04

文字数 3,745文字

 あの頃、〈黄金の隼〉号と船長ゼルス(カルフ・ゼルス)の名を知らない船乗りなどはいなかった。
 ゼルスの一派は海賊と呼ばれてこそいたが、沿岸の街町を襲うようなことはなかった。その代わり、獲物を積み込んだほかの海賊船を襲う。
 もっとも、それで得た荷を返すような義賊ではなかったから、普通の人々から直接恨みを買うことはなかったところで、やはり咎人は咎人、立派に海賊だ。
 沿岸警備隊はゼルスの船を見かければ、ほかの海賊と同じように追った。だが〈黄金の隼〉号はどんな船よりも速く、決して捕まることがなかった。
 〈黄金の隼〉号と船長ゼルスは、生ける伝説のような存在だった。
 彼らが大海に姿を見せたのはいったいいつだったか。明確な記録はない。ゼルス自身、はっきりとした日付などは覚えていなかっただろう。
 だが「少年」はよく覚えていた。
 誰もが怖れたあの呪われし洞窟に臆することなくひとり乗り込んできたゼルスが、若い瞳を野心に燃やしてお前が欲しいと言った日のこと。
 あれからどれだけの時間が流れただろう。
 様々な無謀に挑んできた若者は、やがて年を取り、いつまでも船に乗っていられなくなった。
 いや、鍛え上げてきた身体は容易に老いたりはしなかったけれど、その代わり、彼を陸に繋ぎとめる者ができた。
 彼は〈コルファセットの大渦〉に挑む大冒険を最後の航海と決め、最高の仲間たちを集めて、誰もたどり着いたことのない渦の中心を目指した。
 しかし、その冒険は失敗に終わった。
 大渦の片鱗に触れただけで〈黄金の隼〉号は大破し、乗組員の多くは海に投げ出され、渦に巻き込まれて消えていった。
 ゼルスと数人の船員が生還したのは、奇跡のようなものだった。
 船長ゼルスは、そこでただのゼルスとなり、海を離れた。それまでに稼いだ宝は惜しげもなく残った仲間たちに分け与え、ほとんど無一文で内陸へと去って行った。
 少年はただひとり、残された。
 酷い状態にあった〈黄金の隼〉号を直すだけの金はあったが、操る者のない船を直してどうするのか。
 船を直すからまた一緒に海に出ようと、少年はゼルスにそう提案したけれど、ゼルスは最後まで肯んじないままだった。それどころか、次の船長が見つかったら気兼ねなく旅に出るといいと、少年を残酷に解放した。
 ゼルスは陸の者となり、愛を誓った女と時間を過ごして、二度とその港町に姿を見せることがなかった。
 判っていた。ゼルスは海を捨てることに決めたのだと。
 海に近くあれば、どうしてもまた航海に出たくなる。それを避けるために海の見えない町に居を定め、波の音も潮風も届かないところに引きこもったのだと。
 でも、もしかしたらとも思っていた。
 ゼルスは海に生きた男だ。陸の愛では彼を繋ぎとめ続けることができず、いつの日かまた少年のところにやってくるのではないかと。
 しかしそれは、儚い希望だった。
 五年、十年。
 二十年、三十年。
 それから――。
 少年はいつからか、年を数えるのをやめてしまった。
 その間には〈黄金の隼〉号を求めてきた者もいたけれど、少年の眼鏡には適わなかった。彼らは〈黄金の隼〉号を所有するという名誉を求めただけで、ゼルスのような冒険心も船への愛情も持っていなかった。
 いつしか、そんな者もやってこなくなった。生ける伝説だった船長と船は、もうすっかり本当の伝説、それも忘れられた物語になってしまった。
 ゼルスはもうこの世にいないだろう。人間は百年も経たずに死んでしまう。もし仮に生きていたとしても、寝台から起き上がることもままならないような衰弱した状態であるに違いない。
 それでも、少年は待った。
 ゼルスがある日ひょっこり現れて、もう一度〈黄金の隼〉号を出してくれと少年に頼むことを夢見て。

 若者は、じっと少年を見つめた。
「……〈黄金の隼〉号は」
 彼はゆっくりと言った。
「爺ちゃんの船だったって、聞いてる」
「そう」
 少年はただ、相槌を打った。
「俺は長いこと、爺ちゃんの法螺だと思ってた。あの人は、俺が子供の頃から突拍子もない冒険譚を聞かせてくれたけど、じゃあ海に行こうとか、船を見せてとか言うと、いつも笑ってかわした。だから俺は、全部作り話だと」
「本当のことだったと気づいたのは、どうして?」
「婆ちゃんの日記が見つかったんだ」
 彼は話した。
「婆ちゃんは、爺ちゃんより先に死んじゃってた。俺はあんまり記憶にないくらいだ。何となく、爺ちゃんの冒険を寂しそうに聞いてた印象だけは残ってる」
 たぶん、と彼は呟いた。
「爺ちゃんを海から引き離しちゃったことを悔やんでたのかもしれない。日記の端々に、そんな感じがあった」
 ゼルスは海よりも自分を選んでくれたと、彼女も初めの内は喜ばしく誇らしかった。だが夫が時折、どこか遠くを――見えない海を見ていることに気づくと、いたたまれない気持ちになった。
 かつての船長は、ただの一度も、彼女に愚痴をこぼさなかった。ただの一度も、潮風が懐かしいとか、船旅が恋しいだとか、口にしなかった。それとなく彼女が尋ねても、いつも笑って否定した。
 それを素直に信じていた時期もあった。だが時間が経てば経つほど、無言の裏に隠された海への未練を感じ取らずにはいられなかった。
 日記にはそんなことが書かれていた。
「……そう」
 少年はまた、相槌だけを打った。
 しばし、沈黙が流れた。
「――ゼルスは?」
「ラ・ムール河に旅立ったよ。ずいぶん長生きしたけど……ちょうど、ひと月くらい前かな」
「……そう」
 さああ、と海風が吹いた。少年の金髪が乱れ、その表情は彼には見えなかった。
「俺の故郷は、昔はすごく小さな田舎町だったんだって。でも爺ちゃんがいろんなことをやって、発展させたって聞いた。あ、やましいことなんかじゃなくて、真っ当な手段だったみたいだけど」
 いまにして思えば、海賊時代に培った交渉術であるとか人脈であるとかを利用したのかもしれないと感じられたが、少なくとも犯罪行為はしていなかったはずだと、彼はそんなふうに祖父の業績を伝えた。
 少年は聞いているようだったが、相槌を打つこともしなくなっていた。
 彼が知る限りのことを話し終えると、再び沈黙が降りた。
「なあ」
 少しの間ののち、静寂を破って彼は声を出した。
「あんたは……いったい?」
 ついに彼はそれを問うた。
「僕は」
 髪をかき上げて、少年はゆっくりと言った。
「ヴィムと呼ばれている。〈黄金の隼〉号の魂だよ」
「魂……」
そう(アレイス)。僕は僕でありながら、〈黄金の隼〉号そのものでもある」
 金髪の少年――ヴィムはそっと自らの胸に手を当てた。
「精霊、とも言われたかな。長く使われた船には心が宿ると言うけど、僕の場合はそうじゃなくて、〈黄金の隼〉号が作られたときから船と一緒にいた。船大工が魔力を持っていたみたいでね、できたばかりの頃は呪いの船なんて言われて、洞窟に封印されたりしたもんだ」
 さらりとヴィムは語った。
 それは突拍子もない話に聞こえた。
 そう、彼の祖父が孫に語り続けた、不思議な冒険物語と同じように。
「ねえ、ゼルスの血を引く君」
 にっこりと、ヴィムは笑みを取り戻した。
「君の名をまだ聞いていなかったね」
「俺は」
 すっと彼は、手を差し出した。
「ゼルセン」
「……ゼルセン」
「爺ちゃんの名前を分けてもらった」
「そうみたいだね」
 ヴィムは差し出された手を取った。ゼルセンははっとした。
(触れる)
(どうやら幽霊じゃなかったようだけど)
(魂だとか、精霊だとかでも、触れるんだ)
 ゼルセンは思わずそんなことを考えた。
(俺の手よりは冷たいけど、普通の「人間」にだってそんな奴はいるし)
(少なくとも死人みたいに冷たいってことはない)
 祖父ゼルスを知る「少年」。明らかに、人間ではない存在。
 だが、生身だ。
(そう言えば)
(最初に見たときから、顔色はずいぶんよくなったような)
 よかった、と何だか彼はほっとした。
「まあ、俺は何だかんだと爺ちゃんっ子だったからさ」
 手を放して、ゼルセンは頭をかいた。
「一度、見てみたかったんだ。〈黄金の隼〉号はそのものは、もうないと思ってたけど……」
「あるよ」
 ヴィムは海を振り向いた。
「ゼルスにもらった金も尽きちゃって、手入れもままならないけど。向こうの洞窟の奥に、ずっと隠してある」
「それじゃ」
「そうさ。ほかでもない本物の〈黄金の隼〉号をお目にかけよう」
 ヴィムは芝居がかって、宮廷式の礼をした。
「でも、ゼルセン?」
「え?」
「見るだけ? それは無理な相談だと思うよ」
 だって、と少年は笑った。
「君はあのゼルスの孫だもの。見たら絶対乗りたくなって、乗ったら絶対、海に出たくなる!」
 その予定はないんだけど、とゼルセンは苦笑いを浮かべたが、ヴィムは聞こえないように陽気に笑いながら彼を先導した。

 やがて記され出すことになる船長ゼルセンと〈黄金の隼〉号の航海日誌の、最初の一頁はこうしてはじまった。
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