第1話

文字数 1,919文字

 通学路の雑居ビルには謎の人が住んでいる。
 話したことはないけど、やせて、背の高い男の人。女子高生のみちかは下校するときにいつも男が金属の階段をカンカンと音を立てながら上っていくのがずっと気になっていた。ある秋の夕暮れ時、男は階段を上がるときに封筒を落とした。
「あの、落としましたよ。」
思わず声をかけた。
「すみません。ありがとうございます。」
「いえ、通りがかっただけなので。」
「もしよかったら、コーヒーでもいかがですか。お礼といってはなんですけど。」
「じゃあ..
この日、閉ざされたドアの向こうへみちかは足を踏み入れた。
 招かれたドアの向こうは古い事務室のようだった。応接セットと事務机、それと小さなキッチンで構成された部屋。促されるまま手近にあったピカピカのソファーに座ると見た目よりずっとふかふかしていた。
「まずかったらすみません。」
おずおずと運ばれたコーヒーは水っぽくて、思ったより飲むことができた。
「高校生で合ってますか。」
「はい、ちょうど帰り道で。」
男は鷹野と名乗り、個人で探偵事務所をやっているようだった。もじゃもじゃの茶髪の下には鋭い切れ長の目が隠れている。まさしく猛禽類のようだった。怖そうな見た目とは裏腹に話は弾み、コーヒーを飲んでいると窓の外には街灯が灯っていた。
「長居してしまってすみません。そろそろ帰りますね。コーヒー、ごちそうさまでした。」
「いえ、こちらこそ何のお構いもできず」
重たいドアを開き、あの鉄階段を降りる。
階段を降り切って振り返ると、鷹野は黄ばんだブラインドの隙間から小さく手を振ってくれていた。
 それからというものの、みちかは事務所に通うようになっていた。
「通り沿いのブラインドって、なんであんなに黄色いんですか?」
「ヤ二って分かる?煙草のあぶらが染みついてさ、黄色くなるんだよね。」
「うわ、汚い。体に悪いし、タバコやめましようよ。」
「やめないね、頭がよく回るんだ。」
いつからか、2人はこんな軽口を交わすようになっていた。軽薄な話し方のわりに、自分と距離を取ってくれる鷹野のことをみちかは慕わしく思っていた。
「みちかさん、最近うちによく来るな?」
「いやあ、ウチもいろいろありまして...」
「まあどの家もいろいろあるわな。この通りこの事務所はいつも誰もいないし、いたいだけいればいいさ。」
そう言うと奥から鷹野は将棋盤を持ってきた。将棋が好きらしい。だがやってみると全然弱かった。それでも骨ばった大きな手で駒を操り、真剣にうんうん悩んでいる顔を見ているとみちかは何だか心が満たされた。
 また別の日のこと、事務所を訪れるとボタンが取れたからといってシャツが何枚も山積みになっていた。
「ボタンが取れたぐらいでシャツ捨てるとかバカじゃないですか?」
こんなの小学生でもできる、大人のくせにしょうがないやつだな。そんなことを思いながらみちかは針と糸でささっと縫いつけた。
「ほら、まだ使えるんだから。簡単に捨てちゃダメですよ。」
「器用だな。みちかさんは。」
鷹野は感心しているようだった。
「いいお嫁さんになるな。きっと。」
「は?」
「いや、結婚は早いか。高校生だもんな。」
乾いた笑いと気まずい沈黙。顔が熱い。みちかは次に何と言えばいいのかまるで分からなかった。
「みちかさん、俺はやめときなよ。」
「突然何言うんですか!」
思わず立ち上がったはずみで近くにあった植本鉢がゴトリと音を立てる。
観葉植物の大きな葉からほこりが落ち、明かりに乱反射して部屋がきらきらと輝いた。
最悪だ。なんてタイミングでこの男はそんなことを口走るのだろう。
「ごめんな、突然こんなこと言って。」
「じゃあなんで
「君が俺に抱いている感情は一過性の病気みたいなもんだ。環境が変われば違う男とよろしくやっていけるさ。」
「そんなんじゃない、」
悲しさと悔しさで唇が震えた。
「私の気持ちがまるで一瞬みたいにいわないで。」
心臓を素手で掴まれたような心地だった。急に目の前の景色が色あせて、にじんでいく。
「もういいよ、さよなら。」
絶対に涙は見せまいと、みちかは奥歯を食いしばってドアノブを回した。
 この日からしはらく経ったある時、事務所にはガラの悪い男が大挙して押し寄せてきた。
「あの女子高生はどうした?」
「もう来ない。この事務所にも飽きちまったんだろうよ。」
「あの女はな、先代の忘れ形見だ。組の再興に必要だと言ったはずだが?」
「あの子がいないと何もできねえのか、みっともねえ連中だな。」
かあっと血が上ったらしく、大勢のうち一人が鷹野に手をかけた。
「傷つけても、嫌われても、大人は子どもを守らなきゃいけないんたよ。」ボソリと言うと鷹野はもみ合う相手に向かって引き金を引いた。
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