第1話

文字数 1,980文字

 僕はもう年若いと言える年齢ではないけれど、いまだに心に傷を負いやすい。父から与えられた言葉など何一つないけれど、事あるごとに思い出す言葉がある。こんな書き出しで文章を書き始めたのもそのせいである。
 高校の入学式の日、僕の隣に座っていた彼は唐突に次のように言った。「この世の中に完璧なものがあるとしたら『グレートギャツビー』だけだ。それ以外に完璧なものはない。あるいはそれを完璧と呼ぶんだ」。
 独り言をつぶやくように発せられたその言葉はどうやら僕に向けられたものであるようだった。「何?」と僕は聞き返した。
 彼はお腹を押さえて前かがみにうずくまり、「痛い、痛い」と苦しみ始めた。周りの生徒がざわざわと騒ぎだした。僕は周りを見渡して先生たちがいる方向に手を挙げて合図を送った。派手なネクタイをつけた名前も知らない男性教師が駆けつけてきた。教師は彼を抱えて連れて行こうとした。「君も来なさい」。教師は僕にそう言った。言われるがままに僕は体育館から出て行った。
 保健室のベッドでしばらく横になった後、彼は体調を取り戻した。何故か僕は彼の横に座ったままでいた。
「どうだった?」と彼は口を開いた。
「どうだった?」と僕は自分自身に何かを確かめるみたいにその言葉をなぞった。
「どうだったって何が?」
「僕の演技」
「演技って、何のこと?」
「だからさ、お腹を痛がったことだよ」
「演技?演技だったの?」
「そうだよ。入学式でお腹が痛くなる程僕の胃腸はやわじゃない」
僕は何と言葉を返したらいいのか分からなかった。保健室の窓は開け放たれ、外から吹き込む風で薄桃色のカーテンが揺れていた。窓の外には桜の木が見えた。桜が咲いていたかどうか、覚えていない。
「完璧だった?」と彼は訊いた。おそらく演技のことだろう。僕は何とか正気を取り戻そうと努めた。冷静になろうとすることがいつだって大切なのだ。
「どうだろう。演技だなんて1ミリも思わなかったよ。でも君はさっき、『この世の中に完璧なものがあるとしたら『グレートギャツビー』だけだ』と言った。だとしたら君の演技は完璧ではない」
 彼が独り言のように呟いたその言葉を何故か僕はすらすらと暗誦することができた。どれだけ努力して覚えようとしても覚えられない物事が山ほどあるというのに。
「僕が言ったことを聞いてくれていたんだね。君に向けて言った言葉が君にちゃんと届いているっていうのは嬉しいことなんだね」
後にも先にもそのような素直な表現を耳にしたことはない。今度は彼が窓の外を眺めていた。もしまた彼に会うことができたら、そのとき桜の花が咲いていたかどうかを確かめることができるかもしれない。そう、僕はその日以来彼に会っていない。次の日から彼は学校に来なかった。
「一緒にこの学校を辞めないか?」と彼は僕に言った。
「辞める?どうして?」
「どうしてって、この学校にいても仕方がないからさ。僕が探しているものはここにはない。今日ここに来てそれが分かったよ」
「探しているものって何?」
「じゃあ君は何を探しにこの学校に入ったの?」
「僕は何かを探しにこの学校に入ったわけじゃない。だいたい学校を何かを探す場所だと考えたこともない」
そうか、と言って彼は少しうつむいた。それから顔を上げて言った。「僕はね、学校は陽光が通過する場所であればそれでいいと思っているんだ。豪勢な設備や立派な教師、進学や部活動の実績、そんなものはどうだっていい。太陽の光が通過しさえすればそれだけで十分な思い出になる」
 僕は学校を辞めなかった。僕の三年間に思い出はあるだろうか。「思い出がある」とは言えない。彼の言葉を借りれば、あの時の僕には陽光が通過しなかった。彼にはそれが分かっていた。僕にはそれが分からなかった。
「君は辞めないんだね?」と彼は僕に訊いた。
「うん」と僕は答えた。
「それはランベール的決断なのか?」と彼は言った。「ではないと思う」と、ランベールを知らない僕はそう答えた。ランベールに出会ったとき、皮肉にもその答えが間違っていなかったことを知った。でも彼は、僕が『グレートギャツビー』もランベールも知らないことを分かっていたのだと思う。しかし彼にはどうだっていいことなのだ。彼が探していたのは『グレートギャツビー』やランベールを知っている僕ではなくて、陽光が通過する場所だったのだ。
 学校を辞めた後、彼は陽光が通過する場所を探し出すことができたのだろうか。僕には分からならい。しかし、少なくとも、それは僕にとってどうでもいいことではないのだ。でなければ、事あるごとに彼のことを思い出したりはしない。
「通過してきた日々に思い出があれば人は生きていくことができると思うんだ」
あの日、最後に彼は僕にそう言った。

これから通過する日々に思い出があるように、僕はこの言葉を忘れないでいたいと思う。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み