ピトリピトリピトリ

文字数 1,669文字

ピトリ・
すぐそこにあるのに、重い扉がアタシの手を阻む。よく冷えて霜が張りそうな冷蔵ケース。足元から頭の位置までずらっと並ぶ酒、酒、酒。
財布がアタシの足を止める。逆さに振っても空っぽでアルミの硬貨すら落ちて来やしない。酒、酒、酒。すぐそこにあるのに。
ピトリ・・
冷えた缶ビール。
プルトップを引き上げる。
プシュッと小気味よい音。ごくわずか、小さな小さな泡が缶からおどり出る。
目に見えないほど小さな泡に触れてヒヤリとする手。
アルミ缶に閉じ込められていた香りが鼻をくすぐる。
良いビールは良いパンに似た香り。ふわんとしっとり。香ばしく食欲をそそる。
ごくり。喉を鳴らす。
私の手の中に缶はない。
ふるえる手の中にはなにもない。
ピトリ・・・
アタシはアタシがニクい。なんであの時、貯金を崩したりしたんだ。あんな男のために金を撒き散らして。戻ってこないことなんかハッキリしてたのに。
アタシはアタシがニクい。
なんであの時、見栄を張ってバカみたいなバッグなんか買ったんだ。あの女に対抗したって勝てやしないのに。
あんなカバンの中に入れるものなんか持ってないのに。
ピトリ・・・・
冷酒はガラスの酒器で呑む。
買うのは小ぶりなビンのほうがいい。
封を切ったら香りが生きているうちにすぐに呑みきる。
ガラスのぐい飲みにちろりと注ぐ。冷えているからまだ香りはたたない。
はやる気持ちをなだめながら、ぐい飲みを唇に付ける。
雪のようにひやりとして、白梅のようにやわらかに香る。
舌にのせれば身に染み入るように甘い。
アタシの口は乾いてニガイ。
ピトリ・・・・・
アタシはアタシがニクい。
サビシイとかツライとか、たったそんなことで酒を呑んだアタシがニクい。
酒が次の酒を呼ぶなんてとっくに知ってた。子供の頃から思い知ってた。
アタシはアタシがニクい。
酔うとアタシを殴ったアイツほど我を忘れないアタシがニクい。
酒のためなら人さえ殺しかねないアイツほどには酔いに飢えないアタシがニクい。
ピトリ・・・・・・
目の前には酒が、飲み尽くせないほど並んだ酒が、アタシを呼んでいる。
乾燥しきった口の中、唾液は出なくて、アタシはごくりと喉を鳴らすこともできない。
舌が上顎に張り付いて痛む。
左手が震える、すぐそこに、手を伸ばせばすぐそこに。
そっと店内を見回す。夜明け近くのコンビニに客はいない。店員もバックヤードに引っ込んでいる。
左手が伸びていく。震えながら、ゆっくりと。
重い扉。きっとアタシの弱った体では、弱りきった腕では動かすことなんてできないだろう。
左手が取っ手を掴む。引く。冷気が漏れ出す。
ごくり。
きっとこれは夢だ。だって乾ききったはずの喉が鳴った。
夢だ。
だから、大丈夫。缶を1つ取って家に帰ろう。大丈夫だから。
右手を伸ばす。震える、触れる。触れた?
感触もわからないほど指先が一瞬で冷えた。
全身が震える。
缶を握り……。
ピトリ・・・・・・・
缶が消えた。
アタシの手元から。
横から伸びた若い男が。
アタシの手から酒を奪い去った。

「ありあとっしたー」

若い男は店を出ていく。アタシの酒を握って。
待てよ。
置いていけ。
それはアタシのものだ。
震えが止まる。
駆けだす。足が勝手に地面を蹴る。
左手を伸ばす。
男の腕を掴む。
右手を伸ばす。
缶を毟り取る。
アタシの酒だ!
アタシの酒だ!
プルトップを引き上げる。
プシュッと小気味良い音。
食らいつく。喉に流し込……

「なにすんだ、てめえ!」

男に横っ面を張られて缶が吹き飛ぶ。酒はすべて地面が吸い込んだ。
両手を地面につく。口を付ける。少しでも酒を、ほんの一滴でも酒を!
ピトリ
口から血がしたたり落ちる。
ピトリ
酒に血が落ちる。
ピトリ
鼻からも血が滴る。
ピトリ
酒が赤く染まる。
ピトリ
酒が……ニオワない?
ピトリ
吹き飛んだ缶に目をやる。
ピトリ
酒じゃない。エナジードリンクだ。

「酒をちょうだい! ちょうだいよお!」

若い男に掴みかかる。男はアタシを突き飛ばして駆け去る。

「一滴でもいいの! 酒をちょうだい!」

乾ききった舌が紡ぎ出すのはかすれて軋んだ不快な音。
一滴、たった一滴、酒が落ちる音が聞きたい。
ピトリ・・・・・・・・
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