第1話
文字数 1,997文字
もう何年も私は意識がなく、ぼんやりした澱みのような世界の中にいる。一応、目は見えているし、耳も遠いが聞こえている。だが、頭で考える力が衰え、思ったことを口にすることがほぼできない。身体も、こう動きたいと思いはしても、その通りになることはない。
結果として、私は同じような状態の人たちとともに生活している。俗に言う老人ホームというやつだろう。私がここに入るための手続きをした覚えはないから、家族の誰かが手配したのだ。
こんな所にいることは嫌で仕方ない。粗暴な若者に身体を触られたりもするし、老人が寝食を共にしている光景は美しくない。それでも現状に抗う力は私になかった。
おまけに数日前からはやけに身体がだるく、息苦しい。普段は昼間であれば、車椅子に乗せられて娯楽室へ連れて行かれるのに、ここ数日はずっと自室のベッドで寝かされたきりだ。食事は職員が部屋に運んで来るが、宇宙に行くかのような格好で入ってくる。職員だけでなく、検温をしに来る看護師も同様だ。
どうやらこの施設で流行り病が出て、私もそれにやられているらしい。
私はとにかく眠かった。起きていられる程、体力がないのだ...。
目を閉じると、娘時代を思い出す。修子さんと一緒にいた日々を。
私の実家は裕福で、小学校までしか義務教育がなかった時代に、私を女学校まで通わせた。それも開校したばかりであったカトリック系の女子校に、である。
その学校で私と修子さんは出会った。
修子さんは優秀だった。勉学は学年でいつも一番で、特に英語が得意で発音が美しかったと記憶している。音楽の素養もあり、ピアノが上手で、よくコーラスの伴奏を買って出ていた。先生からの人望も厚かったから、級長にいつも選ばれていた。にも関わらず、温厚で気さくなため、友人は多く人気者だった。
引っ込み思案だった私は、そんな修子さんを遠巻きに眺めていた。
嗚呼、私も修子さんと仲良くなりたい。
修子さんとの憧れ故、私は彼女と親しく話している夢を、何度も見た。
どうしたらお近づきになれるのだろう。
考えた末、私は勉学を頑張ってみることにした。成績が近くなれば、修子さんが声をかけてくれるかもしれない。そう考えたのだ。
それから私は頑張った。得意科目もなく、中の中、といった位置にいた私がはい上がるのは容易ではなかった。今のように塾や補助教材があるわけではないから、ひたすら教科書を読んで自分で理解していくしか手がなかった。しかも女の子が勉強に励むのを奨励していたとは言い難い世の中だったから、お休みの日や夜遅くまで机に向かっていると、「女は学があっても無意味だよ」と、両親から嫌味が飛んできたりもした。
それでも私は諦めなかった。
その甲斐あって、私は修子さんに次ぐ学年二位にまで上りつめた。
試験の結果が貼り出された掲示板を見上げて、私は心底喜んだ。これで少し、修子さんに近づけた、と。
目立たない存在だった私が突然二位に踊り出たことで、級友たちは怪訝そうな眼差しを私に向けているのを痛いほど感じた。意地の悪い子は私を見ながらヒソヒソと陰口を叩いてさえいた。
「幸子さん、すごく伸びたのね」
そよ風が吹いたかのような空気が私のうなじを撫でた。ふと右手を見ると、修子さんが微笑んでいた。
「とても頑張ってらしたものね」
私は急に修子さんから話しかけられたことが嬉しくて、頬が蒸気していたと思う。
以降、修子さんと私の距離は縮まり、ほぼ毎日のように言葉を交わすまでになった。勉強のこと、家族のこと、趣味のこと。そんな他愛がない話題だった。
卒業が迫ったある日、修子さんは真顔で私に訊いてきた。
「幸子さんは師範学校を受けなくて?」
あれからずっと、私は学年二位の成績を維持していたから、そう思われても当然だったろう。でも、私は進路について特に決めてはおらず、返事に屈した。
「私はね、器量が悪いから、修道院に入ったらどうかって父から言われてるの」
目鼻立ちが大きな修子さんは現代なら美人だろう。だが当時の美の基準からは外れていたのかもしれない。
私もご一緒したい。
すごくそう思った。だが、私は希望を口にできるほど成熟していなかった。
その当時の多くの女学生がそうであったように、私は卒業とともに嫁に行くことになった。縁談が整ってから私に伝えられたため、反対なんてできなかった。
修子さんと最後に会ったのは卒業式の日だ。女学校の系列である修道院でシスターになる、と聞いた。
それから数十年。私は一日たりとて修子さんを忘れはしなかった。
修子さんの存在があったから、戦争前後の混乱期も、子育てや義両親の介護も、乗り越えられた。
いつかもう一度会いたい。それだけが私の心の支えだった。
・・・真っ暗だった視界に光が射し込んだ。
その先に誰かがいる。黒い法衣と白い頭巾が目に入った。
「修子さん?」
私は咄嗟に叫んだ。
頭巾に包まれた頭がゆっくりと揺れて振り返ろうと...。
結果として、私は同じような状態の人たちとともに生活している。俗に言う老人ホームというやつだろう。私がここに入るための手続きをした覚えはないから、家族の誰かが手配したのだ。
こんな所にいることは嫌で仕方ない。粗暴な若者に身体を触られたりもするし、老人が寝食を共にしている光景は美しくない。それでも現状に抗う力は私になかった。
おまけに数日前からはやけに身体がだるく、息苦しい。普段は昼間であれば、車椅子に乗せられて娯楽室へ連れて行かれるのに、ここ数日はずっと自室のベッドで寝かされたきりだ。食事は職員が部屋に運んで来るが、宇宙に行くかのような格好で入ってくる。職員だけでなく、検温をしに来る看護師も同様だ。
どうやらこの施設で流行り病が出て、私もそれにやられているらしい。
私はとにかく眠かった。起きていられる程、体力がないのだ...。
目を閉じると、娘時代を思い出す。修子さんと一緒にいた日々を。
私の実家は裕福で、小学校までしか義務教育がなかった時代に、私を女学校まで通わせた。それも開校したばかりであったカトリック系の女子校に、である。
その学校で私と修子さんは出会った。
修子さんは優秀だった。勉学は学年でいつも一番で、特に英語が得意で発音が美しかったと記憶している。音楽の素養もあり、ピアノが上手で、よくコーラスの伴奏を買って出ていた。先生からの人望も厚かったから、級長にいつも選ばれていた。にも関わらず、温厚で気さくなため、友人は多く人気者だった。
引っ込み思案だった私は、そんな修子さんを遠巻きに眺めていた。
嗚呼、私も修子さんと仲良くなりたい。
修子さんとの憧れ故、私は彼女と親しく話している夢を、何度も見た。
どうしたらお近づきになれるのだろう。
考えた末、私は勉学を頑張ってみることにした。成績が近くなれば、修子さんが声をかけてくれるかもしれない。そう考えたのだ。
それから私は頑張った。得意科目もなく、中の中、といった位置にいた私がはい上がるのは容易ではなかった。今のように塾や補助教材があるわけではないから、ひたすら教科書を読んで自分で理解していくしか手がなかった。しかも女の子が勉強に励むのを奨励していたとは言い難い世の中だったから、お休みの日や夜遅くまで机に向かっていると、「女は学があっても無意味だよ」と、両親から嫌味が飛んできたりもした。
それでも私は諦めなかった。
その甲斐あって、私は修子さんに次ぐ学年二位にまで上りつめた。
試験の結果が貼り出された掲示板を見上げて、私は心底喜んだ。これで少し、修子さんに近づけた、と。
目立たない存在だった私が突然二位に踊り出たことで、級友たちは怪訝そうな眼差しを私に向けているのを痛いほど感じた。意地の悪い子は私を見ながらヒソヒソと陰口を叩いてさえいた。
「幸子さん、すごく伸びたのね」
そよ風が吹いたかのような空気が私のうなじを撫でた。ふと右手を見ると、修子さんが微笑んでいた。
「とても頑張ってらしたものね」
私は急に修子さんから話しかけられたことが嬉しくて、頬が蒸気していたと思う。
以降、修子さんと私の距離は縮まり、ほぼ毎日のように言葉を交わすまでになった。勉強のこと、家族のこと、趣味のこと。そんな他愛がない話題だった。
卒業が迫ったある日、修子さんは真顔で私に訊いてきた。
「幸子さんは師範学校を受けなくて?」
あれからずっと、私は学年二位の成績を維持していたから、そう思われても当然だったろう。でも、私は進路について特に決めてはおらず、返事に屈した。
「私はね、器量が悪いから、修道院に入ったらどうかって父から言われてるの」
目鼻立ちが大きな修子さんは現代なら美人だろう。だが当時の美の基準からは外れていたのかもしれない。
私もご一緒したい。
すごくそう思った。だが、私は希望を口にできるほど成熟していなかった。
その当時の多くの女学生がそうであったように、私は卒業とともに嫁に行くことになった。縁談が整ってから私に伝えられたため、反対なんてできなかった。
修子さんと最後に会ったのは卒業式の日だ。女学校の系列である修道院でシスターになる、と聞いた。
それから数十年。私は一日たりとて修子さんを忘れはしなかった。
修子さんの存在があったから、戦争前後の混乱期も、子育てや義両親の介護も、乗り越えられた。
いつかもう一度会いたい。それだけが私の心の支えだった。
・・・真っ暗だった視界に光が射し込んだ。
その先に誰かがいる。黒い法衣と白い頭巾が目に入った。
「修子さん?」
私は咄嗟に叫んだ。
頭巾に包まれた頭がゆっくりと揺れて振り返ろうと...。