第1話

文字数 2,274文字

 我が家には、先祖が、加賀藩の藩士で松本八郎左衛門という人物であったという言い伝えがある。
 どうして「言い伝え」かというと、証拠物件が、太平洋戦争終結間近の八王子大空襲で全て灰燼に帰し、何ひとつ残っていないからである。戦時中のこととて、大事なものを全て防空壕に移していたらしいのだが、そこに焼夷弾の直撃を喰らったとのことである。
 先祖といってもそんなに昔の人ではなく、幕末から明治時代に生きていた、割と最近の人である。私から見たら、遡ること四親等、曾祖母の父親だ。
 で、何の確証もないまま伝聞として出自らしき情報がそこはかとなく親戚内に漂っていたのだ。因みに父の末の弟は、その人の名を取って「八郎」と名付けられた(と言われている)。祖母も祖父も疾うに物故したので真相は不明。
 この八郎叔父は、親戚とか自分のルーツとか墓とかがまあまあ好きな方だ。我が家は特段、歌舞伎や生け花の宗家でもなく、ただの一般庶民の家系なのだが。
 でもまあ、自分の名前がご先祖に由来するとあっては、出自にそれなりの愛着を持って当然だろう。その割にはこの話に何の裏付けもないから、いまいち自慢しにくくて(?)叔父は物足りなく思っているかもしれない。そう思って、去年だったか、叔父のために一肌脱ごうと(?)、ちょっと調べてみたことがある。
 父が亡くなった時、役所の手続きで、通称「原戸籍」という原簿まで取らされたため、うちの先祖に松本八郎なる人物が実在していたことは分かっている。しかし、その人が本当に八郎左衛門なのか、はたまた職業は何であったか、そこまでは戸籍簿には書かれていない。
 私の祖母は
「私のお爺さんは元加賀藩の武士で明治維新の時に江戸(というか東京)に出てきて、浅草で炭屋をやっていた」
と言っていた。
 何でも加賀藩というのは幕末の頃、雄藩にしては明治維新の改革の波に乗り遅れたとの評価が定説の藩なのだそうだ。
 後に「薩長土肥」などと称されて、政府の中枢を担ったような藩の下級武士たちは、当時、たとえ自分が倒幕運動など無関係な立場だったとしても、「もしかして、そのうち世の中ひっくり返るかもなあ」くらいは思っていたらしいが、加賀藩のご城下の下級武士たちは割合のんびり構えて居たようだ。
 佐幕なのか、倒幕なのか、よくわからない藩の上層部の日和見が災いしたのか、情報も錯綜し、人々はあまり行く末の予測がつかなかったのかも知れない。
 そして明治のご一新で、武士の身分を剥奪されてもっともアタフタしたのが、加賀藩の下級武士だったとか。
 アタフタした武士たちが商売変えした先のツートップが、古道具屋と炭屋だったそうなので、この話は信憑性が高い。
 だが、これはあくまで単なる「故 祖母談」である。戦争を挟んで世の中も家の中も上を下への大騒ぎ。ひっくり返ってしまったので、なに一つ確実な資料はないのである。
 だから、何か公文書で、証拠になる文献でも探せたらいいな、と思った。
 今時はパソコンをちゃちゃっと弄るだけで何でも調べられるので、大変助かる。
 長年、加賀前田家が収集、所蔵していた典籍・書跡類を、戦後、金沢市が寄贈を受け、市立図書館の蔵書とする一方で、研究者に委ね、分類、解説を加えた「加越能文庫解説目録」なる大著がある。そのなかに「先祖由緒幷一類附帳」というのがあり、そのなかの「ま行」を辿っていくと……あった! 
「松本八郎(松本八郎左衛門、貞吉) 父 喜衛門喜助 扶禄 三人扶持 明治三年 二十七歳 檀那寺 光誓寺」
と記載がある。
 金沢の玉川図書館へ行けば、もっと詳しく原本に当たれるのかもしれないが、取り敢えずPDFファイルをダウンロードして、印刷して叔父に送ったら、案の定、喜んで貰えて私も嬉しかった。
 もっとも、こんなことで叔父孝行の真似事をしたなどと嘯いては傲慢に過ぎようが。
 近年、話題になった書籍に、磯田道史著「武士の家計簿」という、実際の資料に基づいて書かれたノンフィクションがある。あれこそ、幕末の加賀藩士の詳細な日常の様子だ。御算用方猪山家の当時の生活がありありと推察出来る。同書によれば、天保年間、猪山家当主猪山信之は知行七〇石、嫡子直之は切米四〇俵、という収入だったようである。
 二〇一〇年には、この本を原作に映画も制作された。映画だから、かなり盛っているのかもしれないが、御算用方猪山家の経済状況はこの映画を見ると大体想像できる。それを基準に考えると……うう~む。うちのご先祖様、ちょっと貧乏過ぎやしまいか。二十七歳の八郎左衛門貞吉は当主身分だったのか、嫡子扱いだったのか諮りかねるが、「三人扶持」⁉
これは「アルバイトを三人雇え」くらいの意味らしいが、これしか収入がないのだったらまったく生活出来ないと思うのだが?
 単純計算で、「武士の家計簿」の猪山直之の三分の一の給料である。父親の喜衛門喜助がまだ隠居してなくて、知行でもあったのだろうか。きっと身分は陪臣の陪臣の、そのまた陪臣くらいで、傾いた掘っ立て小屋に、家の裏は猫の額ほどの畑。細々とやっていたんだろうなあ。うちの家系って歴史的貧乏人なのね。そこだけは代々しっかり受け継いでいるような気がするので、すごく納得できるぞ。
 しかし、親戚内の言い伝えは本当だったことが証明された。もっともこれで叔父が内外に自慢し易くなったのかどうかについては甚だ疑問である。
 だって「先祖代々、貧乏でした」って言って、誰か感心してくれるものかしら?

 

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