雨の声

文字数 1,985文字

「友広、あのね」
「ごめん。今、手が離せないんだ」
夕食を並べた妻の莉子は、夫に相談があったが彼はスマホのゲームに夢中だった。彼女は食後も家事があったので、先に済ませた。
「友広、お風呂は沸いてるからね」
「……わかった」
こんな調子の夫はいつの間にか食事を済ませ、またスマホに向かっていた。
彼はお酒を飲むわけでもなく。ギャンブルもせず優しい人。細かい事は気にしない彼が好きになった莉子の方が結婚を望んだ経緯がある。
まだ子供がいない夫婦は、共働きで暮らしていた。
そんな毎日であったが、莉子は彼に相談したい事があった。
「ねえ。友広。今夜、少し時間作れないかな」
「いいよ。早く帰ってくるから」
この夜、彼の好物を用意して待っていた。彼は早く帰ったがやはりゲームをしていた。
「あのね。私、会社で」
「……うん。聞いているよ」
「上司がね。ちょっと色々あって……聞いてるの」
「聞いているよ」
しかし。ずっとスマホだった。外は雨の音。莉子は窓が開いていないか慌てた。
「危なかった。寝室の窓がね」
「……聞いてるよ」
彼女が窓を確認している間。彼はずっとスマホを見ていた。
悲しかった。

莉子は夫に何も言わずに夜のドアを開けた。静かなエレベーターを降りると、今帰って来たであろう他所のご主人とすれ違った。奥さんに頼まれたのか、身なりの良いスーツ姿の手にトイレットペーパーを持っているのが不自然で、羨ましかった。
マンションから出た莉子は傘を広げた。
足が自然と駅へ向かった。帰宅する人達と逆に進む夜の雨の路。朝は通勤で歩く道はどこか異世界のような気がした。
……実家に帰れば親が心配するし。
紅い傘の稜線を見ながら莉子は歩いた。すると駅の向こうの二十四時間スポーツジムの看板が目に入った。友広と一緒に入会したが、今月は一度も行っていなかった。
莉子はジムにやって来た。
「こんばんは。どうぞ」
「はい」
スタッフの中年女性の山田はウェアを貸してくれた。客不在で彼女は張り切っていたが、莉子はすぐに夫との話を溢した。
「私で良ければお話聞きますよ」
「いいんですか」
そんな笑顔の山田に莉子は誰にも言えなかった話をした。
「そうね……。人によって違うけど。私なら嫌だな、そうだ!」
山田は運動を説明するためのホワイトボードに莉子の悩みや不満を思いのまま書かせた。
「まだ書けるわよ。遠慮しないで書いていいわよ」
「ええと『靴下を脱ぎっぱなし』。『お風呂の後が泡だらけ』」
やがて山田はペンを取った。
「この悩み。解決策は『夫に改善してもらう』か、『諦める』かな?」
「『諦める』ですね」
「……でもモヤモヤするんでしょう?じゃさ。その分、好きな時間や、家事代をもらうってどうかしら」
「家事代にします」
こんな感じで笑顔で悩みを聞いてもらった莉子は気がつけば真夜中だった。
外の雨に山田はシャワーを浴びて休憩室で寝て行けと言ってくれた。
翌朝。莉子はコンビニで朝ごはんを買い、マンションに帰って来た。
「あ。起きてたの」
「どこに行っていたの」
テーブルは片付けられていた。夫は昨夜と同じ服装でリビングでうたた寝をしていたようだった。
「これ。朝ごはん」
「ああ」
「シャワー浴びたら?仕事だもの」
「はい」
こうして支度を済ませた夫婦は会話もなく駅へ向かった。莉子は今夜話があるといい、彼は黙ってうなづいて会社へ向かった。

「あれ?もう帰ってる」
「おかえり」
先に帰った彼はおかずを買い、ご飯を炊いてあると言った。
「お風呂も沸いてるよ」
「そうなんだ」
彼女は買って来た食材を冷蔵庫に入れた。
「友広はお風呂は?」
「莉子が先でいいよ」
「そう」
彼女は先に済ませ、早速夕食を囲みながら話をした。
「私ね。上司になんかモラハラされてるっていうか」
「どういうこと?」
最近の上司の言動や態度。これがモラハラなのか莉子はずっと悩んでいたと打ち明けた。
「会社の人にも言えないし」
「あのさ。それって十分、モラハラだから!」
嫌だと感じる時点で既にそうだ、と夫は珍しく怒り出した。
そして友広の会社のやり方で、莉子の会社の他上司に相談することにした。
「ああ。よかった」
「何が」
「てっきりさ」
彼は離婚の話をされるのかと思い、ずっと話を聞くのを避けていたと恥ずかしそうに頭をかいた。
「昨夜はどこに行ってたの」
「駅東のスポーツジム」
「あそこか」
夫は妻を背後から抱きしめた。
「本当にごめん。待つってこんなに辛いんだね」
「そうよ」
気が付けば夫はスマホのゲームをしていなかった。
「ゲームはしないの」
「家にいる時しないことにした」
「うん。じゃあさ、ケーキ買って来たから食べよ」
マンションの窓の外は星空。二人の夜は静かに過ぎていたのだった。


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