乾杯と憂鬱

文字数 1,977文字

 ある晴れた木曜日。何かの記念日でもなければ、特別なニュースがあったわけでもない、一年に五十二回巡ってくる木曜日のうちのたった一つに過ぎない日常の一部。
 僕は昼休みの学校を抜けだし、自転車に跨がると、力一杯ペダルを漕いでその場所へと向かう。急な坂道を上り、ミカン畑の横を通り過ぎる。汗が顔をつたって道路に落ちる。
 なんだって僕はこんなに必死になって自転車を漕いでるんだ、と毎度のことながらに思う。でも不思議なことに晴れた木曜日にはこうして馬鹿みたいに自転車を漕いでいる。

 その広場に到着すると僕は自転車から降りて息を整え、申し訳程度に整えられた砂利道を歩いて進んで行く。小さな道の四方には様々な種類の植物たちが来る夏に向けてその緑を深めており、より高く、より多くの葉を身につけ、たくさんの太陽の光を集めようと躍起になっている。その逞しい生命力は人間なんかよりも遙かに溢れてるように見える。
 砂利道の終わりには腐敗しかけた木のテーブルと、色の禿げた二つのベンチがテーブルを挟むようにして置かれている。そのうちの一つに、ミカさんがいつものようにどこか遠い目をしながら座っていた。

「やあ」

 ミカさんは僕の姿に気づくと途端に笑顔を作り、ひらひらと手を振って僕を迎えてくれる。今日も彼女の前には缶ビールと、ちょっとしたおつまみのお菓子が並んでいる。まだ缶ビールは空けられていないようで、結露した水滴が木製のテーブルに後を残していた。

「今日も来たんだね。いいの? 学校は」

「いいんですよ。残ってても退屈なだけです」

 言いながら僕はミカさんの向かいの席に座り、鞄の中から弁当箱を取り出す。蓋を開けると中にはぎゅうぎゅうになったおかずが詰まっている。からあげ、焼き鳥、出汁巻きたまご、きゅうりの和え物。ミカさんは僕のお弁当の中身を見てにっこりと優しく笑う。それは何か分かっていて、あえて何も言わないような大人がよく使う笑みのように僕には見える。ミカさんは缶ビールを持ち蓋を開けると、カシュ!と、小気味よい音が広場に響いた。

「それじゃあ、今日もお疲れ様だね」

「おつかれさまです」
 
 ミカさんと交わすこの乾杯の挨拶は僕たちの間に流れる致命的な時間の差を曖昧に誤魔化してくれる。だから僕はこの乾杯の瞬間がとても好きだった。ミカさんは細く神経質そうな指先で冷えた缶ビールを掴み口元に持っていき小さくあおった。頬に垂れた髪の毛がさらりと揺れ、白い首筋が小さく動き、冷えたビールが体内へと押し流されていく。
 そんな些細な仕草に僕はいつも目を奪われてしまう。もし缶ビールを華麗に飲む黄金比があるとしたら、間違いなくこの角度だと僕は断言することができる。

「どう? おいしそうに飲めてるかな?」とミカさんは横目で僕の方を見ながらいたずらっぽく訊ねる。

「木曜日の昼間に外で飲むビールほどおいしいものはないですよ」

「言うじゃない。まだ飲んだことないくせにー」

 僕は作ってきたお弁当を薦めてミカさんと一緒につまみ始めた。彼女はおいしそうにからあげを頬張り、旨味を一つも逃すまいと噛みしめるように出汁巻きたまごをゆっくりと食べ、それらを最後にビールで流し込む。見ているこっちまで幸せになってくる食べっぷりだ。

「ねえ、一つ訊いてもいい?」ミカさんは親指と中指を器用に使って缶ビールを挟むようにして持ちながら、覗き込むように僕を見て言う。「どうして何も私のことについて訊かないの?」

「訊いたら何か教えてくれるんですか?」

「もちろん」ミカさんはからかうような笑みを浮かべて言う。「だって自分の身の上を少し語っておかないと、キミにとっていつまでも私は不審者のままだもんね。だからいいよ。なんでも訊いて」

 僕はからあげをゆっくり咀嚼し、時間をかけてミカさんに訊きたいことを考えてみる。
 どんな仕事をしてるのか。普段どういう生活を送っているのか。どうして木曜日のお昼だけこの場所にくるのか。そんなことはいくつでも、いくらでも浮かんでくる。
 しかしそれらの言葉は僕の口から出てくることはなく、頭の中で浮かんでは次々と塵になって消えていった。その事実は僕をとても混乱させた。だって僕はあれだけ彼女の事を知りたいと毎日思っていたのだ。僕は一体、今になって何を恐れているのだろう?

「じゃあ好きな食べ物を教えてくださいよ」と僕は言った。「今度お弁当にいれてきてあげますから」

 ミカさんとなんの憂いもなくお酒を酌み交わせたらどんなにいいだろうと僕は思った。もし僕がお酒を飲めたらこんなにも彼女の事について毎日頭を悩ませることなく、土足で彼女の心を踏み荒らすことができる大義名分ができるのに。

 ミカさんは視線を空中に彷徨わせて「好きな食べ物かぁ」と呟く。その言葉の端に失望の色が含まれてたことを、子供の僕は気づかなかった。
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