第1話

文字数 1,957文字

 カフェの扉には、休業中の紙が貼られている。
 私のせいだろうか、と、実音(みお)は足を止めた。紙袋を持つ手から力が抜ける。
 辞めると言ったとき、いつも嫌味ばかりの店長は無言で白髪の増えたこめかみを押さえ、「困るよぉ」と懇願の表情を浮かべた。高校を卒業して五年、朝八時から夕方五時まで週に五日ずっと働いたけれど、初めて見た顔だった。
「ずっと昇給無しで悪かったと思ってる。ほら、実音ちゃんはフルタイムのバイトだから、暇なときは、ぼーっとしてるだけで時給入って来るときもあったでしょう。でも、来月から時給アップするよ」
 実音は、実際にぼーっとしているときがあったか、考える。客がいないときは、トイレ掃除に始まり、壁のレンガの目地やフローリングの隙間まで丁寧に雑巾がけをさせられていたように思う。
 築五十年の古臭い店だけど、カフェという看板を出して違和感がないのは、見た目の清潔感が大きい。そして店長の存在感。百六十五センチの細身の体にモノトーンの服とエプロン、白髪の混じるベージュに染めたボブカットといい、今風とは言い難いけれど独特のセンスはある。カフェの雰囲気をそのまま人間にしたような人だ。
 五年前はなんとなく、店のクラシックな雰囲気や、独自のセンスを持つ店長が、自分を育ててくれる気がしていた。
 珈琲の淹れ方も教えてくれなかったけれど。
 何かといえば掃除掃除と、うるさかったけれど。
「お給料もだけど、転職したいんです」
「転職? なにするの」
「なにか。バイトじゃなくて一度社員になってみたいし、仕事らしい仕事を探します」
「そんなふわっとした気持ちで、正社員になんてなれるもんじゃないよ。履歴書五十通出して全滅とかするらしいよ。飲食サービスで始めた人は、回りまわって飲食サービスに帰って来るんだから。それなら慣れた店で経験を積めば、いずれ十年も経ったら店長にしてあげるし」
 話が長くなると実音は聞くのが面倒になってしまい、店長に有利な方向へと進むのが常だった。実音は初めて、店長の話の腰を折る。
「じゃ、今月末に辞めますね」
「そんなすぐ辞めなくても、次の職が決まるまで続ければいいでしょう」
 最初の雇い主という遠い怖い存在だったのに、辞めると決めたら、ただの若作りしたおばさんだと気が付いた。いや、年齢的には、おばあちゃんに近い。実音のおばあちゃんに比べると店長の方がうんと若く見えるけれど。
 アルバイトの最終日には、店を閉めたあとパートさん三人も来て、店内で送別会を開いてくれた。パートさんたちは家で作ってきた唐揚げや玉子焼き、サラダを持ち寄り、店長は店の名物でもあるナポリタンとピザトーストを、たっぷりと振舞ってくれた。
「店長、実音ちゃんが辞めると寂しくなるわねー」
「そうなのよ。娘みたいに可愛がってきたからね。でも、まだ若いこの子を古い店に引き止めるのも酷だし、社会に飛び出しておいでって、背中を押してあげたのよ」
 店長の話が事実と食い違うのはいつものことだから、みんな聞き流している。けれど、パートさんのひとりが、実音の耳元にささやいた。
「店長強がってるけど、近いうち、お店たたむかもよ」
「それはないですよ。売上だって結構あるし」
「近所にスタバとかないから繁盛してるよね。私たち店長に、フルタイムで来れる?って聞かれたのよ。でもみんな、子どもが小さかったり介護があったりで無理じゃない。聡子さんなんて、実音ちゃんが辞めるの聞いて、自分も辞めたいって言い出す始末。店長はもう七十前だし独身だし、実音ちゃんがフルでお店にいたから頑張れたんだと思うわ」
 ここはもともと店長のお父さんのお店だった。幼いころ両親が離婚し、店長は母親を看取ったあと四十年ぶりに父親と再会して、休業中の喫茶店を譲られたのだと聞いたことがある。
 年配のパートさんによると、最初は埃と煙草の脂が覆う汚い店だったのを、店長が自力で磨き上げたそうだ。
「なんか掃除にうるさい人だった理由がわかりました」
「ま、苦労人だからって、他人に厳しくしていいってわけでもないんだけどさ。万が一、就活がうまくいかなかったら、いつでも戻っておいでよ」
 実音は、曖昧に笑った。五年間フルタイム、都会から遠い町とはいえ最安の時給八百五十円でホールを勤めてきたのだ。
 今日で終わり、という解放感でいっぱいだった。
「で、休業中、か」
 紙袋の中には白い鉢のパキラが覗く。
 あれから二か月。なんとか就職先が決まったので、実音は送別会のお礼も兼ねて、店長に報告するつもりで来た。よかったら私の代わりにカウンターにでも置いてください、と買った観葉植物をどうするべきか。
「お互い、新しい場所でスタートしますか」
 部屋に置くなら、もう少し小さい鉢を選べばよかったな、と実音は元来た道を歩き始めた。
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