第1話

文字数 2,081文字

 ホワイトデーの深夜だった。正確には3/15の零時1分だ。
 だからホワイトデーは無事過ぎ去ったのだ。そうおもっていた。
 今年のホワイトデーは何事もなく終わったはずだったのだ。

「まだ終わってないよ」夢の中で声がした。綿菓子みたいな匂いもした。夢の中で匂いを実感したのは初めてだった。
 夢に匂いなんてあったっけ? あるはずないよな。だって夢の中のおれの鼻はニセモノなんだ。嗅覚なんか備わっちゃいない。ぼくはそんなふうな思考を漫然としていた。それは夢の中のはずだった。
「まだ終わってないよ」という声と、ぼくの無意味な思考。それっきり夢は進展しない。じれったくなって、まるで魘されたみたいに身をくねらせて、おれはハッと目を開けてしまった。
 ふーッ。
 なんてことだ。これでは無事に過ぎたホワイトデーがまるっきり台無しじゃないか。おれは上体を起こして頭をかかえてしまっていた。これじゃ負けじゃないか。
 ちぇッ。
 ふりかえって、ヘッドボードのデジタル時計を確認する。3/14、11:21。
 目をうたがった。3/15の零時1分と確認したのはどのタイミングだったろう。枕に頭を落とす直前だろうか。それとも夢の中で見たのだろうか?
 それにヘッドボードからただよってくる、この甘ったるい綿菓子みたいな匂い!

 ぼくはもう、あきらめてしまった。
 ヘッドボードには穴なんてないのに、むくむくと綿菓子みたいなのが西遊記の觔斗雲(きんとうん)みたいに湧き出してくる。
「わかったよ。お呼びがかかったんだな」と、とりあえず口にしてみるものの、なんのお呼びだか、そもそもお呼びなのかも知っちゃいない。
 3/15、ホワイトデー。なんてイマイマしい日なんだ。「まだ終わってないよ」か。妙にしっとりして深みのある、ふかふかした低声じゃないか。どこの若造が、なんのウラミがあって、、、
「まだ始まってもいねえよ」なんていわれるよりはマシか。しかしあと40分弱が永遠にもおもえる。誰かがいってたっけ。一日は一週間よりながい。なら40分は? ゾッとした。
「綿菓子キライなんだよ」、また無意味なことを口にしてみた。
 もう見ないようにしていたが、さっき薄暗いフロア・ランプにやわらかく照らされていた觔斗雲のごときものは、腰をふるバニー・ガールの尻尾のようにくすぐったい感じでぼくの背中に触れている。ぼくに呼びかけているのか、ひとえにくすぐることだけが目的なのか。
 もし、くすぐることだけが目的だとしたら、この觔斗雲奴(め)は、人と人の間にあるべき適切な距離感というものを見誤っている。
 觔斗雲奴は、女だろうか?
 女も男もあるものか。ぼくの独り言にも、觔斗雲奴はツッコミを入れてこないのだから。
 渾身のジョークというわけでもないが、、、

 気がつくとぼくは泣いていた。
 ぼくは今日だれにもお菓子を贈らなかった。なすべきことをなさなかった一日が終わろうとしていて、ぼくは觔斗雲奴に恋心をいだいている。こんなことがあっていいはずはない。

 こんなことがあっていいはずはない。
 さっきふかふかした声でぼくを起こした男が目の前にあらわれる。男だといいきっていいのだろうか? のどちんこと舌しかない。もし他の部分も具備していたら30メートル近くもある大男だろう。
 ムラサキ色したのどちんこから痰が垂れ、舌を滑り降りてくる。気持ちがわるいので、詳述はさけよう。
 のちんこと舌だけで声が出せるわけがない。と、ツッコミたくなる人がいるとすれば、その見解はお門ちがいだとぼくはいおう。
 なぜなら実際そいつはぼくにむかって声をかけたのだから。
「筋斗雲は女だよ」
 ぼくはブラッシュして(顔が赤くなって)しまった。後ろの綿菓子が筋斗雲であると自らが正解していたことに、痛いほどの恥ずかしさを感じたのだ。
 ぼくは学生のころ、挙手して自身の聡明さを誇示したい願望をもっていたものだが、実際にあてられて正解するところを同級生や教師にみられると、ブラッシュしてしまうという癖があったのだ。それがいまだに抜けていない。
 現在でいうと、のどちんこ舌と筋斗雲が、ぼくの正解するところを見たことになるのだった。熱くなり、全身にじわッと汗が浮いた。
「こんなことしても意味ないじゃなか」ぼくは自分の羞恥心をムリにも怒りに誤魔化すべく、顔をしかめ握りこぶしをつくったりして、怒声をはっした。
 のどちんこ舌が呼吸を荒げ、ブランコのような振り子運動をしたのどちんこが、まるでフィニッシュする鉄棒選手みたいに、ぼくの顔面に痰をぶちあててきた。ウエッ。と情けない声が出てしまった。
「ぼく死んじゃうんですか?」恋する筋斗雲をまえに(後ろに)、みっともないセリフを吐いてしまった。
 ハハハハハハーッと、おかしくてたまらないというように、のどちんこ舌が笑った。古い映画で三船敏郎がやりそうな豪快な哄笑だ。筋斗雲があいかわらずウサギの尻尾のようなふわふわで背中をなでてくれているので、ぼくの神経はかろうじて崩壊をまぬがれた。
「おまえさんは超人になったのだ! ホワイトデーは終わらない!」
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