第1話

文字数 4,061文字

 放課後、あたしとキリカ、アミは、いつも通り七階建の廃ビルに忍び込んだ。キリカとあたしは帰宅部だし、アミは美術部だけどほとんど活動はない。仲のいいあたしたちは、たいてい日が暮れるまで、ここでいろんな話をして過ごした。
 もちろん不法侵入だ。『安和ビルヂング』と消えかけの字で書かれた、寂しげに傾いた看板。裏路地に面したところの窓ガラスが割れていて、そこから入ることができた。4階の埃っぽい部屋で雑談した後、キリカの提案であたしたちは屋上に上った。今日はか細い雨が音もたてずに降っている。
「ナナコ」
 キリカはひょいッと柵をまたいで、屋上の縁のところまで行き、振り返った。パッチリした目、漆黒の長い髪。細くて引き締まった鼻と口。本当に中一なの?と思うほど、大人っぽい。華奢なのに色っぽい。あたしはキリカを見ると、自分の地味な容姿が嫌になる。
「危ないよ」
 あたしは小さく声を掛けた。キリカは応えず、挑発するみたいに笑った。アミは屋上の出入り口付近から、じっとあたしたちを見ている。真面目でおとなしいアミは、不法侵入が見つかって怒られるんじゃないかといつもビクビクしている。
「西村の英語さ、ほんとヤだよね。あいつ課題半端なく出すし」
「ねぇ、勉強の話なんてよしてよ。それよりさぁ…」
 キリカはそっぽを向いて、片足で立った。滑れば転落する。
「キリカちゃん、もう止めて!ほんと危ないから!」
 アミが遠くから大きな声で言った。あたしも不安に感じ、柵を跨いでキリカに近づいた。
「へーきへーき。ほら」
 キリカが片足でジャンプした。その瞬間!
 
 キリカは足を滑らせ、宙づりになった。彼女は左手で屋上の縁に手を掛け、あたしがキリカの右腕を自分の両手で掴んでいる。あたしは頭が真っ白になりながら、必死にキリカを引き上げようとした。
「誰か呼んでくる!」
 アミが叫んだ。雨で手元が滑る。キリカの左手が縁から離れ、キリカの全体重があたしの両手にのしかかる。手が滑る。落ちる。あたしもキリカといっしょに落ちちゃう!落ちる!
次の瞬間、あたしは手を放した。キリカは落ちた。仰向けになって、まるでスローモーションのように、見開いた大きな目で、あたしを見つめながらキリカは落ちていった。
…嘘でしょう?
 鈍い音が響いた。誰かの叫び声。アミの叫び声。救急車のサイレンの音。
 あたしはしゃがみこんだ。

 キリカは死んだ。即死だった。あたしは警察とか先生とか、大人からいろんなことを訊かれた。多分アミも同じだ。キリカのお母さんからは罵られた。あんたのせいでキリカは死んだのよ!一生許さないから!あたしの心は大きく抉られた。キリカのお母さんは手を上げたけど、誰かに止められた。キリカのお母さんは、滅茶苦茶に怒鳴った。あたしは目を伏せて、ただ耐えた。
 他の何人かも、あたしのせいだと言った。でもキリカが落ちる瞬間を見ていた人がいて、その証言と、もちろんアミの証言もあって、直接はあたしのせいじゃないということになった。キリカが危ないことをしていて滑り、あたしは引き上げようとしたけどできなかった。そういうことになった。でも…。
 
 キリカの葬式には、行くかどうか迷った。キリカのお母さんは、あたしを見てまた怒鳴るだろう。耐えられない。でも、でもキリカに会いたい。
「行こうよ。ねぇ、ナナコちゃん。ちゃんと…お別れしないと」
 大きな眼鏡越しに覗くアミの小さな目は、赤く腫れあがっていた。いつもはふっくらして血色のいい頬も、今日は薄い紫色に染まっていた。
 通夜に行くと、キリカのお母さんが近寄ってきた。あたしは身構えて、歯を喰いしばった。お母さんの反応は予想外だった。来てくれたのね。この間は取り乱していて酷いこと言ってしまってごめんね。そう言って、お母さんはあたしを弱く抱きしめた。キリカ似の細い腕。ゆっくりと顔を上げた彼女の、キリカにそっくりな目は、言葉とは裏腹に、どこか冷たく感じた。まだ許していないというように。
 顔を見て声を掛けてあげて。そう言われてあたしはアミと一緒に、棺を覗き込んだ。
 キリカの顔の左半分と頭の部分は、色とりどりの花で覆われていた。分かっている。花で隠された部分は、損傷が激しくてとても正視できないのだ。涙は出なかった。実感がまだわかなかった。
 
 葬儀場から帰る途中、歩きながらあたしはアミに言った。
「アミは良いよね。誰かを呼んできたり救急車呼んだりしてさ。ヒーローだね」
「・・・」
「あたしは自分が落ちそうになったから、キリカの手を離した!最低なのよ、あたし!あんたには分かんないだろうけど!」
 捲し立てた自分にハッとした。振り返ってアミを見た。アミは無表情だった。
「酷いこと言っちゃった…ごめん…そんなつもりじゃなかったの」
 あたしは、アミの脚に取りすがった。アミは無表情のままだった。
「いいよ。分かるよ。ナナコちゃん。本心じゃないって。分かってるから…謝らないで」
 アミは口元に、少しだけ笑みを浮かべた。
「危ないことしてたキリカちゃんも、止めさせられなかったわたしたちも悪い。そもそもあんなところでいつも遊んでたのがダメだった。雨が降ってて滑りやすかった。事故だったのよ。誰のせいでもない。」
 あたしの目から、大粒の涙が溢れてきて止まらなくなった。キリカが死んでから初めて、あたしは声を上げて泣いた。アミはあたしの頭を優しく撫でた。

 この事故の後、あたしたちには、学校のみんなから、周りの大人から、好奇と非難の目が向けられた。先生からは、新聞記者などから声を掛けられても絶対に応じてはいけないと言われていて、教育委員会からも取材の自粛を要請したそうだ。でも登下校の時、記者らしき人に何度も後をつけられたり、待ち伏せされたりした。本当に嫌だった。
 アミとあたしは疎遠になった。キリカの葬式以来、顔を合わせて会話をしたのほとんどない。キリカがいた頃はいつも一緒に過ごしていたのに。三年生になった頃には、ほとんどお互いの存在を忘れるくらいになっていた。
 最後にちゃんと会話をしたのは、アミの進路が決まった時。お昼休み、思い出したようにあたしのクラスに来て、アミは第一希望の進学校には落ち、滑り止めの私立へ進学することを告げた。高校なんてどうでもいいや。真面目で成績も上位だったアミが、そんなことを言って笑った。
 あたしのほうは受験に失敗し、通信制のサポート校へ進学することになった。元々勉強は嫌いだけど、成績は学年が進むにつれて下がっていった。結局公立も私立も、全て落ちた。
両親も、何も言わなかった。7歳年上の兄は、有名私大に在籍し、もうすぐ卒業。すでに国家公務員の内定をもらっている。両親にとっては、出来の良い兄がいるから、あたしのことはどうでもいいのかも知れない。
 
 数年後のある日。夜、部屋でうとうとしていた時だった。
珍しく、高田くんからLINEが入った。高田佑二。中学時代のクラスメイト。背が高くて丸顔だったが、ほかの特徴は思い出せない。別に友達というわけじゃない。仕切り屋で世話好きだったのは確かだが、あたしのことなんて忘れていると思っていたから、すごく意外だった。久しぶり、元気?と来たから、うん、何?と返した。その後に続いたコメントに、あたしは愕然とした。
『天木さんが死んだらしいぜ。おとといの晩』
 天木さん…フルネームはアマギ・アミ。あたしはしばらく放心した。一旦スマホを閉じ、深呼吸してから恐る恐る開いた。見間違いであって欲しかった。しかしコメントは、何も変わっていなかった。アミが死んだ?何カ月も会っていない。連絡も取っていない。でも何で?
 教えてくれてありがと。あたしはそれだけ返信し、スマホを放り投げて布団を被った。震えが止まらず、その日はとうとう眠れなかった。
 他の中学時代の同級生二人からも、ショートメールで連絡が入った。二人とも、自殺じゃないかと言った。昨日と今日の新聞のお悔やみ欄を食い入るように読んで、見つけた。天木亜実さん…16歳…葬儀は近親者のみ…。
 自殺じゃなく事故死だったことは、翌日に知った。駅の西口あたりでうろうろしていたら、たまたま中学の時の同級生、野々村さんと会った。テスト日で、早帰りだという。彼女は中学時代アミとは同じ美術部で、アミとは仲が良かった。野々村さんは、キリカの一件も、あたしたちが仲が良かったのも知っているから、伏し目がちに話した。
「アミちゃんね、お風呂に入っている時に発作が起きて、溺れちゃったんだって。ほんとかわいそう。…ほんとに」
 野々村さんは消え入るような声で、涙を拭いながら言った。あたしは頭を下げ、彼女と別れた。
 アミは、確か心臓の病気で、小学校の頃に大きな手術をしたと言っていた。具合が悪そうに見えたことは一度もなかったけど。葬式にも行きたかったけど、家族葬だった。お別れしたかったのに。
 悲しみよりも、あたしだけ置いて行かれたような寂しさを強く感じた。2人は、あたしを置いて行ってしまった。

 気づくと、駅塔の時計は5時を指していた。夕暮れの中で、あたしは何もかも消え去って行くような心細さを感じていた。帰宅する会社員、塾へ向かう中学生、たむろする高校生、駅前の店の呼び込みの声、クラクションの音、駅のアナウンス。大波のような人々の波動。喧騒。

あああああああああああ!

 あたしは頭を抱えて叫んだ。涙が止めどなく溢れてきた。そんなあたしを、周囲にいる人たちは誰も気に留めない。声が続くまで叫んで、そっと目を開け、植え込みのほうを振り向いた。
 そこには、キリカとアミの幻影がいた。暮れてゆく薄明かりの中で、2人は並んで立ち、跪くあたしを、小さな微笑みを浮かべて見下ろしていた。あたしは目を見開いた。
 列車の発射のベルが鳴った。誰かが後ろからあたしにぶつかり、悪態をついた。
 二人の幻影はもう消えていた。
                                        了
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