春がやって来た日に

文字数 1,989文字

 しとしと雨が降り止まず部屋に籠もっていたところ、一階でバタバタと大仰な騒ぎ。母と祖母が私の殺人計画でも進めているらしい。家族と顔を合わせるのは嫌だが、好奇心ばかりに久々に部屋を出て下りると、一匹の知らない猫が、黒い大きな正方形のアルミ格子に囚われていた。周りの猫たちが集まって来て、囚猫は怯えた様子。祖母が「この子、サクラちゃん」といつになく笑顔で言う。母は訝しげな表情。どうらや祖母の独断で連れて来られたらしい。
「この子捨て猫やって、妊娠してたから避妊手術受けさせて来たのよ。そしたら離れなくなってねぇ。地域の避妊した捨て猫は耳を桜みたいに切るんだって。それで、片耳が桜になったからサクラちゃん。可愛い名前やろ?」
 私は、祖母の文言があまりよく理解できなかった。中絶をしたということか、子猫を産んでから避妊したということか。どちらにしろ、祖母の話す言葉は普段から理解不能だ。日常であまり会話をしない要因だ。それでも満面の笑みで「サクラちゃん、サクラちゃん」と呼ぶものだから、まぁこれもいいのかな、と思ってみたりする。離婚して、借家ではあるが、れっきとしたこの小さな実家に帰ってきた母は、今はできるだけ面倒ごとを背負いたくない様子であからさまに歓迎していない。祖母の我が儘に付き合わされたのであろう、ボソボソと悪態をついている。
 私はゲージの前に行きゆっくりと目を瞑る。こちらからは動いてはダメだ。しばらくそうして座っていると、猫鳴りと共にケージ越しに手にすり寄ってきた。ごろごろグルグル。
 この子はきっと、捨て猫ではない。
 元飼い猫であった現捨て猫、もしくは現飼い猫であるのに間違えて我が家庭に誘拐されたのだろう。祖母に対しても熱いスライムみたくトロトロに溶けた振る舞い。乗り気でなく手を伸ばした母に対しても、その顔を朗らかにする程度には甘えている。
「この子は野良じゃない、悪魔の使いだ」と、急遽現れた大きな脅威に怯える周囲の猫は、あからさまに警戒心を剥き出しにしている。全くの静寂だった一家は突然、修理に出していた懐中時計みたく慌ただしく動き始めた。春先のとある日、右耳が桜のようにカットされた明らかに美しい三毛猫は、前もって約束されていたかのように我が家にやってきた。
 数日が経った。サクラはケージから出て、私の部屋に共に引き籠もっていた。梃子を用いてバリケードみたいに部屋の引き戸を閉め切っていて、他の猫が入って来ないので安心なのだろう。人間も入ってこないので、私も安心だ。サクラは寄り添って寝たり、ひっきりなしにグルーミングしたりするばかりで、ご飯も食べないしトイレもしない。それを心配してか、私にばかり懐くことに嫉妬してか、時たま祖母に連れ去られ、一階のケージに軟禁されている。そうされるとサクラは尚更食べないし、トイレもしない。随分と頭のいい子であるなと思った。しかし四六時中一緒にいる分、サクラの生命維持に関して心配になった私は、ある夜引き戸を猫幅に開けたまま寝ることにした。丑三つ時、腕の中からひっそりと抜け出したサクラは、器用な細長い手で猫幅を少しだけ余計に広げて出て行った。こちらもひっそりと抜け出して後をつけると、サクラは他の猫と同じ場所でフードを貪り食い、定位置のトイレで用を足していた。
――ほら、やっぱり捨て猫じゃない!――
 次の日は母も祖母も仕事が休み、つまり最悪の日だ。一日中部屋から出られない。
 夕方、玄関のチャイムが鳴って、「こんにちは~」と大きな声が一階でした。少しの話し声の後、祖母が勧めたようで、すぐに家中が慌ただしくなった。家に人が上がるなんて珍しい。更に珍しいことに、普段は一階の出来事には無関心なサクラが異常に来客に興味を示すので、不思議に思ってバリケードを解いてあげると意気揚々と走り出した。驚きながら一緒について下りる。すると一目散に白髪の優しそうなおばあさんにすり寄った。「あら珍しい~」と驚嘆する祖母をさておき、白髪のおばあさんは「サクラ元気だったの~よしよし、よかったよかった」と、ほとんど泣きながら抱いていた。「サクラって名前だったのですか?」そう聞くと、「そうなのよ~」と涙を隠さず答えた。それからしばらく、祖母と白髪おばあさんとのぎこちない会話の後、我が家族の不安とは逆に、そのおばあさんは「生きててよかったわ~無事でおってな~ずっと元気でおりなよ~」と言いながらそそくさと帰って行った。案外、家族ってそういうものなのかも知れない。
 白髪のおばあさんの正体について吟味しながら、その日は母が離婚して以来、私がニートになって以来、祖母の愛犬が死んで以来、三人揃って食べる久方ぶりの晩ご飯となった。小さな家の小さな居間に、大きな暖炉の大きな炎が燃え上がっているみたい、鍋を囲んで心まで温かくなった春の猫日和であった。
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