死の味は、薄ら甘い錠剤の味

文字数 2,000文字

 なんでこんなことになったんだろう。
 ぬるい水をシャツに浸み込ませながら、私はぼんやり虚空を見つめて考える。髪から滴る水が、そっと頬を落ちていく。
 なんでこんなことになったんだろう。
 喉の奥で呟いて、左手の薬指に収まるちゃちな指輪を撫で擦る。
 ――なんでこんなことに。
 傍らに寝そべる最愛の人は――サチは、濡れそぼって髪を乱し、息することなく眠っている。自分だけが息をしているのが嫌で、私は、ふい、と他所を向く。ついでとばかりに生臭い水を吐き捨てる。
 ――なんで。
 止まらない疑問符。それを振り払うべく、と私はいつも考え事をする時と同じようにポケットをまさぐって、ボックスタイプの煙草を取り出す。湿ってかじかんだ手で一本取り出しながら、私の目は遠くを見ている。どうにも焦点の定まらない目で湖から立ち昇る靄を眺め、フィルターを唇に挟んだところで、ああ、と息が漏れた。
 ――どうして。
 すっかり芯まで濡れていて火の点きそうにない煙草を咥えながら、私は再びサチを見る。どんな時でも身だしなみは大事よ、と口を酸っぱくしていた彼女が、こんなにも髪を乱している。それがどうしても違和感を呼んでいて、気が付けば私は、彼女の顔にかかる髪を整えてやっていた。
 束になった髪を持ち上げ、こちらを向いて目を閉じている彼女の耳にかけてやると、なんだかサチが笑ったようだった。そのままそっと伝っていって、傷一つない白磁の頬に、冷たいその頬に指を這わせる。
 冷たくて、でもまだ柔らかい、死んだ肉。
 私は溜め息を漏らす事もできずに、顔をあげて湖を見た。サチだけを殺して私を殺してくれなかった湖を見た。いくら見つめたって、湖は何も答えない。ただただ静かに、朝陽を空へと返している。
 私たちは、心中を企てた。だから、ここで濡れている。
 二人で、新婚旅行の行く先を決めるように死に方を選んで、ようやく決まった方法で二人して地獄に行くはずだった。
 なぜ、私たちが心中を企てたか。もう、そうする他無かったからだ。
 別に、それほど運の悪い人生だったわけではない。
 濡れたフィルターが舌先に苦みを運んでくるのを感じながら、私はぼんやり考える。
 ただ、そう。タイミングだけが死ぬほど悪かった。
 そのせいで、悲運が重なった。

 私が彼と、同期で入社してしまった。
 私が彼に、搾取相手だ、と認定された。
 彼に、スケープゴートにされてしまった。
 あの時もし、声を大にして反論していれば。
 クビになっても、再就職はできたのだろうか。

 サチに、一緒に死のうと泣き笑いをさせる事も。
 ――ここに一人取り残される事も、無かったのだろうか。

 私はゆるゆる首を振って、考えるのをやめた。
 だって、考えたところで、事実は覆らない。

 私が、凡庸で、平凡で、凡俗で、面白味もない人間であるという事は――事実。
 隙を見せたせいで、横領の、データ改ざんの、その他諸々の罪を同僚に押し付けられて会社をクビになった事は――事実。
 同僚に心無い噂を流されて、私とサチはまともに生活すら送れなくなったという事は――事実。
 二人で死のうとした事は――事実。
 そして、私だけ、助かってしまったという事は――事実。
 変えようのない、事実。
 悪夢の方がマシなこれは、揺らぐことのない現実だ。
 呼吸に膨らむことのないサチの背中が、これは夢ではないと、どうしようもなく叫んでいる。

 なんで私は死ねなかったのだろうか。
 二人三脚をするように、彼女の足と私の足とを赤い紐で結んだはずだった。
 確かに、息苦しかったはずだった。肺に水が入ったはずだった。意識があやふやになって、視界が黒に染まったはずだった。
 なのに、私は生き残ってしまった。
 彼女は死んだのに。
 私は煙草を噛んだ。すると苦い物が口に流れ込んでくる。苦みに眉を寄せながら、私は、さてどうやって彼女を追おうか、と考えていた。
 例えばここに残していって、刃物か何かを調達してきたら、黄色いテープとブルーシートが場を汚していたら、私はどうすればいいのだろうか。だって、彼女が連れ去られたら、心中にはならない気がするのだ。
 そんな風に泣きそうになっていたら、湖に投げ出したままだった足に、そっと何かが触ったのを感じた。見ればそこにはバッグがあった。私がサチに初めてプレゼントしたバックだ。サチの、バッグだ。
 夜明け前に家を出るときに、女は色々必要なの、と笑っていた彼女を思い出す。そっと拾って中を覗けば、そこには丁寧に袋に入れられたメモと、沢山の錠剤があった。
 メモには、死ねなかった時用に、とサチの字で書いてある。
 それを見て私は、ああ、こいつと添い遂げたかったなあ、と思いながら、錠剤全てを噛み砕き、飲み下し――サチの横で、目を閉じた。
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