鏡像

文字数 1,292文字

 私はいつもの書斎の中で、今夜も彼女と相対していた。相対す、とは言ったけれど、実際は両者ともにリラックスしていて、私たちはそれぞれ、快適な一人掛けソファに深々と腰をかけていた。机上のアンティーク・ランプが度詰(どぎつ)い橙色の光を放ち、この書斎を隅まで柔らかく照らしている。天井近くまである大きな本棚、乱雑に並べられた本、食器棚の中のティーカップと小さなぬいぐるみ、そこらに鎮座する埃滓(ほこりかす)。ここには、私に必要なものは何でもあった。そしてそんな安らぎの間に、ある日彼女は突如として現れた。私たちは夜な夜な対話した。外見的な確執が一切ない中で、彼女との精神的な確執だけが一夜ごとに積もっていく。今夜も彼女は、薄く笑みを湛えた口元を緩めた。
「ねえ、あなたって物を書くのね?私、さっそく読ませていただいたのだけれども、どれもとっても面白いわね。」
 私は不快の感情を隠さずに、態度に出しながら応答した。
「私の小説を勝手に読んでいいなんて、そんな許可を出した覚えは無いんだが。」
 彼女は妖艶にくすっと笑った。彼女のこういう繕った態度が、いちいち私の神経を逆撫でする。
「あら、意外にお固いのね。褒めてあげたんだから、喜んだっていいものじゃない。」
 彼女の言葉には、私に対する軽蔑と侮辱が入っているように感じた。そう感じたのを、私の心の問題で済ましてしまっていいのだろうか?
 私は口を噤んで、鼻から空気を吐き出し、彼女から視線を逸らしてマッチに火をつけた。そして、精巧な蝋細工のキャンドルに火を灯す。まだ火をつけて間もないけれど、蝋製の女神の美しい長髪が天頂から溶けてゆく。私はそれを見て、なんだか綺麗だと感じた。
「ねえ、そんな贅沢品、あなたには勿体ないんじゃなくって?」
 キャンドルの熱をぼうっと感じていると、彼女が水を差してきた。
「だってあなた、将来のこともろくに考えちゃいないじゃない。そんなんで一体どうするのよ?」
 彼女は心配そうな顔で私を見ていた。
「別にいいだろう。」
「良くないわよ。だって、あなたろくに働いてもいないくせに……。」
 彼女は私を侮辱するようにそう言った。でも、彼女の顔がどんなだったかはわからない。私はずっと、壊れていく女神に見入っていた。
「そういや、今月も家計は赤字だったんだよ。どうしようもないね。」
「だから私、言ったじゃないの。ちゃんと職には就いておいた方がいいわよって。あなた、そろそろ貯金も無くなって来たんじゃないの?最初にたまたま原稿でお金を取れたからって、それだけでやってくのは無理があるわよ。」
「でも日銭は稼いでる。」
「そんなの社会じゃ、稼いでるって言わないわ。」
 彼女は私の両頬を両手で包んで、柔らかく私の顔を上げさせた。そして、強い口調でこう言った。
「働きなさい、いい加減にして。いつまでも逃げてないで、現実に生きなさい。」
 しかし、私は醜く薄ら笑ってしまった。
「社会に拘り続けるのも、それはそれで選択からの逃避だ。私はそう思ったんだ。」
 ふと、私の視界に鏡が映った。鏡面は珍しく、正しい私の姿を映していたが、すぐに私の姿は消えてしまうのだった。

 そこには何もない。
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