場が決まっている。私は依頼を断ろうと立ち上がった。すると、客の足元で、何やら白い物がもぞもぞ動いているのが見えた。ウサギではないか。「あ!」私が指差すと、依頼人の形相が変わった。「こいつ!」カエルみたいにガバッと四つん這いになったかと思うと、小さなウサギはもう、彼の手の中にあった。私が料金を請求したものかどうか迷っていると、依頼人が立ち上がって私を見た。「こんな人生とはおさらばだ!」それをなぜ私に向かって言うのだろうかと思っていると、客は血走った目で両の手に抱えた小動物を睨みつけた。「もしも、お前が、いなかったら!」一言一言に恨みがこもっている。すると二つの長い耳がぴょこんと立った。ウサギは両手の間からもぞもぞと這い出してきて、ギリギリと歯噛みしている男の腕をよじ登り、肩の上に乗った。男がぎゅっと目をつぶって言った。「今だ!」するとウサギが私に向かってピョンと跳んできて

「えーっと」と私。「申し訳ないですが、うちはそういうことやっていないんですよ」客がガックリと肩を落とす。寝癖のついた頭の上で、右手がひらひらと踊っている。何かのまじないだろうか。もう片方の手にはB5の紙の束がある。迷い猫の写真と連絡先がプリントされたものだ。私は早めに引き取ってもらおうと思って言った。「それは一枚頂いておきますよ。どこかに貼っておきましょう」客はトボトボと帰っていった。私はもらった紙を丸めて屑籠に捨てた。ため息が出る。今日の客もスカだ。いくら格安の事故物件でも、そろそろ家賃の払いが厳しくなっていた。「あれ?」と私。気がつくと、右手が額の前に伸びて、何かを探していた。自分でも意味不明な動作だ。疲れているのかな。それよりも明日の飯のタネだ。窓の外に目をやる。曇り空の下、ツバメが一羽、斜めに横切って飛びすぎた。
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